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〜〜  side  パク・ユンソク  〜〜


後  編


― Seoul ―


 夜もかなり更けてきていた……。
 静けさの立ちこめたオフィスに残り、今夜も一人仕事を続ける。

 あの別れから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
 マウスを動かす手を置き、椅子の背に頭を持たせかけてそっと目を閉じる。
 オーバーワークなのは重々承知していたが、他にどうすることもできない。毎日が無味乾燥でただ空虚だった。

 デスクの電話に目を向ける。

 我知らず手を伸ばしかけ、気が付いてまた引っ込める。いつも唐突に襲ってくる衝動だった。
 かけたい相手の番号はとうに暗記してしまっている。まだ一度もかけたことさえない、というのに。

 ……疲れた。

 ふと、デスクの端に積み上げられた書類の山に目を向けた。目を通さなければならない書類の中に、目を吸い寄せたプロジェクト名のファイルがあった。
『ジャパンエレクトロニクス社との合同企画試案』
 たくさんの企画書の中でそれが殊更目を引いたのは、その企業が日本で有数の家電メーカーであり、かつて出向いたことがあった、というだけではない。何よりその会社名が彼女の記憶と分かちがたく結びついているせいだった。伸ばす手が震えるのはなぜなのか考える暇もなく、ファイルを引き出すなりむさぼるようにページをめくり始めた。

 ……これはいける。

 その企画が自分の中で形を成していくにつれ、自社事業の発展と共に、完全に失われていた彼女との接点が、再び見えてくるような気がした。
 久し振りともいえる奇妙な安堵感が胸を満たした。そのとき渋々ながら、自覚せざるを得なかった。
 もうとうの昔に限界は超えていたのだ……、と。

 夜のオフィスの静けさの中で、頑ななプライドを投げ出し、自分自身に率直に向き合った時、ようやくはっきりとそう認めた。
 この一年、日本に行ってもう一度彼女に会おう、というやむにやまれぬ衝動に、何度抗ったことだろう。夜毎肉体をさいなむ痛みと闘うことにも、もう完全に飽き飽きしていた。
 それでも自ら断固日本行きを、そして彼女と接触することさえ拒んでいたのは、あの最後の夜、彼女から投げつけられた言葉のせいだった。

『あら、あなたは違うと言ってくださるの?』
『無理しなくてもいいのよ。この一か月間、本当に楽しかったわ』

 愛とプライドを同時に打ち砕いた、残酷なほど正直な彼女の言葉……。
 今も思い出しては苦い笑いが口をつく。

 だが、いかなる理屈を並べたてようと、もはや完全に限界だった。役に立たないプライドも、今自身の敗北を完全に認めていた。
 何としても、もう一度彼女に会おう。どのみち、このままでは身動きがとれないのだ。
 彼女を捕まえるか、さもなくば脳裏に焼きついて昼となく夜となく不意に意識の中に紛れ込んでは心を撹乱させる、この厄介極まる彼女の幻を、完全に払拭してしまうのだ。

 そう、ただの幻影に焦がれているだけなのかもしれない。そのときには、きれいさっぱり忘れてみせる。

 そう決意した後は、そのプランを実現するため、ジャパンエレクトロニクス側と交渉し、こちらの経営陣にも働きかけ、忙しく奔走することになった。
 さらに向こうの管理職の人間から社長にまで、あれこれ手を回して、合同の企画会議を設定することに成功する。

 そして数ヵ月後。深まり行く秋の午後……。



*** *** ***



 彼女がゲートからゆっくりと出て来た。一緒にいる痩せた中年男が日本側のプロジェクトの責任者だろう。
 すぐに出て行かず、少し離れた場所から一年ぶりに彼女をつくづくと眺めた。
 彼女に総じて変化は見られなかった。相変わらずの堅物秘書のようなスーツスタイルだが、髪形だけが少し違っていた。ウェーブがかかったせいで、元来の生真面目さが和らぎ、華やいだ印象を受ける。
 緊張しているらしい彼女の表情を見ているうちに、鼓動が早くなってきた。
 それでも、急く気持を抑えわざとゆっくりと二人に歩み寄る。挨拶しながら握手の手を差し伸べた。最初は吉岡に、それから……彼女に。
 僕を認めた瞬間、その顔に明らかに激しい狼狽がよぎった。だがすぐに視線を逸らし、まるで仮面でも被せたように無表情になる。僕を見て、少しは嬉しそうな素振りをするかと期待していたが、そんな気配もことさら窺えなかった。

 ……だが、とにかく覚えてくれていたようだ。


 橋本氏と話しながら、背後の彼女を鋭く意識していた。車の中でも、彼女は頑として僕と目を合わせようとしない。
 ホテルに着くなり早々に邪魔者を追い払い、無理やり彼女と向き合ってみた。見るからにコチコチになっている。なぜそんなに緊張しているのか、と尋ねたがはぐらかされてしまった。
 目に見えて嫌がっているのを無視し、ホテルの部屋まで一緒に上がった。彼女のために準備したスイートルーム。見た途端、彼女の困惑顔が驚きに変わった。密かに、やったぞ、と嬉しくなる。
 もとよりここまでする必要は毛頭ない。ただ、彼女のためにそうしてやりたかっただけだ。
 戸惑いがはっきり伝わってくるのを感じつつ、どう誘い出そうかと考えていた矢先、彼女がこの招かざる闖入者に早く出て行け、と言わんばかりの口を利いた。
 ついカッとなった。自制するより先に両手が伸びて、彼女を腕の中にしっかりと抱き締めると、罰するようにその柔らかな唇を奪っていた。
 その瞬間のやむにやまれぬ衝動と共に、はっきりと思い知らされる。さっき空港のゲートを出てくる彼女を見た瞬間から、この身体を腕の中に捉え、深く口付けたかったのだ。
 鼻腔が懐かしい彼女の香りで満たされる。どんなにこの時を待ち焦がれていたことだろう。まるで乾いた大地に甘い泉の水がしみこむように、気が付けば彼女の唇をこじ開け、口中を飢えたように舌で幾度もまさぐっていた。

 彼女が上げたくぐもった声がようやく耳に届き、はっとして顔を上げる。
 しまった……。
 反動で、力いっぱい抱き締めていた彼女の身体を突き放すように押しのけた。静まり返った部屋に二人の荒い呼吸だけが満ちる。
 早くも調子が狂った。こんなはずではなかったのに……。
 外で待っている、と高飛車に言い置いて、まるで逃げるように廊下に出た。
 少し頭を冷やす必要があるようだ。大きく息を吐き出しながら、廊下の壁に熱を帯びた額を押し付けた。少しの間そうやってじっと壁にもたれかかっていた。



*** *** ***



 彼女を車に乗せ、夜の帳が下り始めたソウル市街地に出る。彼女も少しリラックスしているのが感じられた。
 あれこれ話しながら、市内でも有名な韓式レストランに入り一緒に食事をとった。彼女が少し笑っただけで目を奪われている自分に苦笑しつつ、ようやくかつてのように打ちとけた様子が見えて、ほっとする。  だが、それでもふと何かの拍子に、また身を翻すように元の堅苦しい殻の中に閉じこもろうとする。

 何故だ?

 その態度が理解できず、募ってくる苛立ちを抑えることが次第に難しくなってきた。大体、目の前の日本女性を相手に駆け引きめいたことをしてみても、上手く行ったためしはなかったのだ、と今更ながらに思い出す。
 とうとう、本音で尋ねようとしたときだった。


『パク・ユンソク? あなたこんな所で何してるのよ? その人はいったい誰なの?』
 向こうから聞き慣れた高い声が響いてきた。彼女がはっとしたように声の方に目を向ける。くそっ、と内心激しく舌打ちした。
 イ・ミョンエ……。社の取引先の社長令嬢だ。同い年だがいつもながら派手に装っている。三年程それなりに付き合いもある相手だが、今この時に見たい顔とは言い難かった。
 思わず顔をしかめる。どうしてよりにもよって、今日ここに来るんだ?
 さらに腹立たしいことには、彼女の両親である社長夫妻までが一緒だった。無視することもできず、作り笑顔で立ち上がった。
 同伴していた彼女を三人に紹介する。自分で簡潔に挨拶するや、いきなり彼女は傍らのジャケットを取り上げ、ひどく他人行儀な言葉を残して一人、店のドアに向かってしまった。
『待てよ! どこに行くつもりだ?』
 驚いて呼び戻そうとしたが、彼女はもう振り返りもせずにそのまま足を速めて行ってしまう。

 急いで一万ウォン紙幣を数枚テーブルに投げ出すように置くと、唖然としているミョンエや社長夫妻を放り出して、彼女の後を追いかけた。
 これまで人前であれほど愚かしい行動をとったことはない。さぞや失笑を買っただろう。だが今夜を逃がせば、彼女を再び捕まえる機会を永遠に失いそうな気がして、とにかく必死になっていた。
 タクシーに乗った彼女を、すぐ後から車で追いかける。無理な追い越しを数回繰り返した挙句、信号で引っかからないか、見失わないかとやきもきしながら、やっと追いついた彼女がタクシーから降りたのを見た時は、もう爆発寸前になっていた。



 街路の雑踏を漂うようにゆっくり歩いていた彼女の前に無言で立って、足を止めさせる。
 息を呑んで立ち止まり驚いたように顔を上げた彼女は、大きな目をさらに丸くしてこう問いかけた。

『そんな……、どうして? あの方達はどうなさったんです?』

 追いかけてきたのがそれほど意外だったのか? いったい彼女は僕を何だと思っているのだろう。
 もう一年前のことなど完全に忘れた、と本気で言うつもりなのか?

 残念ながら、それは不可能だ……。

 憤りの奔流を心の中でどうにか堰き留めながら、彼女を伴い車に戻ると、強制的に自分のアパートに連れて行った。
 とにかく話がしたかった。一切邪魔の入らない場所で、とことん突き詰めて彼女の気持と向き合ってみたかった。
 無理矢理引っ張ってきたくせに、リビングのソファーに彼女がくつろいで座っている光景は、とてもしっくり来るものだった。ずっと空いていた場所がようやく埋まった。そんな奇妙な思いに囚われ、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。慌てて目を逸らしてそれを飲み下した。


 彼女の前に座り、その目を見つめながら今度こそ忌憚なく問いかける。
 彼女の唇が震えている。まるで泣きそうになっているのを、すんでのところでこらえているかのようだ。
 ようやく、殻を破ってその隠された本心に触れた瞬間、今度こそ抑えも歯止めも利かなくなってしまった。気がつくと僕は夢中で腕の中に彼女を引き寄せていた。

 互いに待ちに待ったように、再び唇を重ね合わせる。
 最初は優しく気遣いながら、それからあの日の記憶を完全に塗り替えるように、互いの鬱積した思いをあからさまにぶつけ合い、疲れた彼女が腕の中で寝入ってしまうまで、繰り返し幾度も愛し合った。
 ようやく彼女が心を開いてくれたのが何より嬉しかった。目を覚ました彼女を、もう一度深い思いをこめて抱き寄せる。
 この女性は僕のものだ。それは一年前から決まっていた事実だったのに……。僕らは二人とも、何と無駄な抵抗をして無益に、虚しく時間を費していたのだろう。
 もう二度と、どこへも行かせない……。
 唇の下で小刻みに震える彼女の全てに口付ける。ただただ無性に愛おしかった。身体の奥底からうねるようにこみ上げる思いのままに彼女に触れ、言葉よりも確かな絆をその柔らかな肉体の深奥にまで刻みたいと、心から願った……。



*** *** ***



 翌日の会議は無事に終了した。この共同企画は理事会の承認を経て決定されるだろう。
 このために、日本からはるばる足を運んでくれた橋本部長の労をねぎらいながら、そっとその隣に立つ彼女の様子を窺った。彼女がまた元の他人行儀な一社員に戻っているのを見て、やれやれと深いため息をつきたくなる。
 まったく、くそまじめな日本人の典型なのか、この人は……。


『父が君に会いたいと待っているんだ。会ってくれるね』
 人の群れから彼女を引き離して二人きりになるや、こう問いかけた。もとより、返事を聞くまでもない。たとえ嫌だと言われようと、連れて行くつもりでいた。
 だが、彼女は何のことかわからない、と怪訝な表情をしている。
 昨夜、申し込んだじゃないか! と言い募るが、話が噛み合わない。思い切り意外そうな顔をされ、こちらも一瞬、黙り込んでしまった。
 唐突に、彼女がわかった、というように声を上げて笑い出した。笑いながら目に涙を浮かべて、僕を見返している。

 言葉の意味が正しく伝わっていなかった……? 本当に?

 意外な気持で問い返す。それなら、もう一度はっきりと口にするしかない。
「君を愛しています。どうか結婚してください」
 それでもなお、彼女のためらいを感じた。すかさず腕にぐっと引き寄せ、昨夜の名残にまだ少し腫れの残る唇を強引に奪ってしまう。顔を上げたとき、彼女は半ば呆れたように微笑んだ。

 今度こそ、僕はこの女性を捕まえたのだ……。


 7階、重役専用フロア。
 廊下の突き当たりに、父の待つ会長室の扉が見える。

 僕は笑顔で彼女を促すと、二人の未来に向かって、並んでゆっくりと歩き始めた……。


〜〜 FIN 〜〜


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12/01/07 再掲