〜 スプリング ブーケ 〜

 《子爵の恋人》  番外編 5

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 数日後の午後。

 ゲイリック伯爵邸を訪れたサーフォーク夫妻は、サロンで伯爵夫人、アンナが手ずから入れたお茶を飲みながら、和やかにくつろいでいた。

 ふいに廊下を走ってくるいくつかの足音と、金切り声を上げてはしゃぐ子供達の声が聞こえた。
 これまでなかったことに、ローズもジェイムズも驚いて顔をそちらに向ける。
「今日はまたギャラリーの方が随分にぎやかだな。何事だい?」
 カークが、やれやれと言うように両手を軽く広げて見せた。
「最近我が屋敷で恒例になりつつある、子供達と乳母達の追いかけっこさ。君達の来るタイミングが悪かったんだ。もう少し遅ければ昼寝でもして、いつものように静かだったかもしれないが。どうも近頃、元気があり余っているようでね」
 困ったものだという呟きを耳にし、ローズがくすくす笑い出すと、伯爵は暖かい微笑を浮かべて、彼女を振り向いた。
「せっかくお越しいただいたのに、不躾な有様で申し訳ない。それにしても、子供の成長は早いものだ。あの子達が月足らずで生まれた時は、実に小さくてひ弱でしたからね。無事に育つかとはらはらし通しでしたが、どうやらそんな必要など、少しもなかったようだ」
「ええ、その通りよね。おまけに今日はまた特別のようだわ」

 夫の言葉にアンナも大きくうなずくと、失礼、と優雅に席から立ち上がった。
 彼女は双子の出産という女の一大事業をやってのけながらも、すらりとした体型を今なお維持していた。母となって、表情に豊かな深みが加わったようだ。

 部屋を出て行くアンナの後姿を見ながら、ジェイムズは、彼女のお腹の子が双子だとわかったときのカークの激しい動揺を思い出していた。
 結局、予定よりひと月以上早産になったのだが、それでも長い出産の間、彼女にもしものことがあったらと、生きた心地もしなかった、と後々カークはしみじみと語っていた。その気持は自分も、痛いほど理解できた。
 今、こうして完璧に幸福そうな二人を見ながら、子爵は感慨深げに目を細める。

 時に険しい山や深い谷間を越えて、また平坦な路に出る。道のりが困難であるほどそれを越えたときの喜びも、平穏な日々の味わいもまた深い。
 人生とはそうして今日も続いていくものなのだ。



 アンナがサロンの扉を開いて廊下に出たとき、ちょうど駆けてきた二人の子供達が、ギャラリーの回廊を回ってくるのにぶつかった。
 背筋を伸ばし、扉の前に立った母の姿を見るなり、ぴたりと動きが止まる。
 子供達の姿を見た途端、彼女の声はさらに高くなった。

「あなた方! お客様だというのにもう少し静かにできないの? それに何なの、その格好! マーサ! マーサはいったい何をしているのかしら」

 やや遅れて、ようやく追いついたマーサと呼ばれる乳母は、小太りの身体を小さく縮めながら、女主人に対し懸命に弁明をはじめた。その後ろからさらに若い侍女が二人、スカートのすそをたくし上げて、転びそうになりながら走ってくる。
 騒ぎの張本人、小さな双子のジョアンナとニコラスは、二人とも母親似だった。綿とレースの白い肌着姿のまま、思い切り走ったせいか、ピンク色に染まった柔らかな頬と鳶色の巻き毛を振り振り、楽しそうな笑顔を見せている。
 黒っぽい瞳を輝かせ、「お客様なの? だあれ?」と問いながら、そっとサロンの扉から中を覗き込んできた。微笑む子爵やローズと目が合うと、嬉しそうにえくぼを寄せてにっこりする。

 妻そっくりの小さな我が子達の顔を見るなり、カークはたちまち相好を崩し、怖い顔をしているアンナに向かって声をかけた。
「まあ、それほど厳しく叱らなくてもいいじゃないか。別に気を使う相手というわけでもないのだし」
「いいえ、いけません! あなたがそんなふうにおっしゃるから、子供達がだんだん、こうなってくるのよ」
 すぐに甘くなる夫をじろりと睨み、アンナは再び厳粛な声で子供たちに命令した。
「今すぐお部屋に戻って、マーサの言うとおり、きちんと着替えてお昼寝なさい。お母様も承知しませんよ」
「はい。でもお母様、あたし達のこと愛してるでしょう?」
「ええ、もちろんよ」

 アンナの顔にこの上なく優しい微笑が浮かんだ。身をかがめて、差し出される小さな丸い頬に順にキスしてやる。

 侍女達に抱かれて戻っていく二人を見送って、室内に戻った妻の椅子を引きながら、カークはローズとジェイムズに目配せし、説明を加えた。
「ジョーのほうが、弟のニックよりもさらにやり手でね。どうやら、我が家における男女の力関係は、ここにも如実に現れているらしい」
 再び妻に睨まれ、カークはコホンと軽く咳払いした。


*** *** ***


 それからひと月もたたないうちに、サーフォーク子爵やゲイリック伯爵夫妻の声がかりで、ダンバード侯爵やレノックス男爵をはじめ、予想以上に多くの後援者が集まった。
 話はとんとん拍子に進み、火災に見舞われてから二か月半ほど過ぎた頃には、『朝の希望』孤児院の修復作業は順調に始められていた。内装や設備にも手が加わることになり、完成すれば周囲では抜きん出た、住人がうらやむほど立派な孤児院となるだろう。


 その日、午後から工事の具合を視察に来た一行が、大方見聞し終えて中に入ってしまった後も、ジェイムズとカーク、そしてレノックス男爵は葉巻を吸いながら外に立っていた。
 サーフォーク家御者のジャックや伯爵家のお供など、数人の者達が、少し離れた位置から主人の周囲、とりわけ集まってくる物乞いや、界隈の住民達の動きが、主人に不快を与えないよう油断なく目を配っている。

「で、こういう結果になるわけかい? どうも、未だに君達にうまく乗せられた様な気がしてならないね。どうしてこういうことに……」
「それは、わたしも実に同感なんだが……」
 外壁塗装の工程を見ていたジェイムズが、ゆっくりとカークを振り返った。
「行き掛かり上やむなし、というところかな。ま、乗りかかった船だろう。だいたい、どうしてというのは、わたしの方が聞きたいくらいさ」
「今更ぶつぶつこぼすな、二人とも。見なさい、あの奥方達の嬉しそうな顔を。最愛の細君からああいう笑顔をもらえるなら、こんな孤児院の一つや二つ、建ててやるくらいは、お安いものではないか。そうは思わんかね、ジェイムズ」
「まあ、そんなところでしょうね。悲しいかな、我々男は所詮、レディの微笑と涙には、到底かなわないようにできている」

 名誉と愛する貴婦人の面影を胸に、騎乗試合に望んだ祖先の血か。ジェイムズはふと湧いたそんな思いを飲み込んだ。レノックス男爵は豪快に笑うと、建物の中に先に入っていった。
残った二人はその後もしばらく、無言のまま石畳の路傍に立って周囲を眺めていた。やがてカークがため息をついて、葉巻を踏み消した。

「このあたりも、かなり酷いものだ」
 呟いたカークにジェイムズもうなずく。
「そうだな」
「世界に冠たる輝かしき大英帝国も、一歩奥に踏み込めば、こういう汚物と貧困の吹き溜まりだ。下層階級の解放などと称して、ユートピア主義者や社会主義の連中が、かつて不穏な動きを見せていたことは、君だって知っているだろう?」
「だが、今はとりたてて事もないはずだが……」
「にしてもジェイムズ、君はなぜ、これをわざわざ引き受ける気になったんだい? 奥方の力は真に偉大なり、というだけかな?」
「それも、もちろんかなり大きな要因ではあるがね。そればかりでもないさ。わたしにしても……」

 子爵はもう一度あたりに目を向けた。ボロを着た薄汚れた人々の物欲しげな視線が、遠巻きに、自分達に集まっている。もとより、高貴な身なりの紳士淑女など見たこともないし、瞬間的に関わることさえないような群れだ。一番近くまで近づいて来てジャックに止められた男の、酒気を帯びた赤ら顔とにごった魚のような灰色の目をちらりと見やり、彼はまた視線を逸らしてしまった。

「奥方達にせっつかれるまでもなく、この現状を快く思っているわけではないよ。だが実際、どうにも手の施しようがないのも事実だな。せいぜいのところ、こういったささやかな寄付行為や慈善事業、そして自分の抱えている工員達の待遇を、少しでもよくしてやるくらいのことだ。しかも僅かに賃金をあげたところで、またその金でジンを飲みに走る輩が増えるだけかもしれない。このままでは、国威まで閉塞していくような気がするよ」
「諸外国も、内情は似たようものだろうさ。案外何か……、そう、我々を取り巻くこの古き良き伝統を、根こそぎ覆すような大事件でも起こるしか、根底から変わる道はないのかも知れないな」
「おや、君まで社会主義に染まりはじめた、と言うつもりではあるまいな? 軍人にあるまじき発言だぞ」
 ジェイムズが眉をひそめると、カークはおかしそうに笑い声を上げた。
「まさか。僕は極めて健全な退役軍人さ。今では一介のオブザーバーに過ぎないしね。だが、少しばかり考えてみるくらいは自由だろう? たとえ既得権の中にいても、だよ」


*** *** ***


 ジェイムズとカークの二人が孤児院の応接間に戻ってみると、場の様子がどこかおかしかった。
 院長は落ち着かない様子であちらこちらとうろつき回り、男爵とアンナが浮かない顔を見合わせて立っている。そこにローズの姿が見えないことに気付いた子爵がすぐさま尋ねると、アンナが心配そうに彼に目を向けた。
「少し前、あなたから伝言を渡されたというこの院の子供が来て……、ローズマリーと一緒に外へ出ていったのよ」
「何だって? わたしはそんな伝言など……」
「わしも、今そう言っていたところだ」男爵が重々しく頭を振った。「君はそんな使いなど、出してはおらんとな」
「いつです? それで二人はどっちに行ったのですか?」
 子爵が顔を強張らせて院長に詰問したので、院長はさらにおろおろした情けない声を出した。
「う、裏の通りの方に出て行かれたように見えました。まだ、さほど時間は……」
「おい、どうするつもりだ?」
「侍女達が、彼女を見ているはずだ」
 返事もそこそこに、子爵は足早に階段に向かっていた。


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12/05/20  更新
今回は、アンナとカークのその後とか、男たちの本音トークとか、おまけ的要素が多かったですね(笑)
次回で、スプリングブーケ、ラストです。。。