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「あら、ごめんなさい」
アリシアはわざとにっこり微笑むと、少しも悪びれずにレナードを見返した。
「あなたもダンスをなさるなんて、まったく知らなかったんですもの」
「なら、覚えておいて欲しいね」
レナードは苛立ちを抑えて呟くと、細い腰を抱えてホールに進み出た。彼女の表情から余裕が消え、細い身体が緊張するのがわかったが無視した。
気配を察知したように、話題の二人に周囲の視線が集まっている。
音楽が始まると、彼は流れるようにリードして踊り始めた。
予想よりずっと上手だった。アリシアは内心の驚きを隠し、何とか澄ました顔でターンしたが、開いた襟ぐりから覗く胸元に彼の視線を感じるたび、頬がほてる気がする。
どうしたの? たかがダンス……。今まで何人もの男性と踊ってきたじゃないの。
そう、自分を叱るが、間近にある青い瞳を見るまいとすればするほど、つい目が行ってしまう。自然に流した金髪が、少し乱れて首筋にかかっているのにも……。
間近で見ると、記憶していた以上に顔立ちは端整だ、と改めて思う。確かに【レナード】(獅子)と言う名に相応しい外貌をしている。
いやだわ。どうしたのかしら……。
心臓の鼓動がいつになく強く脈打っていることを、絶対に気付かれたくなかった。
ああ、この曲はいつまで続くの? あと何分、踊っていなくてはならないのかしら……。
ふいに、耳元で低い声がした。
「何だか落ち着かないな。さっきまで、もっと楽しそうに踊っていたじゃないか」
「そう? でしたら、お相手によるのかもしれないわね」
たじろいだように間があり、一瞬、彼女の腰を抱いている手に、ぐっと力がこもった。
「レディ、どうやら、歩み寄るつもりは全くないらしいな」
「やっとおわかりいただけたなら、嬉しいわ」
わざと甘ったるい声を出して、強張った笑みを向ける。だが、彼の青い目は、かすかに細められただけだった。
「申し訳ないが、僕から逃げ出そうとしても無駄だよ」
「なんですって?」
「今、世間には、僕が君の婚約者なんだ。僕には君と優先的に過ごす権利がある。君が赤毛の伊達男に、笑顔を振りまいては媚を売るのを、これ以上黙って見過ごすつもりはないな」
「『笑顔を振りまく』? 『媚を売る』ですって? 誰がそんなこと……」
あまりにも失礼な言葉に思わず足が止まってしまった。今まで、面と向かってこれほど侮辱されたことはない。アリシアの目に怒りが炎のように燃え上がった。
いつの間にか曲が終わっていた。それでもまだにらみ合って立つ二人に視線が集中している。
先に気付いたアリシアが、周囲に向けて、無理矢理笑みを繕った。
「何でもないんです。皆様、どうぞお続けになって……。少し疲れましたので、わたくし、もう失礼しますわ」
優雅に会釈すると、レナードを置いてさっと歩き出した。だが追いかけてきた彼に廊下で捕まり、強引に隅に引っ張られてしまう。
「まるで野蛮人ね!」
振り向いた彼に、軽蔑したように言い放つが、びくともしない。
「君こそ、さっきからその態度は何だ?」
「『何だ?』とは、何がかしら?」
むっとして見返した途端、一瞬、言葉に詰まってしまった。
今、レナードの瞳には怒りと共に、得体の知れない何かが炎のように揺らめいていた。アリシアは息を吸い込んだ。掴まれている腕を何とか振り解こうと、つい命令口調になる。
「手を放して! 大声を上げるわよ」
「やって見ればいいさ。前のように封じるまでだ」
「この……!」
その傲慢な態度に腹が立ち、アリシアは平手打ちを加えようと、自由な方の手を振り上げた。だがそれもやすやすと掴まれてしまう。両手を拘束され、今や心臓がせり出すほど打ち出した。開いたレースの襟ぐりから見える胸元が、波打つように上下している。
突然、彼の顔が目の前に迫ってきた。避ける暇すら与えられず、荒々しく唇を奪われていた。
まるで罰するようなキスだった。けれど、そこには初めて知る男の激情もこもっていた。波にさらわれるような不思議な感覚に呑まれかけたとき、彼の舌先が少し開いた彼女の唇を割って、本格的な侵略を開始した。
熱い舌が否応なしに口内をまさぐり、彼女の舌を絡め取るように触れてくる。その未知の感触に怯え、呻いてぱっと目を見開いた。涙が零れそうになる。
さらに抱き寄せようと彼の手が動いた隙に、夢中で身を振り解いた。荒い息をつきながら睨みつける。
アリシアの目に光る涙に初めて気が付いたように、レナードが呆然とした表情を浮かべた。その顔に、夢中で平手打ちを加える。手のひらがじんと熱くなった……。
「よくも、こんなこと……!」
とうとう頬に涙が伝い落ちた。レナードは打たれた跡が白く残る頬を隠そうともせず、唇を引き結んだままじっと立っている。
彼女の全身が今や抑えようもなく震えていた。
「恩人だと思って、何とかお付き合いしてきたけれど、それももうお終いよ。あなたには二度とお会いしたくないわ! このお話、なかったことにさせていただきます!」
声を聞きつけたように、背後に人だかりができ始めた。スタンレー侯爵家の付き人とホールの支配人が、慌てたように近付いて来る。
アリシアはそのままくるりときびすを返すと、足早に会場を後にした。
その場に立ちつくしたまま、去っていく後ろ姿を見つめる青い瞳には、暗い煌きが宿っていた。
◇◆◇ ◇◆◇
その夜は、何事もなくスタンレー邸に帰りついた。だがアリシアの心は、屋敷に帰っても収まらなかった。
恐る恐る御用伺いに来た侍女に、沐浴の支度を命じたアリシアは、大急ぎで準備された暖かい湯舟に浸ると、ようやくほっと一心地つく。
もう二度と、彼のことを考えてはだめよ。
湯をはねかせながら、アリシアは自分に強く言い聞かせていた。
あんな男のことは、きれいさっぱり忘れることだ。父にもさっそくお断りしなければ。大体、よく知りもしない相手を婚約者と認めるなんて、無謀すぎたのだ。
白い腕に、彼につかまれた跡が赤くなって残っていた。こびりついた汚れを落とすように、何度もその部分をごしごしこすってみる。
疲れているにもかかわらず、その夜はなかなか寝付かれなかった。
四柱式寝台のカーテンに囲まれ、刺繍入りのクッションに埋もれて、幾度も寝返りを打った。目を閉じては瞼の裏に憎らしいレナードの顔が浮かび、ぎょっとして目を開くことを繰り返す。
これまで、兄弟同然の相手からの親愛のキスしか知らなかった。それ以外の紳士に許せるのは、敬意を持って手に触れるかどうかの口づけをする程度……。
なのにあの男は……。礼節を一切無視し、まるで自分の心まで、いきなりこじ開けるようなキスをしてきた。
あんなキスが許されるのは、夫か、夫となるべき相手だけなのに……。
『自分が仮初にも【婚約している】という自覚があるのかな? そろそろフィアンセと……』
いいえ、あなたとは、もうおしまいよ。レナード・ウィンスレット!
◇◆◇ ◇◆◇
すでに深夜に近い時刻になっていた。
街角のネルソン提督の肖像を模写した看板がかかったパブの中も、人影はまばらだった。
「くそっ!」
グラスの音とともに唸り声が漏れた。店内のランプの下、先ほどからカウンターに向かって酒をあおっては悪態をついているレナードを、傍らの御者が心配そうにいさめている。
「旦那様、それくらいになさった方が……。もうお屋敷にお戻りになりませんか?」
「そんなに帰りたいなら、お前一人で帰ればいいだろう!」
今夜は酔いしれたい気分だった。先ほどの夜会での彼女にまだ腹が立っていたし、それ以上にかっとなってしでかした自分の行為に、激しい自己嫌悪に陥っていた。
あんな女は、俺の手に負える相手ではない。所詮、高嶺の花だったんだ。満身創痍になる前に、さっさと手を引け!
俺にはもっと、つつましくて愛らしい女の方が向いている……!
さっきから自分に、何度もそう言い聞かせてみるが、そのたびにアリシアの泣き顔が目の前にちらつき、さらに複雑な気分になっていた。
あの令嬢のことだ。今頃はもう、侯爵に報告しているだろう。そもそも、あんな馬鹿な真似をして、今更どうやって挽回できるというのだ?
考えるほど、ますます苦いものがこみ上げ、彼はまたグラスをあおった。
御者にかかえられるようにして何とか自邸に帰りつき、そのまま泥のような眠りについた。
一夜明け、翌朝遅く目が覚めたとき……。
彼の心には、昨夜何度も反芻した思いとは、正反対の決意が生まれていた。
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10/9/20 再掲
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