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PAGE 6


 早く何とか、インタビューを終えてしまわなければ……。

 それにもう二度と、あの誘惑の手管にはまらないよう、気を付けよう。もっとも、あの王子から本音を聞き出すのは、簡単なことではなさそうだけど……。

 昨夜の予想外の出会いに困惑し、そんなことを考えながら部屋から出て行くと、回廊でメイドに何か指示していた執事が「お目覚めですかな」と声をかけてきた。
「おはようございます。遅くなってすみません。あの、今日のプリンスのご予定は……」
「君と一緒に出かけることになっているよ」
 そのとき昨夜と同じ低い心地よい声が聞こえ、飛び上がりそうになった。
 アシュラフ王子!

 今朝もラフなポロシャツとスラックス姿だった。あの時は月明かりしかない暗がりだった上、混乱していてよく見えなかったが、黒髪に浅黒い肌、整ったエキゾチックな顔立ちに何でも見通してしまいそうな瞳がとても魅力的だ。
 だが、熱っぽい視線で見られていることに気付くと、決まり悪くなって目をそらしてしまった。

 落ち着いて。夕べのことは忘れるのよ。ビジネスライクにふるまわなくちゃ……。

 自分にそう言い聞かせながら、おはようございます、と挨拶する。途端に性急な手が伸びてきてジェイドの顔を上向けた。ぎょっとしてまともに見上げた彼女の顔を覗き込んだ黒い目に、嬉しそうな驚きがかすめる。
「昨夜はよくわからなかったが、これは珍しい深い碧色の目だな。なるほど、確かにジェイド(翡翠)だ」
「だから、両親がわたしにこの名をつけてくれたんです。お願いですから、手をどけてください」
 やっとのことで手を振り払う。けれど、彼はそんな彼女を楽しげに見下ろし、微笑みかけた。

「今から、僕に付き合うと約束するかい?」
「どこかへお出かけになるんですか?」
「それほど遠くじゃない。すぐに出られるか?」
「無理です……。まだ髪も服もこんなですし」
「旦那様、わたくしもセニョリータと同意見ですが」
 また何の気まぐれか、とばかりに、執事も咳払いをして口を挟んできた。だが当のアシュラフはそれをさえぎると、有無を言わさぬ断固たる口調になった。
「僕はそのままでも全くかまわないが、着替えたければ今すぐ部屋に戻って着替えてくるんだ。三十分後に会おう」



「まったく、こっちの意見なんか全然聞く耳なしなのね! さすが砂漠のプリンスですこと! あんな横暴な性格じゃ、いくら素敵な人だって……」
 鏡の前でぶつぶつ文句を言いながら、ジェイドは金髪をブラッシングして一つにまとめると、急いでメイクし直した。服は持ってきた数が少ないので迷う余地もない。オーソドックスなブラウスとスカートに着替え、二十六分後に再び部屋を出る。

 彼は少し苛立ったように待っていた。彼女が姿を見せると、渋い顔をしている執事も無視し、肩をかかえるようにして玄関前に止められていたセダンに乗せてしまう。
 待機していた運転手が、さっそく車を走らせ始めた。

「どこへ行くんですか?」
「着けば判るよ」
 睨むジェイドの隣でアシュラフは至極リラックスしている。何だか腹が立ってくるがどうしようもない。
 車は灌木の道をスピードを上げて走っていった。のどかな平原には、時折草をはんでいる黒い牛の群を見かける以外何も見えない。だがワシントンの雑踏に慣れたジェイドは、雄大なアンダルシアの風景に密かに感心していた。
 しばらく黙って景色を眺めていたが、強い視線を感じて振り返った。尊大な黒い目が探るようにじっと見つめている。昨夜の出来事がよみがえり、全てを打ち消すように急いで問いかけた。

「どこへ行くのか、まだお答えいただいていませんわ。これじゃ誘拐と変わりません」
「今頃身の危険を感じているのかい? 君の防衛本能はあまり役に立ちそうにないな。戻るといってももう遅い。それに、そんな心配は無用だと言っておこう。それよりも」

 彼は瞳をいたずらっぽくきらめかせて、またジェイドの顎を持ち上げた。はっとした彼女にいきなり問いかける。
「昨夜、あれから僕の夢を見たか?」
 その言葉にぎょっとして、隠す間もなく頬がほてり慌てた。
「意外に正直だな」
 満足げに笑って、親指でかすかに震える唇を物憂げになぞり始めた。まるで、キスするかどうか迷っているようだ。
「やめてください」と言おうとして思わず舌先で乾いた唇を湿らせると、さらに嬉しそうな微笑が浮かんだ。
「君も待っているんだな。それじゃ期待に応えないと」
 こんな笑顔、夢でも見たことはなかったわ……。ぽーっとしながら、そんなことを考えた途端、ジェイドの唇は彼の唇に塞がれていた。
 ミントの香りがする舌でそっと唇をまさぐられ、知らず知らず唇を開いてその舌を迎え入れる。始めたときのからかうようなキスが、次第にむさぼるような欲望を帯びて熱くなるにつれ、心臓の鼓動が高鳴り、抑えきれない情熱が身体の奥底から突き上げてくるようだった。

 ああ、信じられない。こんなこと、あり得ないのに……。

「お願い、もうやめて……。ドライバーさんが……」
 あえいで懸命に彼の肩を押し、やっとわずかに唇を離すと、ジェイドは懇願するようにささやいた。彼の口が甘くカーブを描く。
「かわいい人。彼にはこんなことは何でもないさ。心配しなくていい」

 その言葉は陶然としていた彼女の頭に、冷水を浴びせるように響いた。今度こそ懸命にその手から逃れると、車の窓ににじり寄って、二人の間にクッションとバッグを置き極力距離を開けた。馬鹿馬鹿しいが、何もせずにぼんやりして、もて遊ばれているつもりはない。
「そういうことですか……。殿下にとってはこんなこと、日常茶飯事なんですね」
 思わず怒りを込めて呟くと、彼が面白そうにまたくっくと笑い出した。ますますしゃくにさわり、そのまま窓の方に顔をそ向ける。
 ジェイドはまたしても誘惑にはまった自分を責めていた。だが彼はお構いなしに彼女の右手を取り上げ、その甲に唇を押し当てる。
「我が恋人は、意外に怒りっぽいようだ」
「なっ! 誰が恋人ですか!」
「まぁその方が退屈しないだろう。続きは後のお楽しみ、だ」
 彼女に向けられた黒い瞳に、謎めいたきらめきが浮かんでいた。やがて車は市街地に入っていった。



「ここで朝食にしよう」
 そう言って彼が車を止めさせたのは、グラナダ市内のとあるレストランの前だった。
 大至急準備されたらしいテラスの朝食席に案内されながら、内装のアラベスク文様に心惹かれる。スペインと言っても、この辺りは土着したアラブ人が今も多く暮らしていると、資料に書かれていたことを思い出す。
 だから、彼もここに落ち着いているのだろうか。


「ほぅ、イェール卒なのか。なかなか才媛だな。今二十五だと言ったが、しょっちゅう海外に出ているのか?」
「海外は今回が初めてです。もちろん機会があれば、どんどん挑戦してみたいと思っていますけれど」
「なかなか意欲的に仕事に取り組んでいるようだ。元々、人と会うことが好きなのか?」
「ええ、まぁ……」
 くつろいだ顔で食事を摂りながら発せられる気まぐれな質問に答えるうちに、だんだん複雑な気分になってくる。これではどちらがインタビュアーか分からなくなりそうだ。

「わたしのことなど、どうでもいいんです。それより殿下のインタビューは、いつ……」
「いい加減で、殿下はやめてくれ。僕の名はアシュラフだ。そう呼んでくれて構わない。僕もジェイドと呼ばせてもらう」
「そんな……、シークに対して、友達みたいにファーストネームでは呼べませんわ」
「今、友達になろうとしているんだがね」
 反論しようとしたジェイドには構わず、彼は皿の残りを平らげると、ウェイトレスにスペイン語で何か指図した。
「ところで、君が見たグラナダの印象はどうだい?」
 運ばれてきたお茶を飲みながら、また静かに尋ねてくる。
「そうですね。正直なところ、初めて来たような気がしないんです。何だかとても懐かしいような……」
 思わず馬鹿正直に言ってしまってからはっとした。本当に馬鹿なことを! だが王子は「ほぅ」と呟き、黙って自分を見ている。
 とうとうジェイドは、手際よくナプキンをたたむと、挑戦するように正面から見返した。
「もう食事は終わりましたわ。それで、今からどちらへ行かれるんです?」
「……アルハンブラだ」
「え……?」

 くつろいでいた王子の表情に微かに緊張がまじり、どこか遠くを見るような眼になった。
「僕達の千一夜物語を語り合うには、最もふさわしい場所だろう。僕にインタビューしたいんだろう? 僕も、君にまだ聞きたいことがある。お互いに尋ね合うのも面白いかもしれないな」


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13/10/30 更新
簡単な後書きなどを、ブログにて。