Chapter 0

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 母が出してくれた乾いた衣服に着替えスープを飲んで、パトリシアがようやく落ち着いたのを見ると、ロイは彼女を家まで送ると言って聞かなかった。
 だが、一緒に森屋敷の近くまで来ると、彼女はためらうように立ち止まってしまった。

「ロイ、どうもありがとう。もうここでいいわ」
 ロイは怪訝な顔で彼女を振り返った。
「だめだよ、パット。俺も行って、ミセス・ニコルズに謝らなくちゃ」
 なおも屋敷へ行こうとする彼を押しとどめ、彼女は教科書と濡れた服を受け取った。
「大丈夫、どうせ今はお手伝いのエムと弟しかいないもの。お父さんもお母さんも町に行ってるから、きっと今晩も遅くなるわ。だから、このことは誰にも分からないわよ。お願い、もう、ここで帰ってちょうだいね」
 そして茶目っ気たっぷりにこう付け足した。
「ねえ、ロイ。あたし、こういう服でもけっこう似合う?」

 彼は目を細めて彼女の全身を眺めた。実際、その大人用の服はまだ大き目だった。ロイの母親が貸してくれたスタンドカラーの白い綿ブラウスは、袖を折り上げ、丈の長いスカートも、ウエストをサッシュでぐっと縛らなければはけなかった。けれど、その服装のおかげで、もともと同い歳の少女達よりやや背が高いパトリシアは、随分と大人びて見えた。笑いながらくるりと一回転すると、解いた黒髪がふわりと背中に揺れる。

「今日はありがとう」
 パトリシアは黒い瞳に笑みをたたえたまま、彼の頬にそっとキスした。
「舟さえ漏らなければ、きっと素敵なクルーズだったわね。それに服を着たままあの川を泳いだことも、もう少し経てばけっこう愉快な思い出になると思う……」
 だが、その笑顔と言葉も、彼の何ともいえない眼差しに気付いた途端、消えてしまった。代わりに怪訝な表情になる。ロイはいそいで作り笑いを浮かべ、顔を寄せた。彼女はいつものように、頬に親愛のこもったキスを受けると思ったし、彼も最初はそのつもりだったかもしれない。

 だが、ロイの目にはいつになく真剣な色が浮かんでいた。得体の知れない何かを感じて、パトリシアは一瞬目を伏せてしまった。その途端、唇に柔らかく熱いものが覆いかぶさってきた。それは柔らかな彼女の唇をなぞり、次第に暖かく包み込んでいく。
 華奢な身体が驚きに震えたとき、強い手が肩を掴んで引き寄せた。気が付くと堅い胸に両腕で優しく、それでいて力強く抱き寄せられていた。
 それは長い間ではなかった。ロイは始めたときと同じくらい唐突に、抱擁を解いて顔を上げた。その顔は無表情だった。彼女は目を見開いて彼を見つめ、大きく一つ息を喘がせた。
「今……あたしに、何をしたの?」
 それだけ言うと数歩後ずさり、くるりと背を向けて一目散に屋敷に駆け込んでしまった。

 しばらくの間、彼は目に困惑と苛立ちの色を浮かべながら、彼女が消えた門をじっと眺めていた。やがて我に返ったようにポケットに手を突っ込むと、きびすを返しすたすたと歩き出した。
 家に向かいながら、彼の心の中は、パトリシアのことでいっぱいになっていた。


*** ***


 その夜、パトリシアはなかなか寝付かれなかった。別れ際に、ロイと交わした突然のキスを思い出しては、ベッドの中で転々と寝返りを打つ。
 あれはいったい何だったのかしら。いつもしている友達同志の親愛をこめたキスとは、明らかに何か違っていた。彼の表情を思い出すと、なんとなく恥ずかしいような甘いような、不思議な気分に襲われる。
 嫌だわ。明日ロイに会ったとき、どんな顔をすればいいの?
 だがそこでふと気を取り直す。案外わたしの考え過ぎで、彼にとっては何でもないことだったのかもしれないじゃない……。

 結局、彼女がようやく眠りについたのは、かなり遅くなってからのことだった。

 そんな訳で、パトリシアは翌朝寝過ごしてしまった。陽気な朝の光が部屋の張出し窓から、室内に燦々と降り注いでいるのに気づき、慌てて飛び起きる。
 急いで身支度を整えると、いつものように黒髪を左右おそろいのリボンで少量だけ結び、残りは肩の下までさらりと流した。鏡を覗き込んで自分の姿を確認すると、慌てて朝食に下りて行く。
 例のことは、もうこれ以上考えないようにしよう。

 ダイニングでは両親も弟も、とうに席について待っていた。遅れた彼女がややきまり悪そうに座ると、ニコルズ氏はすぐさま低い声で食前の祈祷を唱え始める。

 パトリシアはこの時間があまり好きではなかった。食事中に話すのを好まない父のおかげで、たまにぽつりぽつり出る話題も一言二言で終ってしまう。もっと楽しく食べられればいいのにと、いつも思う。
 だが、その日はなぜか、弟のエリックがニヤニヤしながらずっと自分を見ていた。ついに顔をしかめて弟に向って思い切り舌を突き出す。すかさず母から注意され、再びすまして食事を続けながら、もう少しおしゃべりできたらいいのに、などと考えていた。

 やがて食事が終り席を立とうとしたとき、母から声がかかった。
「パット、ちょっとお待ちなさい。お話があります。リック、食べ終ったならあなたは先に学校にお行きなさい」
 こう息子をせき立て部屋から追い出すと、ニコルズ夫人は気遣わしげに、 パトリシアに目を向けた。
「どうしたの? 何かあったの?」
 目を丸くしながら問い返す娘に、ニコルズ夫人はため息混じりに答えた。

「昨日の午後、どこかの男の子と一緒だったそうね」
「………」
「それで、あなたはその……」
 母は続きを口にするのをためらうように父を見た。父も厳しい顔で彼女を眺め、二つ咳払いする。
「夕べ買い出しに行ったジョンが、店で聞いてきた話によると、昨日お前は、ある男と、いや少年か、一緒にいたそうだね。その上、その少年が濡れた衣服のまま、お前をその……抱きあげて、村の小道を歩いていたというのだ。信じられないことだが、本当なのかね?」
 とっさに彼女は何も答えられなかった。だが頬を赤らめ力なく俯いた仕草 から、両親にもわかってしまったようだ。
「パトリシア……」
 ニコルズ氏は黒い目を細めて厳粛な声になった。
「どうやらお前は、もう少しレディの慎みとかたしなみというものを学ぶ必要があるようだ。お前が今後も村の男の子達と、そういう無分別な遊びをするなら、わたしもお前の教育の仕方について、よく考えなければならないよ。それにそういう少年達とあまり親しくなるのも考え物だ。お前はしばらく学校に行かなくてもいいから、部屋でおとなしくしていなさい。明日まではどこへも行ってはいけない。いいね」
「……はい、お父さん」

 一方的に言われても何一つ言い返せず、しょんぼりしたまま部屋から出て行くパトリシアを眺めながら、ニコルズ氏はうなった。
「こんなことでは、予定よりも早く、向こうに送った方がいいかもしれん」
「でも、あなた……。パットはまだ十三ですよ。いくらなんでも早過ぎますわ。もしご心配なら、これからジョンにでも迎えに行かせたらいいじゃありませんか」
「まあ、君がそう言うなら……」

 氏は表情を和らげ、妻を安心させるように少し微笑んだ。
「わかったよ。もうしばらく、手元に置いて様子を見ることにしよう」


*** ***


 サマセット村の中央通りには、いくつかの商店が軒を連ね、夕刻の活気を見せていた。二年ほど前から週に四日、学校が終ったあと、ロイは食料品店で働いていた。
 主に裏方仕事や、荷馬車を用いた運搬・配達の仕事だ。その日は農家から運んできたばかりの目方が三、四十キロもあるジャガイモや麦の大袋を、肩に担いで倉庫まで運んでいた。賃金はさほどいいとも言えなかったが、ノヴァスコシア行きを密かに目指す彼にとっては、誰に何と言われようとも貴重な収入源だった。
 彼の父親はあまり子供の教育に関心を持っていなかったし、そもそも日々の生活すら楽ではなかった。そんな中で、上の学校に行きたいと両親に頼むことなど、ロイには到底できなかった。
 だが食料品店の店主であるマジソン氏の理解と、彼自身の努力のおかげで、あともう少しがんばれば一年分くらいの学費ができる。そうしたら、また学校へ通いながら、できる仕事をすればいい。
 そして以前に比べ、足腰がかなり強くなり身体も鍛えられてきたようだ。

 彼が袋を倉庫に片付けて戻ってみると、店から三十代半ばくらいの小太りの女が出てきて、真っ直ぐ近づいてきた。ロイは額の汗をぬぐいながら立ち止まった。

「あんたが、ロイド・クラインなの?」


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16/12/06
やっぱりこれくらいの間隔での再掲更新になりそうですね。
ボツボツとですが、よろしくお願いします〜。