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〜 夏の午後 〜


 デスクの上で電話が鳴った。

 取り上げたそれが示す今日の日付に気付いた途端、小さな感慨を覚える。
 電話は化学事業部の主任補佐からだった。手短に指示を出した後ゆっくりと椅子から立ち上がると、僕はオフィスの窓から見える抜けるような盛夏の空に目を向けた。
 容赦なく照りつける日差しが街路樹の下のアスファルトに濃い陰をつくり、外の暑さを物語っている。

 ちょうど一年前の今日だった。日本電機サービスとの合同企画で東京に行き、彼女に出会ったのは……。
 もしあの時日本に行かなければ、僕は今頃どうしていたのだろう。
 いや、あの時ばかりではない。多くの出来事が重なった上に、何よりも大切なこの日々があるのだから……。

 唯と暮らし始めてから、早くも半年が過ぎようとしていた。


*** *** ***


 日本電機サービス社との合同企画商品の売り上げは好調だった。それには、最後まで抵抗していた彼女を引っ張り出しての新商品のキャッチコピーも一役買っているのは間違いない。
 念願かなって、と言うべきか。検査の結果すぐに妊娠の事実が判明した後は、もう彼女が何を言おうが一切耳を貸さなかった。
 言葉どおり共に日本を訪れ、区役所でさっさと婚姻申告を済ませる。あとは彼女の新しい戸籍謄本を韓国に持ち帰り、こちらでの手続きも済ませてしまった。
 これこそ、果たした大仕事の最大の成果であり、心から満足のいく最高の仕上げだ。
 日本電機サービス社で再会した吉岡氏からは、やはりそうでしたか、とニヤニヤされる。彼女はひどくバツが悪そうな顔をしたが、そんなことは別に気にもならない。

 人のよさそうな彼女の御両親をひどく驚かせてしまったことが、一番申し訳なかったと思う。そして自分も日本語ができてよかった、とこれほど思ったこともない。
 僕らが彼女の実家で畳の部屋に正座してから約三十分。そろそろ足の痺れも切れてきた頃、ようやく最初の驚きが過ぎ去り、お二人ともこの文字通り降って沸いた異邦人を快く受け入れてくださった。
 心配していたらしい唯が、心からほっとしたように笑みを浮かべたのを見て、やっと肩の荷が下りた気がした。

 お袋もついにあきらめたように黙認している中、あれこれ合せた式の計画や招待客への手配と準備に手間取り、結婚式は結局旧正月明けになった。
 日本からは彼女のご両親や友人、それに日本電機サービス社の社長や専務数名他吉岡氏達も招いて、一流ホテルのホールで盛大に執り行う。
 派手なことを好まない彼女は激しく難色を示していたが、新発売の合同企画商品の披露パーティも兼ねていたから、それなりの式になったのもやむを得なかった。
 そして僕はと言えば、優美なウェディングドレスとベールに身を包んだ唯を目にした瞬間から、あとのことなど完全にどうでもよくなってしまった……。

 ハネムーンは二週間、オーストラリアを訪れた。広々とした空と海の下、開放感に溢れ思う存分互いの存在を確かめ合う。そして戻るとさっそく、引っ越したばかりの新しいアパートメントで二人きりの新生活を始めた。
 だが、残念ながらそうそうのんびりしてもいられなかった。僕自身が、家電事業部の決算が終わった翌月から本格的に部署を移り、新しい環境と仕事にまたしばらく忙殺されることになったからだ。
 それでもかつてと決定的に違うのは、疲れて家に帰ればいつも彼女が笑顔で労わりをこめて待っていてくれること。そして毎晩共に横たわるベッドで、心行くまで彼女を抱いていられることだ。
 もちろん今の彼女に無理は禁物だ。それでも抱き合いながら、痛みが伴うほどの激しい歓びを分かち合う方法はいくらでもあった。
 枕の上に乱れてかかる黒髪。汗ばんだ白いうなじを逸らして僕の下で小刻みに震えながら、感じ高まり達していくその刹那、普段凛とした彼女が見せる紅潮し今にもとろけそうな女の素顔。それを目にするたび僕自身もなお一層焼け付くような熱と力を帯びる。一切の始まりから僕を虜にしたその表情を飽きることなく眺めながら、滑らかな深淵に包まれたまま、いつまでもその中に溺れていたいと心から思う……。

 日々は文字通り満ち足りていた。
 我が子を宿した彼女のお腹が大きくなっていくことに、これほど深い感動が伴うことも全く知らなかった。あまり口にはしなかったが、彼女がさらに綺麗になっていくようで、少しまぶしかったほどだ。経過はしごく順調だった。


 やがて本格的に企画が始まると、大韓化成工業の本社に出向く機会も増えてくる。会議の後、キム社長からテーファの近況を耳にした。彼女は最近、あるパーティで知り合った政治家の御曹司と付き合い始めたそうだ。
 結果的に彼女の時間を無駄にさせたことが悔やまれていたから、これを聞いて密かに胸を撫で下ろした。テーファにも幸せになって欲しいと願っている。

 帰宅時間が遅くなることがさらに増え、結果一人で一日の大半を過ごす唯のことが気がかりで、時々会社から電話していた。だが、それも要らぬ心配だったようだ。
 いつの間にどこで聞きつけたのか、彼女の方から主婦向けのカルチャースクールに通い始めているらしかった。韓国料理を習っているの、と嬉しそうに習ったばかりの料理を作ってくれる。
 その上あろうことか、週ニ回の日本語教室の講師まで引き受けてきてしまったのには、まったく驚かされた。
『だめ? ほんの三か月だけだし、毎回午後のたった一時間なのよ。急にボランティアの講師が辞めちゃって、スタッフが足りないんですって』
 唯が懇願するように僕を見あげる。身体は大丈夫だろうか。少しためらった。だが、是非やりたいと言う彼女の熱心な目を見て、だめだとも言えなくなる。
 結局、決して無理はしないことを条件に許可した。彼女が自分なりに毎日をポジティブに楽しんでいることが、何より嬉しいと思ったからだ。
 そして、チョルヨンは言うに及ばず、チョン・チンジュさんともしょっちゅう連絡をとっているらしい。安定期の間はアフターファイブに、時々彼らと外出していたようだ。

 季節は再び巡り来て、またあわただしく過ぎ去っていく……。


*** *** ***


 彼女から急を知らせる連絡が入ったのは、その真夏日の午後だった。

『何だって? まだ予定日まで何日かあったはずじゃないか』
『予定ではね。でも、この子がもう出てきたがってるみたいなの。さっきから……』
『わかった。すぐに行くから君は絶対に運転するんじゃないぞ。お袋は? 今そこにいるのか?』
『ええ。準備してくださってるわ。そうなの、お義母様が一緒に来てくださるって……、だからそれまで部屋で動くなっておっしゃって……。あっ、また……』
 受話器の向こうで彼女が息を詰まらせたのがわかった。
『唯! 大丈夫なのか?』

 急きこんで尋ねるが返事はない。
 沈黙と同時に彼女の息遣いが荒くなったのがわかり、受話器を握る手に汗がにじんできた。もちろん冷静に考えれば彼女は今親父の家にいるのだから心配はないはずだった。
 臨月に入ってからお袋が是非そうしろと言い張ったためだが、今日ばかりは彼女がアパートに一人でないことが心底ありがたい。
 少し間があり、ようやく彼女がほっとしたようにため息と共に答えた。
『……もう平気。今十五分間隔くらいになってきてるの。これからお義母様と病院に行ってきます。あなたは心配しないで後からゆっくり来てね』
『いいか、唯、落ち着けよ。できるだけ早く行くから……。気を確かに持って頑張るんだ』
『わたしは落ち着いているし、気も確かよ。じゃあね』
 受話器の向こうでくすっと笑う彼女の顔が目に浮かんだ。思わず舌打ちして携帯を切る。
 まったく可愛気がないと言うか、彼女はいつもこうだ。
 だが確かに、咄嗟に出産に望もうとする妻にかけるべき言葉も失うほど狼狽してしまったのは、こちらの方だった。

 気を取り直し、すぐにいくつか電話をかけた。少し手間取ったが今日のこれからの予定を全てキャンセルすると、僕は急いでオフィスを後にした。


『生まれましたよ。三千二百グラムの可愛いお嬢様です。母子共にお元気で問題は何もありません』
 待ちに待った知らせを看護師が持ってきたのは、この部屋の寝台に横たわっていた唯が悲鳴をあげて身を捩じらせてから二時間以上経ってからのことだった。
 僕はその間中、待機室でいらいらしながら、椅子から立ったり座ったりして待っていた。母から、大の男が何だ、とあきれ返ったようにたしなめられるが、落ち着けと言われても、到底無理な話だった。
 文字通りできる限りの速さで病院にすっ飛んできた僕を見て、唯も嬉しそうだった。いよいよ分娩室に入るというときまでずっと傍に付き添っていたが、その間、額の汗をぬぐってやり、手を握り締めてやりながら、彼女の苦しそうな表情を見ているしかできない、というのは実に想像を絶した。思わずもう子供は一人でも構わない、と思ったほどだ。

 ああ、やっと生まれてきたんだな、僕らの娘が……。

 気がつくと深々と安堵の息を吐いていた。きれいに洗われ目の前に連れてこられたのは、丸まった手足を精一杯振り上げて泣き喚いている、くしゃくしゃの顔をした本当に小さな赤ん坊だった。ほんの小さな身体のどこからこんな声が出るのかと思うほど、元気な大声を張り上げている。
 その姿を一目見るなり、こみ上げてきた感動に胸が詰まった。手渡された泣き喚く赤ん坊をおっかなびっくり抱き取った。熱くて力なくそしてひどく頼りない身体を落としてはいけないと、柄にもなく大層緊張する。
 お袋がいそいそと付いて、赤ん坊が新生児室に連れて行かれた後も、しばらくその場にじっと立ち尽くしていた。
 このぬくもりは、一生手の平に残るだろうと思った。


*** *** ***


 セナが生まれてから、一週間後の昼時……。今日も外は猛烈に暑い。

 近くまで来たついでに妻と娘の顔を見ようと、ビジネススーツのまま唯が入院している産科病棟の特別室に立ち寄った。病院内は空調が効いてちょうど良い具合だ。
 赤ん坊は授乳のときだけ看護師が唯の部屋に連れてくる。今も新生児室の小さなベッドですやすやと気持よさそうに眠っていた。
 唯はこの娘が僕に似ていると言い切るが、どこがそうなのかさっぱりわからない。
 だが、その無心な寝顔を見ているだけで、何とも言えない愛しさと優しさが満ちてくるから不思議なものだ……。


「どうして韓国の女の人ってこれに我慢できるの? 来る日も来る日も、朝昼晩同じものが一週間も続くなんて、もう信じられない!」

 唯の病室に入ると、日本語でこう呻くような声が聞こえてきた。
 ちょうど昼食中だったようだ。お下げに編んだストレートの黒髪をいらだたしそうに背中に振り上げて、スプーンを手に恨めしげに手元のトレーを睨んでいる。彼女が日本語になるのは、付き添いの婦人にあまり聞かれたくないことを言うときだけだ。
 僕は思わず噴出しそうになった。だが、彼女の静かな怒りの火にさらに油を注ぐのも得策ではない。一緒に暮らしてみて、彼女も怒らせたら結構怖いのだ、とよくよくわかってきていた。
 この日本女性は韓国の女性達のようにカーッと瞬時に火が付いたように怒りを燃え上がらせる性質ではない。むしろ一見怒っていることさえわからないほど穏やかに見えながら、その実怒りの炎はじわじわと消えずに燃え続け、うっかりしていると、こちらがその原因すら忘れた頃にやけどをするはめになる。

 笑いを噛み殺し、僕はわざともったいぶった顔で彼女に近付いていった。

『気持ちはわかるよ。だが、これはこの国の産婦への伝統的な風習みたいなものでね。同情はするけど、おそらくあとひと月はそのわかめスープと付き合ってもらうことになると思うな』
 僕の声に、はっとしたように唯が振り向いた。
『ソンウォンさん!』
 驚いたように僕を呼んだ唯の表情が、心を捉えて離さないあの笑顔に変わる。だが、その表情も束の間、言葉の意味が飲み込めたのか目を丸くして反芻した。
『ひと月? ってまさか……、これから一か月も朝昼晩、毎食これなの?』

 見るからに呆然としている唯に、付き添いの太った年配の婦人が朗らかに言った。
『まぁまぁ、何のことをおっしゃっているのかと思ったら! もちろんですとも! わたしなど娘のためにそれを百日まで作り続けましたよ。そのわかめスープは身体の血液を綺麗にして、エギオンマママのお乳をよく出すんです。ほら、早くお召し上がりくださいな。エギ赤ちゃんがお腹がすいたとまたすぐ来てしまいますからね』

 百日と聞いてさらに嘘でしょ? と言うように目を見張った唯に近付くと、僕は笑いながらその滑らかな頬をそっと指先で撫でた。
『うちに手伝いに来てるヨンミさんも、とうにわかめスープ用の大鍋を持ち出してきてるよ。君達二人が帰ってくるのを今か今かと待ち構えてるんだ。まぁ、メニューに文句が言えるくらい元気になったのなら結構だ。明日予定通り退院できそうだな。ほら、君が頑張って食べないと、セナもおなかがすいて何度も泣くだろ? 今はあきらめて、残さずきちんと食べること』

 両方からこう言われ、彼女は負けた、と言う顔で脱力したようにがっくりと肩を落とした。


 スーツのポケットでまた携帯が唸り始めた。
 僕は立ち上がると、明日の午前中に迎えに来るよ、と言い置いて部屋を出た。
 せめて明日帰ってくる彼女のために、僕らの部屋を彼女の好きな花で満たしておいてやろう、と考えながら……。



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