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レナードの指が頬に触れた。知らないうちに涙が頬をぬらしていたのだ。こぼれる雫をぬぐってくれる指先は、いたわりに満ちて優しかった。アリシアは慌てて彼の肩に目を向け直す。
「痛むでしょう? ごめんなさい、わたしのせいだわ……」
「たいした傷じゃない。向こうでは、もっとひどい傷を負ったこともある。気にしなくていい」
「……でも、どうして? 誰がこんなことを? わたしが何をしたっていうの?」
もう限界だった。張り詰めた緊張の糸がぷつりと切れたように、涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
レナードが優しく何か呟き、引き寄せてくれたときも抵抗しなかった。しっかりと腕に抱き締められたとき、とうとう燕尾服の胸に頭を寄せ、恥も外聞もなく泣きじゃくり始めた。
時折慰めの言葉ともに髪に額に触れる彼の唇が、傷ついた心にやすらぎを与えてくれる。
ようやく泣き濡れた顔を上げたとき、彼は優しく言った。
「君のせいじゃない。頼むからもう泣かないでくれ。君に何事もなくて、本当によかった。もし、君に何かあったら……、そう思うだけで千倍もぞっとするよ」
聞くなり、アリシアは思わず顔を寄せ、自分から彼の唇にそっとキスしていた。
レナードが驚いたように静止した。それはほんの一瞬のキスだった。あわてて顔を離すと間近で見つめる青い瞳に吸い込まれそうになる。
今取った自分の衝動的行動に、アリシア自身も驚いていた。とまどって頬を赤らめ、彼から離れようとしたとき、力強い手が彼女の顔を再び捉え、上を向かせた。
この誇り高い侯爵令嬢が、震えながら自分に身を委ねている。それ自体が奇跡だった。その時、レナードは肩の痛みさえ忘れた。信じられない思いで彼女をもう一度抱き寄せると、できる限り自制しながら、花びらのような甘い唇を覆い尽くす。
そっと舌先で探り始めると、びくっとしたように震えるが、それでも身を振りほどきはしなかった。何度か辛抱強く繰り返すうち、彼女もおずおずと応え始める。
アリシアもまた、何かに駆り立てられるように彼を求めていた。レナードが無言で、嫌なら今すぐ言ってほしい、と問いかけているのが分かったが、そうしたいとは思えなかった。
沸き上がるおののくような感覚の中で、むしろアリシアの方からたくましい身体に身を押しつけていった。
彼女の手がおずおずとレナードの首筋に触れた時、低い呻き声と共に手に一層力がこもった。細い身体を抱き締め、柔らかな唇のさらに奥まで入っていく。
熱い侵略に怯み、アリシアは一瞬目を開いた。だが、すぐに彼の情熱に圧倒されたように再び目を閉じると、おずおずと舌を触れ合わせはじめた。レナードはその味わいに酔いしれた。二人の間を、甘美な時間がたゆたうように流れていく。
馬車が曲がり角でがたんと大きく揺れたとき、二人は初めて何をしていたか気付いたように、身じろぎして顔を上げた。
激しいキスに、アリシアの顔は紅潮し、唇が少し腫れ、黒い瞳も熱っぽく潤んでいる。恥らうように目を閉じてしまったのを見て、レナードは微笑んだ。
本当に愛らしい。この氷の華を完全に溶かすためなら、満身創痍になっても構わない。
だが、そんな内心の情熱とは裏腹に、口をついて出たのは揶揄するような言葉だけだった。
「やっと少しは、慣れてくれたようだね」
とたんに、きゅっと足を踏まれ、あっつ、と唸ってそのままシートに撃沈した。怒ったように、ぷいとそっぽを向いたアリシアの横で、レナードはくっくと声を殺して笑っていた。
肩の怪我をおして、彼はアリシアが無事に侯爵邸の扉から中に入るまで付き添ってくれた。
これから、どうすればいいのかしら?
別れ際、アリシアは尋ねるように彼を見上げた。レナードが、意を決したように力強く口にする。
「もしよければ、しばらく僕の領地にあるディウィック・ホールに来ませんか? 南西部の田舎だが、今はロンドンにいるより安心して過ごせそうだ。ラベンダーとアザレアが美しい季節ですよ」
アリシアの瞳がぱっと輝いた。彼の領地に行く。とてもいい考えかもしれない。
それにその申し出を受ければ、いつもこの人と一緒にいられるのだ。わずらわしい人目を気にすることもなく……。
彼女は心から頷いた。
「ええ、行ってみたいわ」
「では、近いうちにご招待を」
わざと形式張った礼をして去っていくレナードを見送って、アリシアは胸がときめくのを感じていた。
◇◆◇ ◇◆◇
ロンドンから、汽車と馬車を乗り継ぎ、初夏の空が黄昏色に暮れかかる頃。
なだらかな緑の丘陵地をいくつも越えた先に、目指すディウィック・ホールが見えてきた。
「あれだよ」
レナードに言われ、馬車の窓から外を覗いたアリシアは、思わず歓声をあげた。
レンガ造りの大きな館の景観を演出するにふさわしく、美しく刈り込まれたイチイの木々の向こうには、薄紫のラヴェンダーとピンクのアザレアに埋まったガーデンが、城館に続く薔薇のアーチまで続いている。
「本当に見事ね。こんなに美しい庭園、イングランドでも貴重よ。あなた、もっと自慢していいと思うわ」
率直に感動を伝えると、彼は微笑んだ。
「他ならぬ君にそう言ってもらえると、嬉しくなるよ。馬車から降りて歩いてみるかい?」
「ええ、そうしたいわ」
誘われるまま、共に降り立った。お供と荷物を乗せた馬車を先にやって、しばし二人きりで庭園を散策する。
スタンレー家のカントリーハウスの様式とはまた違う、南西部らしい趣きを心から楽しんだ。ここに来て警戒を緩めたのか、隣を歩くレナードも、いつになくくつろいで、晴れやかな表情をしている。
「この薔薇は祖父が祖母ために品種改良させたものでね。イングランドでもっとも美しいと言われている。初めて君を見たとき、すぐに思い出したんだ」
アーチまで来ると、彼はこう説明しながら鉄柵に絡みついている瑞々しい赤い薔薇を一輪手折って、コサージュのように襟元につけてくれた。
「やはり……。君に似合うと思っていた」
感嘆したように呟き、目を細める彼に、アリシアが少しはにかんだように微笑み返す。
彼の右手がアリシアの首筋に優しく触れた。指を滑らせ、そっと顎を持ち上げると、問いかけるように瞳を覗き込む。
彼が身をかがめてきたときも、もう嫌とは言えなかった。まるで抑え切れない、というように唇を重ねてきた彼を、待ち望んでいたように受け入れた。
大きな身体がかすかに震え、抱き寄せる腕にぐっと力がこもる。数日ぶりの互いの感触を存分に味わいながら、キスは甘い熱を帯びて深まっていく。
しばらくして、ようやくレナードが顔を上げた。まだ名残惜しそうに彼女の顔を見ながら手を離す。互いに何も口にはしなかった。言葉にすれば、この満ち足りた幸福感が消えてしまいそうな気がする。
二人は寄り添って、本当の恋人同士のように腕を組み、一緒に館に入っていった。
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10/10/6 再掲