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 明日には結婚式というあわただしい日程だったが、翌朝アビーが起きて見ると、ディミトリスの姿はヴィラから見えなくなっていた。
 マリアに尋ねると、早朝から急な仕事でアテネに飛んだという。
「よくあることなんですよ。こんな時に花嫁をほったらかして、仕方のないこと」
「わたしなら、全然かまわないわ」
 一人になって、むしろほっとしていた。置かれた状況を少し考えてみることができる。

 だが、陽気なエレーニが彼女をなかなか一人にしてくれなかった。午後から誘われて、ティラ島特有の景観を見ながら歩いてみる。
 白い急坂の細い道のところどころにあるカフェやショップを覗いていくうちに、入り江と海が見渡せる高台に出た。

「ここから見る夕日は、世界一だと言われているわ。本当は兄さんが案内できるとよかったんだけど……」
 彼女の好意が嬉しくて、アビーは微笑んで首を振ると前に進み出た。クリップで留めた長い金髪を風が揺らしていく。いつの間にか夕日を見に集まってきた人々に混じって、しばし水平線に沈んでいく荘厳な太陽を眺めた。
 やがて、帰りましょう、と振り返ったエレーニが、ダイレクトに尋ねてきた。
「あなた、ディミトリスを愛してるのよね?」
 思わず足が止まってしまった。正直に答えてしまいそうになったが、彼との約束を思い出し、辛うじて言葉を濁す。
「彼のことは……、とても素晴らしい男性だと思っているわ。わたしなんかより、ずっとお似合いの方がいらっしゃるでしょうに……」
「あら、意外なお返事ね。もしかして兄さんが、あなたに結婚を迫って強引に引っ張ってきちゃったの? 兄さんとは、かなり温度差がありそう」
 クスクス笑いながら図星をさされ、アビーが思わず赤面したときだった。

 少し先で、黄色いサマードレスにサングラスをつけた女性が立ち止まって、こちらを見ているのに気付いた。エレーニが怪訝な顔で「フィリス……」と呟いたので、アビーにもそれが誰だかわかった。

 間近で見るフィリスは、健康的な小麦色の肌にカールした黒髪の典型的なギリシャ美人だった。ファッショナブルな原色の服がよく似合っている。
 サングラスをはずし、プライドの高そうな顔を昂然とあげて、ねめつけるようにアビーを見ていたが、やがてもったいぶった足取りで二人に近づいて来た。

「ディミトリスがいないうちに、のんびりと観光ってわけかしら? まったくいい気なものね。呆れてしまうわ」
 エレーニがにっこりと笑い返した。だが、その目は決して笑っていない。
「あなたこそ珍しいところで会うじゃないの。もう帰ったのかと思っていたわ。いつまでこちらにいらっしゃるの? 兄さんの結婚を見届けるまで?」
「大きなお世話よ! あなたに用はないわ!」
 フィリスはエレーニに噛み付くように言い返すと、敵意をむき出しにしてアビーを睨み付けた。美しい顔が、憎々しげにゆがんでいる。
「ディミトリスに選ばれた、なんて間違ってもいい気にならないことね。彼はあなたのその金髪がちょっと珍しいだけよ。すぐに飽きて、わたしの所に帰ってくるんだから!」
「凄い自信ね。どうしてそう思うのかしら?」

 驚きのあまり返す言葉もないアビーの横で、エレーニが苦笑交じりに口を挟んだ。だがもう見向きもせず、フィリスはさっときびすを返すと坂を足早に下っていった。


*** *** ***


 ティラ島で三日間を過ごすうち、彼の家族については少しわかってきた。
 ディミトリスの母、マダム・クリスタコスは、夫である先代当主の死後、クリスタコス家の島には帰らず、このティラ島と本土、そして時には南フランスの別荘などを思いのままに行き来し、優雅に暮らしているらしい。彼女自身資産家で、子供達の私生活にあまり干渉するタイプではないようだった。

 エレーニはディミトリスの身内の中でアビーと一番歳も近い。彼女と仲良くなったおかげで、ディミトリス本人のことも色々と教えてもらった。
 ハンサムで男らしい外貌と言うに及ばぬ財力、そして持ち前の辣腕のおかげで、二十代の頃から一族の事業を牽引し、拡張してきていること。プライベートでもさまざまな女性との関係を週刊誌で取り沙汰され、また事実付き合ってきたこと、なども。
 今まで周囲からどんなに言われてもその気にならなかった兄が、突然結婚を決意したのは奇跡のようだと、エレーニはアビーを賞賛した。だが、彼の本意が父の借金にあるとわかっているアビーは、まったく同意できなかった。

 聞けば聞くほど、ディミトリスの本意がわからなくなったが、彼はアビーを残してアテネに出かけたまま、二人で話し合う機会さえない。
 使用人達が忙しく動き回る中、準備だけが着々と整えられて、ついに当日を迎えてしまった。

 まだ先代当主の喪中期間のせいか、クリスタコス家の規模から考えると、ごく内輪だけの結婚式のようだった。
 ティラ島に建つ白壁に青い屋根の美しいカテドラル。手を上げたキリストのイコンの下、ディミトリスの母の親戚だという司祭の手によって厳粛に執り行われた。

 純白のあっさりしたロングドレスと短いベールのついた飾り帽子をかぶった姿で車から降り立ったときも、アビーはまだ自分が結婚するという実感が伴っていなかった。

 白い薔薇のブーケを手に、祭壇の前に進み出て振り返ると、戻ったばかりらしいディミトリスが、タキシードに身を固め、こちらに向かって歩み寄ってくるのが見えた。
 二日ぶりのその姿を目にした途端、アビーの心臓がまたしても跳ねあがる。だが、彼は不可解な目をちらりと向けただけで、黙って彼女の隣に立った。

 新郎新婦が祭壇の前に並び立つや、重々しい正教の伝統衣装をまとった司祭が現れた。ギリシャ語で進行していく式の間、司祭の言葉に辛うじてギリシャ語で応えながら、まるで夢を見ているような気がしていた。
 彼も応じ、ついに誓いのキスを交わす瞬間が来る。激しい戸惑いを浮かべ、訴えかけるように目を見開いたアビーを見て、彼はわずかに目を細めた。
 次の瞬間、彼はほっそりした花嫁をぐいと引き寄せると、震える唇を強引に奪い取るように口付けていた……。



 続く披露パーティを母親に任せて早々に切り上げると、ディミトリスは島の断崖に建つ、真っ白の壁面に赤いばらが伝うホテルに花嫁をつれて来た。
 二人の初夜を自邸ではなく、わざわざここで過ごすことにしたのは、プライバシーを気遣ってのことだろうか。

 新婚の名士夫妻のために、ホテルはさまざまな配慮をしてくれていた。ジャグジー付きのスイートルームには、大きなフラワーアレンジメントが飾られていたし、シェフが特別に腕を振るってくれたアンチョビーやギリシャ風料理のディナーは文句なくおいしかった。
 だが、一日中緊張の連続だったアビーはあまり食が進まなかった。彼も何か考えごとがあるかのように口数が少ない。

 食事を終えると、先にスイートに戻った。ディミトリスがまだ来ないことにほっとしながらも、アビーは手持ち無沙汰な時間を過ごすことになった。
 部屋には広々としたバルコニーが付いていて、フィラの絶景がよく見渡せた。黒っぽい岩壁に立つ家並が白い雪の冠のようにも見え、黄昏の光の中で神々しいほど美しく見える。
 確かに、結婚の誓いをするのにふさわしい、ロマンティックな場所だ。
 こんな結びつきでさえなければ……。

 夜の帳が静かに下りる頃、備え付けのジャグジーを使い、洗い髪をクリップでまとめると、準備されていた薄いナイトドレスとローブを機械的に身に着けた。
 彼は今夜を一体どう過ごすつもりなのだろう。さっきも、自分にはあまり関心がなさそうに見えた。もしかしたら、今はもう別の場所に居て、このままわたしを一人にしておいてくれるとか?
 そうよ、これが形式的な結婚で済むなら、どんなにか……!
 誰も居ない部屋にいると、だんだんとそんな期待も沸いてくるほどだ。
 落ち着かないまま、立ったり座ったりした挙句、バルコニーに出て、そこから見える海に目を凝らした。

 あまりにも静かだった。彼はまだ来ない。傍らに置かれたデッキチェアに座って波の音を聞いているうちに、まぶたが重くなってくるのを感じた……。
 

 着ているローブを脱がされていく感覚に、はっとして目が覚めた。ベッドに横たえられていることに気付き、反射的に起き上がる。
 壁の間接照明の柔らかな光を背に、今や夫となった男が立っていた。
 彼もバスを使ったばかりらしく、揃いのタオル地のローブ姿で、豊かな黒髪が濡れて縮れている。
 呆然と見つめるアビーに、彼は口角を皮肉に上げた。

「眠り姫も、ようやくお目覚めらしいな。疲れたのかい?」



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12/10/05 更新