〜〜 ニューヨークの冬景色 〜〜


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 ベーコンエッグとトースト、それに大きなマグにたっぷりとついだアメリカンコーヒー……。

 100パーセント・アメリカンな朝食を一緒に作って、軽口を叩きながら楽しく一緒に平らげた頃、彼に電話が入った。

「……ああ、今から来れそうなら、どうぞ。ここにいるから、紹介しますよ」
 日本語で話しているので、驚いて尋ねると、相手は日本人だと言う。同じ会社の先輩で、友人だと言うその人は、それから30分後に訪れた。
 笑顔がさわやかな背の高い男性だった。仕事のついでに立ち寄ったと言う。

「はじめまして。本宮詠(もとみや・えい)と言います。しっかし、翔、お前もまったく隅におけん奴だよなぁ。こないだまで、マリアン・ルイ……」

 翔平が強く咳払いして遮ったので不思議に思ったが、本宮さんは苦笑して、よろしく、と握手の手を差し出してきた。
 日本語で話せる。それだけのことが、ここではとても貴重だ。嬉しくて、思い切り笑顔になった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。倉橋沙夜です。弟がいつもお世話になりまして……」
「えっ? 弟? 翔のお姉さんなの? 婚約者って聞いてたけど?」
 意外そうに問い返され、慌てて言葉を濁す。
「いえ、あの、その……」
「婚約者と言うか……、式はまだだけど、日本で籍だけ先に入れてきたんだ」
 翔平がさっと会話に割って入ってフォローしてくれたので、ほっとする。『黙ってろ』とわたしを目で抑え、如才なく返事をしている。
 そっか……。姉弟です、と自己紹介するのは、やっぱり都合が悪いよね。
 遅ればせながら、気が付いた。わたし達二人の関係の説明がややこしくなる。というより、説明なんかできない。そうわかり、笑顔でごまかすことにした。
 コーヒーを呑みながら、わたしにはわからないビジネスの話を翔平とひとしきりした後、彼は愛想よく立ち上がった。またゆっくり食事でもしましょう、と本宮さんが立ち去ってしまうと、リビングに気まずい沈黙が流れた。

「……ごめんなさい。弟っていうのは、やっぱりまずかったよね?」
 おずおずと切り出したわたしに、翔平は何故か堅い表情を見せている。
「気になってたんだけどさ……。あんたにとって、俺は未だに『弟』なわけ?」
「え? それは……。だって、でも……」
 弟は弟でしょう? と言いかけた言葉が、彼の沈黙に合い消えてしまった。そんな風に言われても、今まで深く考えたことがなかった。
 多分、まごついた顔をしていたと思う。彼はわたしをじっと見つめて、皮肉な笑みを浮かべた。

「もうそろそろ、俺のこと、一人の男として見てくれてもいいんじゃないか? それとも、俺があんたにとって『男』になるのは、ベッドの中でだけ?」

 気が付くと、わたしはhピシャリと翔平の頬を叩いてしまっていた。

「そんな言い方しないで! 嫌いよ!」
「これは、おきれいなことで……。忘れてたよ。そう言えば、あんたもあの人の娘だったな」
「なっ!」
 本当に酷い! カッとして、さらに言い返そうとしたが、翔平のあざけるような笑みにぶつかって、言葉が完全に引っ込んでしまった。不覚にも涙までこみ上げてくる。

 やだ……。さっきまであんなに幸せだったのに、どうして今、こんな醜い言い争いをしなきゃいけないの?
 そう思うと、本当に泣きたくなってくる。顔を見られたくなくて、わたしは急いで翔平に背を向けると、キッチンの片付けにかかった。しばらくその場にじっと立ち尽くしていた翔平が、近付いて来る。
「沙夜、俺……」
 どこか切羽詰まった声にはっとした途端、背後から腕が回された。ぐいと抱き寄せられても、その時は素直に身を任せる気になれなかった。
「嫌! 放して!」
 けれど、どんなに抵抗しても、力でかなうはずもない。もっときつく抱き締められて、とうとう身動きすらできなくなってしまった。反抗的に俯く顔を荒っぽく押し上げられ、勢い任せに唇を奪われる。
 駄目! 抵抗しなくちゃ!
 そう思っても、顔を反らすこともできない。次第に気持とは裏腹に、彼に腕をかけて激しいキスに同じくらい激しく応えていた。ややあって、彼はほっとしたように抱擁を緩め、わたしの顔を覗き込んできた。

「悪かった……。まだ怒ってる?」
 わたしの気分は複雑だった。彼に対しても自分に対しても。今、怒りたいのか泣きたいのか、それとも彼を抱き締めたいのか、どれだろう。
 ごちゃごちゃのまま、目を反らして黙っていると、翔平がふーっと大きくため息をついた。
「焦っちゃいけないって、わかってるんだけどな。あんたがここに来てくれただけで、今は十分なはずなのに、つい……さ」
 独り言のように呟くと、わたしから手を放した。
「翔……君?」
「何でもない。こんなことで喧嘩したくないから」

 ふっと笑って、ジャケットを取り上げドアに向かう。わたしは少し慌てた。
「ど、どこに行くの?」
「ちょっと野暮用。すぐ戻るよ。あ、そうそう」
 部屋を出る間際、彼は肩越しに振り返った。
「後で出かけるから、準備だけしといて」



◇◆◇



 こういうときは、きっと動いた方がすっきりする……。

 それからわたしは、精力的に部屋の片付けを始めた。トランクから持ってきた服や雑貨を出して、備え付けクローゼットに彼の物と並べていくうちに、少しずつ覚悟めいたものができていく気がする。
 一時間がたちまち経ってしまった。まだ何となく気まずさが残る中、戻って来た彼と再びニューヨークの街に出ていく。
 まず用事が先、と言う訳で、車で入国管理センターへ行った。やっぱり中国や東南アジア系らしき人、それに南米系かな、と思える人も多い。かなり待たされた。その間、隣に座った翔平は、何やら携帯をいじっている。
 何見てるの? と覗き込んだけれど、一面の英語にあえなく引っ込む。
「何? 知りたいことがあるなら何でも聞いてよ?」
 そう言われても、黙って首を横に振るしかなかった。バッグに入れておいた英会話ハンドブックを引っ張り出してみたけれど、陳腐に思えてまた閉じてしまう。そもそも観光に来た訳じゃない。必要なボキャブラリーがけた違いだと実感するにつれ、憂鬱になってくる。
 翔平自身、とうにアメリカ市民権を取得していたという事実も、わたしのビザ申請の話になるまで知らなかった。だから、八年も帰ってこなかったんだ、と改めて思い知る。


 わたしの渡航ビザは『フィアンセ・ビザ』と言うもので、貰うのに数カ月から一年かかることもあるらしい。その中では比較的早く出たと思う。その手続きの煩雑さときたら、もう途中で挫折しそうになったくらいだけど……。
 フィアンセ・ビザと言うからには、アメリカ市民権を持つ相手との結婚が大前提になっている。それも渡航してから90日以内と決められているそうだから、つまり、向こう三か月以内に、翔君と本当に結婚しなければならない訳で……。

 日本を出る前に両親にもそう説明して来たし、自分でもそう決めて来たのに。わたしったら、今更何を考えているの?。



patipati

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16/07/12  更新
沙夜、ちょっとマリッジブルー(?)になってしまったみたいですが…。