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 結局、奈美のもとの業務は、一か月間他のスタッフと交代になった。
 パク・ユンソクは日本滞在期間を最大限有効に過ごそうと決意しているらしかった。暇さえあれば、あちらこちら見て回りたいというように、三十分、ひどいときは十分単位に、奈美を呼び出した。胸に下げた携帯が振動するたび、奈美は何を置いても車で走ることになった。
 さらに気が付けば、彼女は同僚達の羨望の的になっていた。わざとらしい中傷や陰口を聞かされ、うんざりすることもしばしばあった。ハングルがちょっとできるからって、いい男独り占めにはほんとむかつく、などというロッカー室での幼稚な会話もしばらくは聞き流していたが、ある日ついに我慢できなくなり、ロッカーの陰から出ていくと、噂していた二人の後輩に向き合った。
「そんなに言うなら大野部長に直談判してみれば? 上層部のお許しが出たら、いくらでも代わってあげるわよ」
 黙りこくった二人をわざとひと睨みすると、奈美は勢いよくロッカールームを出ていった。
 彼と出会ってから、すでに半月が過ぎようとしていた。


 そんな奈美の気苦労も知らず、当の本人は今日も気持のいい午後の新宿を歩きながら、あれこれ感じるまま韓国語混じりに彼女に話しかけていた。だんだん知ってみると、彼は外見からは思いがけないほど、気さくで楽しい話相手だった。
「奈美さん、ちょっと待って」
 ふいに背後からこう呼び止められ振り返ると、しゃれたアクセサリーショップから顔だけひょっこり出している彼がいた。
 おいでよ、と手ぶりで呼ばれ、店に入るなり目の前に二つの繊細なゴールドのイヤリングをぶら下げられる。
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
「お国のお友達にお土産ですか?」
「どっちがいい?」
 ちくりと痛んだ胸を押さえて見上げると、笑みのにじんだ優しい眼差しがあった。思わず微笑み返してしまう。
「そうですね。わたしでしたら、こちらのほうが好きかしら。でも、あなたのお国の女性でしたら、もう少し派手なものの方がいいのではありませんか?」
『なるほど、そういうものか。やはり僕らとは感覚が少し違うみたいだな』
 彼がこうつぶやいたのがわかった。すぐ奈美がいいと言った方に決めると、車に戻ってから「これ、君に」とラッピングしてもらったばかりの小箱を差し出した。
 奈美が戸惑ってただ眺めていると、彼は自分でその包装を解いてしまった。
『そんな髪型にしていると、耳がとても寂しそうに見えるんだ』
 こう言いながらイヤリングを箱から取り出し、束ねた黒髪から覗く両方の耳につけてくれる。彼の指がそっと耳たぶに触れた途端、奈美の心臓は急に大きな音をたてはじめた。彼に聞こえたらどうしよう。居たたまれなくなって、とっさに目を閉じてしまう。
『ほら、よく似合う。やっぱり思った通りだった』
 その声におそるおそる目を開くと、じっと自分を見つめる陰りを帯びた眼差しにぶつかった。彼の指先がそのまま頬のラインを辿り、優しく襟足の後れ毛をかき上げる。
 身体が小刻みに震え出すのをどうすることもできず、奈美はとっさに前を向いてハンドルを握り締めると、場違いな大声をあげてしまった。
「あ、ありがとうございます! それじゃ行きます!」
 思いがけない動揺を振り切るように、いそいで車を発進させる。
 耳につけた真新しいイヤリングの感触。運転しながらも彼がずっと自分を見ているような気がして、まったく落ち着かなかった。



*** *** ***



 恋は突然やってくる。TPO一切構わず、しかも一番やっかいな相手と……。

 少なくとも奈美にとってはそうだった。ユンソクとの関係が、あんなにものっぴきならないほど深くなってしまうとは。



 五月下旬のある夜、ユンソクは他の会社役員達とともに都内のホテルで開かれる、大手家電メーカーの創業三十周年祝賀会に参席することになっていた。もちろん一介のOLに過ぎない奈美には、縁もゆかりもないパーティだ。着ていくドレスもあるはずがない。
 当然一緒に行くものと決め込んでいるユンソクに、そう言って辞退すると、彼は奈美にすぐさま都内でも有名なデザイナーブティックに連れていくように命じた。
 訳もわからずとにかく案内すると、出てきた店員に彼は至極当然な顔で彼女を指し示し、奈美に試着してみるようにと薦める。どんなに断っても着てみろの一点張り。ついに根負けし、さらに目の前の美しいドレスへの憧れも手伝って、生まれて初めて身に着けるような高級で繊細なドレスを数着、どこか引っ掛けたら大変とこわごわ試着していった。
 奈美が試着室から出てくるたびに、ユンソクはひどく真剣な眼でじっと見ていたが、何枚目かのドレスを着て出てきた途端、すぐにこう言った。
「これにしよう。君に一番よく似合うと思う」
 本気なのかと目を丸くして、ドレスとユンソクを見比べているうちに、そのドレスに合う靴とバッグ、さらに下着までが揃っていた。クレジットカードが渡され、ブティックの女性のにこやかな追従を背に店を出る。
 それまで、ほとんどあっけにとられていた奈美は、彼が『行こう』と歩き出した途端、はっと我に返ったように彼に食って掛かった。
「本当に困るんです! こんなにしていただくわけには絶対にいきませんから! だ、大体このドレス、おいくらだったんですか? わたしにはとても一度にお支払いは……」
 怒ったように噛み付く彼女の顔を見ながら、彼は一つため息をついてその言葉を遮った。
『今日のパーティには大勢の名士達も来る。君がいてくれないと困るんだ。言葉が通じないこともあるだろうからね。これは時間外手当てとでも思えばどう?』
 落ち着いた諭すような口調の中に、今までとは違う何かがこもっているような気がした。
 彼を正視するのが突然ひどく難しくなり、思わず目をそらして口ごもる。
『……で、ですが……、わたしにはこんなドレスは全然似合わないです。柄じゃないわ』
『本当にそう思うの? それじゃ、あとでもう一度着たときに鏡をじっくり見るんだね』
『それに、わたしなんかがパーティに行ってもいいのかどうかもわからないんですよ。重役の方々が何とおっしゃるか……』
 ふいにユンソクは「黙れ」というように片手で奈美の口をふさいでしまった。
『もういいだろう? さて、次は……』
 何を言っても聞き入れてくれそうにない。そう気付いて開いた口をまた閉じてしまった。唇に何気なく触れた彼の指の感触に、心臓がまたとくんと音を立てる。
 そんな彼女の複雑な胸の内も知らぬげに、ユンソクはまたもや強引に奈美を引っ張って行った。今度は都心でも一流の美容室だ。普通なら予約なしには到底無理な店だった。
 その美容師のかけた魔法のおかげか、できあがり鏡に映ったのはあのしがない黒木奈美とはとても思えない、洗練された見知らぬ都会の女だった。



 パーティは大成功だった。
 ライフエレクトロニクス社から出席していた社長や専務、常務達も、ユンソクと並んで歩く彼女に異議を唱える者は誰もいなかった。ブラックスーツを着こなし、穏やかな微笑と年齢よりもはるかに落ち着きはらった物腰、流暢な日本語で周囲を魅了していくパク・ユンソクの手並みは見事だったし、言葉がわからなくなると奈美が通訳して問題はまったくなかった。
 時折若い女性達から羨望や露骨な嫉妬の眼差しを向けられ困惑することもあったが、次第に慣れて、初めてのパーティを楽しんでいる自分に気付く。まるで御伽噺のシンデレラになった気分だ。何より、ユンソクがいつも自分を見守ってくれているようでとても嬉しかった。
 どうやら無事に終わったときには、かなり夜も更けていた。



*** *** ***



 いつものように奈美が運転する車でユンソクのホテルに帰るまでの間、彼は助手席のシートにもたれて目を閉じ、小さな声で何か韓国の歌を口ずさんでいた。珍しいこともあるものだ。少し酔っているのかしら。
『ユンソクさん、着きましたよ。どうかなさったんですか?』
 ホテルの車寄せに停車したのに、彼はなかなか動こうとしない。不思議に思って振り向くと、自分をじっと見つめている黒い瞳にぶつかった。
 いつからそうやって見ていたのだろう。ドレスの深い襟ぐりが急に気になりだし、奈美は彼から目をそらすとそわそわとボレロの前を手でかき合わせた。
 そのとき感心したような低い声がした。
『奈美さん、まだ言ってなかったんじゃないかな。本当にきれいだよ。さっきのパーティでは君が一番だった』
『ま、またご冗談ばっかり……』  奈美はわざと顔をしかめて、たしなめるように答えた。
『そんなことおっしゃると本気にしちゃいますよ』
『本気にしてほしいんだけど』
『やっぱり、ちょっと酔っていらっしゃるみたいですね』
『……ああ、そうかもしれない。悪いけど部屋まで送ってくれないか』
『え? ええ、それは構いませんが……』
 珍しいこともあるものだ。そう思いながら車を駐車させると、奈美はいつになく無言で彼女の肩を抱えるようにして歩くユンソクにひやひやしながら、初めてホテルの彼の部屋まで一緒にあがって行った。
 ドアを開けて入った途端、その美しいスイートルームに思わずため息が漏れる。
 でも、たかが研修でこんな部屋に一か月も泊まれるなんて、いったいどういう人だろう?
 途端に、奈美は立ち入りすぎたと感じた。挨拶して帰ろうとするより早く、彼の笑いを含んだ声が追いかけてきた。
『もう少し付き合ってほしいな。君も少し飲まないか?』
『いえ、車を運転して帰らないといけませんから。それに、もうお休みになったほうがいいと思いますよ。そんなに召し上がったようには見えませんでしたけど、もしかして案外弱い方なんですか? お酒は』
 彼はふっと微笑んで無言のまま、おもむろにネクタイをはずして椅子の背に放り投げた。ついで、スーツの上着を脱ぎ、これも椅子の背に投げかける。彼の指が白いカッターシャツのボタンをはずし始めたとき、それまで驚きの目を見張っていた彼女は、我に返ったように目をそらせてあとずさった。
「わ、わたしったら何をぼんやりしてるのかしら。すみませんでした! それではお疲れ様でした。これで失礼します」
 一礼すると、急いできびすを返しドアに手を伸ばそうとした。だが、一瞬早く近付いてきたユンソクの手がドアを押さえる。思いがけない言葉が聞こえた。
『どうして? 今夜は帰らなければいい。明日は休日じゃないか』
 わが耳を疑うようにぴたりと動きを止めた奈美の手をつかむと、ユンソクはそのまま腕の中に彼女を引き寄せた。
「ユ、ユンソクさん? やっぱり、かなり酔ってらっしゃるみたい。だ、大丈夫ですか? しっかりして……」
 思いがけないその行動に息を呑み、声が上ずった。彼が耳元で囁きかける。
『本当にそう思った?』
 衝撃を受け大きく見開いた奈美の瞳を、ユンソクはまるで何か探すようにじっと見下ろしていた。やがて細い腰を抱き寄せたまま、もう片方の手でそっと髪飾りのピンを引き抜く。
 アップにしていた髪がはらりとほどけ、黒髪が流れるように頬から肩に落ちかかった。
『ずっと見てみたかったんだ。こうして髪をほどいた君を……』
 催眠術にかかったように身動きもできずにいる奈美の目の前に、彼がそっと頭をかがめてきた。次の瞬間、呆然とする彼女の唇に彼の唇が優しく重なった。

 最初、それは気持を問いかけるような、触れ合うだけの控えめなキスに過ぎなかった。だが、奈美が抵抗を見せず、むしろ自ら少し唇を開いて彼を受け入れはじめたとき、そのキスの仕方が変わった。
 彼は大きく吐息をついて彼女をさらにきつく抱き締めると、まるで身体の奥底から渇望を呼び覚まされたように身震いした。さらに唇を開かせ激しく舌を求めてくる。奈美の背筋にぞくぞくするような快感が走り、二人はドアの前でしばらくむさぼるように互いの唇を味わっていた。
 やがてユンソクは引きはがすように顔を上げ、困惑し切ったように俯いてしまった奈美のあごを指でそっと持ち上げた。
『奈美さん、僕を見て……』
 促され、おそるおそる彼の顔を見あげた。彼女を見つめる眼差しは暗く、息を呑むほど真剣だった。
『怒った?』
「………」
『いやかい?』
 嘘はつけなかった。自分自身すら気付かなかったほど、心中密かに抱いていた夢が実現しようとしている今は……。
 常識的には、こういうとき愛とかそういうものを期待してはいけないのだろう。それこそ馬鹿げている、と頭の片隅で小さな声がした。だが、たとえ彼が望んでいるのが今夜一晩限りの軽い関係でも、今目の前に差し出された強烈な誘惑を拒むことなど、到底できそうにない。

 奈美はあきらめたように再び目を閉じ、無言で首を横に振った。



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07/02/08 再掲