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「もうそんな時間なのか?」
 しぶしぶ出ると、硬い声で今から行くと告げた。ここで時間をつぶし過ぎたせいで、次の予定に大幅に遅れているのを思い出す。
「急いでいるなら、言ってくれればよかったのに。こんな話で時間を無駄にすることなかったのよ」
 通話を終えたとき、察したルシアはあきれたようにすでに立ち上がっていた。
「無駄だって? それどころか、聖人に感謝したいくらいだよ」
 言いながらルシアを見上げる目には、別れがたい気持がありありと浮かんでいる。思わずどきりとした。強いてクールに振舞おうとするが、また手を取られて、はっとする。
「今日は本当に楽しかった。君のことがよくわかってよかったよ、ルチア」
「わたしも……、意外に楽しかったわ」
「意外に、ね」
 今日のところはまぁこれくらいで良しとしよう。くすっと笑って、明るく言葉を足す。
「よければ明日こそ、一緒にゴンドラでヴェネチアン・クルーズと行かないか? また午後からでも、どうだい?」
「だから、どうしてわたしを……? 別にお金なんか持っていないわよ?」
「おや、まだそんなことを言ってる。とんでもない誤解だな。純粋に君に興味があるのさ。君と友達になりたい。そして僕のことも、もっと知ってもらいたいんだ。まだ僕を疑ってるのかい?」
「そんな訳じゃないけど……」

 強引で、そのくせ優しくて変な人……。でもまぁ……いいわ。
「わかったわ。お店で仕事しながら待ってるから、もしあなたの気が変わらなければ、来ても……いいわよ。ただし、3時以降にしてね」
 彼がとびきりの笑顔でうなずいたので、ルシアの心臓が大きく音を立てて跳ねた。ふいに、大きな手が戸惑う彼女の肩を抱き寄せ、耳にそっとささやきかける。
「気が変わるどころか、今夜はずっと君の事を考えてるよ、アモーレ」
「そんな冗談ばっかり言ってるから、イタリア人は軽いって言われるのよ!」
「軽い? うーん、それじゃ……」
 赤面しながら怒った振りをしたルシアに、いたずらっぽく片目を閉じて呟くと同時に、頭の裏に手が回され、ぐっと引き寄せられた。気がつくと彼に唇を奪われていた。昨日より強引で荒々しいキス。驚いて開いた唇から熱い舌が滑り込んできて、逃げようとする舌が絡めとられる。
「あっ……」
 白昼堂々、サンマルコ広場の人ごみの中でするには情熱的過ぎるキスだった。ルシアの閉じた目の奥で金色の火花が散る。ああ、これはいったい何? くらくらするわ。

 いつの間にか彼の唇は離れていた。だがまだ両腕で軽く抱擁されている。耳にまた低くささやく声がした。
「ソノ パッツァ ディ テ」(君に夢中さ)
「もう! あなたって本当に油断も隙もないのね!」
 その言葉に言語機能を回復し、また赤くなって今度こそ本気で怒ろうとしたが、さらりとかわされてしまった。
「今日のところはこれで退散するよ。じゃあルチア、また明日」
 手を上げて立ち去って行く後姿を見送りながら、ルシアはひどく複雑な気分だった。
 イタリアの男性は口が上手くて手が早い、と話には聞いていたが、聞きしに勝る。これじゃどこまで信用できるか、全然わからないじゃない!


◇◆◇   ◇◆◇


 あなたの気が変わらなければ、来てもいいわよ。
 クールにそう言ったものの、翌日のルシアは仕事がろくに手に付かなかった。ピザを届けるテーブルを2回も間違え、どんよりと落ち込んでしまった。だが、当のラファエロは待てど暮らせど現れない。伯母にもどうしたのかと聞かれたが、「なんでもないの、ちょっとぼんやりしてたみたいで。ごめんなさい」と謝っただけだった。
 約束の午後3時が過ぎて、とうとう4時になったとき、ルシアはついにあきらめた。いつの間にか期待して待っていた自分を強く叱る。その日はいつものジーンズではなく、少しおしゃれなブラウスとスカートで店に来ていたが、そんな自分を思い切り嘲笑したくなった。
 やっぱりイタリア人は軽いんだわ。道楽息子のお相手なんか、適当にしておかなくちゃ。これはいい教訓よ。
 大きなため息をついて店内に引っ込もうとしたとき、向こうから「ルチア!」と叫ぶ声とともに、駆け寄ってくる人影が見えた。ラファエロだ!

「ル……チア、すまない、かなり待ったかい?」
「あなた、まぁ……」
 上着を手に持ち、汗ばんでぜいぜいと息を切らせている彼を見て驚いた。いそいで冷たい水の入ったグラスを差し出すと、一息にごくごくと飲み干している。
「ああ、生き返ったよ。最後の会議が思ったより長引いてね。君の携帯番号を聞いておくんだったと、どれだけ後悔したことか」
 そう、仕事が長引いただけだったのね。
 くすっと笑って、わざと、「別に待ってなかったからいいのよ」とすまして答える。ラファエロは少しがっかりした顔になった。だが、ルチアがエプロンをはずした姿を見て、ヒューと口笛を鳴らした。ハンサムな顔に訳知り顔の笑みが浮かぶのを見て、むっとする。
「な、なによ、別にあなたを待ってたわけじゃないんですからね。今日はたまたまこういう気分だっただけよ」
「おやおや、素直じゃないねぇ。来てもらえてよかったじゃないかね、ルチアや」
 アンジェラ伯母まで、くしゃくしゃの笑顔で近付いてきて、ぽんぽんと背中を叩きながら、彼に向かって言い出したので慌てた。
「伯母様!」
「この子ったら、今朝からひどく落ち着きがなかったんですよ。こういう訳だったんだねぇ」
 彼が何か言いたげな目で見返したので、ルシアは頬を赤らめつい横柄な口調になった。
「べつに、ちょっとゴンドラが楽しみだっただけよ……、でも、どうしてゴンドラで来ていないの?」
「さっきまで僕がいた場所からは、ゴンドラより走った方が速そうだったからさ。本当に会いたかったよ、カーラ」
「だから、その呼び方はやめてって言ってるでしょう!」

 そのとき、運河の方から「シニョール・サンマルティーニ!」と声がした。3人が一斉に振り返ると、お仕着せの紅白縞シャツを着た先日のゴンドラ漕ぎが、陽気な笑顔を浮かべて大きく手を振っている。

「来たな。それじゃ行こう、シニョリーナ。さぁ、お手をどうぞ」


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15/10/06 更新