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 父であった前国王の突然の訃報が入った時、彼は英国のケンブリッジ大学に留学中だった。
 急いで帰国しようとした彼の元に届いたのは、軍部の大勢を握っていたイスラム国粋主義者のアブドゥラ将軍が国権を掌握し、気の弱い彼の叔父がシークの座に就いた、という衝撃の知らせだった。
 あの病弱な叔父に将軍を抑えられるはずもない。だが、そのまま国に戻っても拘束されるのは目に見えていた。彼はアリとともに監視の目をくぐり、ここグラナダに潜伏した。将軍も動く気配を見せない王太子に安堵したように、それ以上の手は伸ばして来なかった。
 その後、先進的な考えを持った多くの同胞や人材が国外退去になったりアメリカなどへ亡命したという知らせを聞き、彼の悪い予感は的中した。けれど、彼にとって祖国はもはや帰れる場所ではなかった。

 なぜ、そのままグラナダに腰をすえたのか、自分でもよくわからなかった。王子の世話役だったアリに託されていた父王の遺産を持って英国に戻るか、合衆国にでも行った方がよほど道も開けそうなものだった。だがここに来た途端、何とも言えない郷愁めいたものに取り巻かれるようにして、そのまま腰を落ち着けてしまったのだ。
 その奇妙な感覚を、従ってきた忠実な家令に告げると、アリは否定するどころか深々と頷いた。
「この地は、殿下の父祖の地でございます。きっと父祖の御霊がお呼びになったのでしょう」

 それから八年。役にも立たない誇りと憤り以外、何も持たない若造だった自分も、今では三十一歳になり、多少の落ち着きと分別も持ち合わせたつもりだ。
 スペインでも、アラブの趣が色濃く残るグラナダの田舎街は、来た頃から変わらない。土着のアラブ人達と共に広大なオリーブ園とその加工工場を経営しながら、テレビやネットを通し時々刻々移り行く世界を目の当たりにしながら暮らしてきた。
 砂と海に閉ざされたアラビア半島の辺境地から西洋世界に渡ってきて以来、アシュラフの世界観は大きく変わっていた。いまだ前世紀的な生活をしている祖国の重臣や民達にも、いつかこの広い世を見せてやりたい。

 そのとき、ゴオーッという音とともに一層すさまじい雨が天から降り注ぎ始め、彼の物思いは破られた。ほとんど同時に開いていた正門からハイヤーが滑り込んでくるのが見えた。
「お客様のご到着です」との使用人の声に、階下で人が動いている。
「やれやれ、セーフだったな」
 にやっと笑い、アシュラフはバルコニーから室内に姿を消した。


◇◆◇  ◇◆◇


 玄関前に車を横付けされ、雨傘を差しかけられてもなお、そのすさまじい雨足から逃れるすべはなかった。数分後、ジェイドは濡れた髪とスーツを気にしながら、その館の玄関ホールに立っていた。
「この地域にも、こんな大雨が降るんですね……」
 メイドらしき女性から手渡されたタオルで濡れた手や服を拭きながら、ジェイドは愛想よく話しかけてみた。だが いかめしい髭の執事は素っ気無くこう応えただけだった。
「滅多にございませんが、この季節にはたまに」
 そしてそのままくるりときびすを返すと、「お部屋にご案内しましょう。まずはお着替えをどうぞ」と、先に立って歩き始めた。



 アラブ風に調理された羊肉のケバブやラムチョップは珍しかったが、おいしかった。それにトマト、たまねぎ、ミントなどのみじん切り野菜で作ったサラダも、ゆでた豆も。
 客室に備え付けられたバスルームで簡単にシャワーを浴びて着替えてから、一人きりの食事を終える頃には、先刻の激しい雨もやんで、空に丸い月が顔をのぞかせていた。


 夜もかなり更けた頃、ジェイドは部屋の窓から月に照らされたパティオ(中庭)を眺めていた。疲れているはずなのに、目がひどく冴えている。少し神経が高ぶってしまっているようだ。
 落ち着こうと、着ていたサンドレスにボレロをはおり、窓から外へ出てみた。アラブ式の建物は、全ての窓がパティオに面していると、何かに書かれていた通りだ。
 馬蹄形のアーチのついた石柱に囲まれた庭園に、小さな噴水と、それをとりまくように棕櫚の木や常緑樹が影を落としていた。南国の花の香りがきついほど漂っている。

 ジェイドは小さくため息をついた。王子に会えるのは明日だと聞かされ、内心安堵していた。
 グラナダまで来てみたが、くだんの夢の問題が解決される見込みはあまりなさそうだ。王子にインタビューした後にでも、その宮殿に行く時間が取れればいいけれど。
 そう考えてから、力なく首を振った。やっぱり無理かもしれない。別に個人的に観光に訪れたわけではないのだから……。

「おや、我がささやかな庭に、美しいお客人らしい」

 そのとき前方から心地よいバリトンの声が聞こえ、はっと立ち止まった。向こうのベンチから、背の高い堂々とした男の影が伸びている。立ち上がってこちらを眺めているようだ。
 身につけたシャツが闇に白く浮かび上った。カジュアルな服装なのに、その立ち姿にはどこか貴族的な風格が漂っている。
 誰かしら?
『セニョール、無断でお庭にお邪魔してしまい、申し訳ありません』
 咄嗟に聞きかじりのスペイン語で声をかけてみた。相手はアラブ人のように見えたが、流暢な英語で応えてくれたので、ほっとする。

「いや、全く構わないさ。遠くからの旅で、さぞ疲れているだろうに、こんなに遅くまで……。眠れなかったのかな?」
「ええ、何だか目が冴えてしまって。スペインに来て少し興奮しているのかもしれません。それで、この素敵なパティオを少し歩いてみたくなって……」
 男がくすっと笑ったような気がした。彼が近付いて来るにつれ、薄暗い月明かりにも何とか顔立ちが見えてきた。途端にはっとして、心臓が激しく打ち始める。
 この人は……、アシュラフ王子だ!

 こういう出会いは全く予期していなかった。ジェイドは深呼吸すると、なるべく落ち着こうと努めながら彼を待った。今回の役目はある意味、アメリカの印象を担うものでもある。彼のご機嫌を損ねないためにも頑張らなくては。

「セニョリータ……、君が先刻のアメリカ人記者だね?」
「はい、そうです」
 彼女は控えめに視線を向け、軽く腰をかがめてお辞儀した。
「ジェイド・ウォーレンと申します。このたびは弊社のインタビュー依頼を快くお受けくださり、心から感謝しております」
「ジェイド(翡翠)?」
 彼が少し驚いたように名前を繰り返したので、何かおかしかっただろうかと気になった。だが、彼は礼儀正しく微笑み返した。
「……どういたしまして。こちらこそ、出迎えもせず失礼したね、ミス・ウォーレン。こんなに美しいレディだとわかっていたら、夕食をご一緒したものを」
「まぁ、ありがとうございます。光栄ですわ、アシュラフ・アル・ディン殿下」
 写真を見ただけで夢に出てくるほど彼女の心を捉えた男が、今目の前にいる。ジェイドは胸が高鳴るのを抑えるのが難しかった。
「おやおや、もうばれてしまったようだ。どうして僕がわかったんだろう?」
「あなたがまとっておられる空気は、普通の方とは違いますから」
「では、そういうことにしておこうか」

 楽しげに呟いて、彼が握手の手を差し伸べてきたので、ジェイドも手を差し出した。二人の手が触れ合った、まさにその瞬間だった。
 突然どこからか――ジェイドには自分の奥深くから、のように感じられた――何ともいえない圧倒されるような感情が押し寄せてきて、瞼の裏にあの夢の中のシーンが、これ以上ない程鮮明に蘇った。
 その感覚は初めて彼の写真を見たとき以上に激しく、身体に震えが走るほどだった。


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13/10/23 更新
簡単な後書きなど、ブログにて。