Chapter 10

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 パトリシアは、サマセット村のはずれにあるみずみずしい緑の森に立っていた。
 柔らかなコケの生えた地面には、木漏れ日が陽気な葉陰を落としている。

 彼女は先ほどからロイを探して歩きながら、辺りをしきりに見回していた。
『ロイ、ロイ、どこにいるの? かくれんぼはもうおしまいよ。出てきてちょうだい。一緒に家に帰りましょう』
 大声で呼んでいるのに、答えが返ってこない……。
 あの人が先に帰ってしまうはずはないのだけれど……。

 そのときふいに森が開け、見たこともない街道筋に出た。道沿いに立つ大きな栗の木の下に、白いカッターシャツにズボンをサスペンダーで吊り下げた、昔ながらの格好のロイがこちらに背を向けて立っている。
 彼は背が高くたくましい十六歳の少年のままだった。そしていつの間にか、パトリシア自身もお下げ髪とエプロンドレスの十三歳に戻っていた。

『ロイ、こんなところにいたのね。やっと見つけたわ』
 ほっとして笑顔で駆け寄った彼女を、しぃっと手振りで押し留めると、彼はなおも向こうの一点を見つめ続けている。その瞳の中に奇妙な焦燥と憂いの色があることに気付いた途端、どうしようもない不安が彼女を捕らえた。
『どうしてそんなつらそうな顔しているの? いったい何があるの?』
『君には見えないのかい? あれが……』

 ロイの指差す先に目を向けたとき、パトリシアは思わずあっと声を上げそうになって、慌てて口元を押さえた……。


 それはさながら、霧の中をゆっくりと進み行く葬送の列のようだった。
 年若い者から四十がらみくらいまで、無数の男達が、ある者は足を引きずり、ある者はよろめきながら歩いていた。肌の白い者も少し浅黒い者もいる。ある者は軍服を身に着け肩から銃剣を下げていた。本を抱えた学生風の若者や、作業着姿のままでくわを担いだ農夫もいる。
 彼らの表情はあたりにかかった霧に隠され、ぼんやりとしか見えなかった。だが、その口元は一様に緊張し、こわばっている。そして皆が皆、疲れ切っているのは明らかだった。顔も着ている衣服も泥やほこりにまみれ、黒ずんでぼろぼろになっている。中には傷ついて足や肩や胸から血を流している者までいた。

 だが、その男達はすべて、目の前を通り過ぎていくだけの実体のない影帽子に過ぎなかった。どんなに痛ましくても、手を差し伸べて手当てをすることもできない。
 はるか彼方の空で遠雷が光った。嵐になるのかもしれない。それでも、行列は決して止まることなく黙々と進み続けていた。突然黒雲が広がり、さらに暗くなった大きな街道いっぱいに広がったその群れは、遠くまで延々と続き、とうとう最後に雷のひらめきとともに視界から消え去るように揺らぎはじめた……。

 息を殺して見ていたパトリシアの背筋を、氷のような寒気が走った。この人達はどこから来て、いったいどこに向かっているのだろう?
 何もわからなかったが、とにかく無性に怖くなった。彼女は傍らに立っているロイの手を絶対に離すまいと、ぎゅっと握り締めた。彼の手が震える小さな手をそっと握り返してくれる。けれどその手は驚くほど冷たくなっていた。

『あなたは行かないわよね? どこにも行かないでしょう?』
 不安に押しつぶされそうになり、とうとう我慢できなくなってこう問いただした。早く大丈夫だと笑ってほしい。
 その時彼女を見返したロイのブルーの目に、どこか光輝にも似たおごそかな決意と、濃いあきらめの色が浮かんだ。ふっと微笑んだ彼は、とても悲しそうに見えた。
『だめなんだ。君のそばにずっといたいけど、僕も行かないと……』
『いやよ! 絶対にいや! どうしてそんなことを言うの?』
 夢中になって、つかんでいた手を両手で引っ張りながら叫ぶ。
『まだだよ。そう、僕が十八になったときにね』


*** ***


「パット! パトリシア、起きて」
 優しく幾度も名を呼ぶ声が聞こえた。身体をそっと揺さぶられて、ようやく目を開く。どうやら深く眠り込んでいたらしい。ぐっすり眠っていたらしく、今自分がどこにいるのか、思い出すのに少し時間がかかった。
 とても暗かった。窓から差し込む月の光だけが、闇の中に宿の部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。おびえたように周囲を見回した彼女の身体を、力強い腕がしっかりと包み込み、あやすように声をかけながら幾度も揺すってくれる。
 心配そうに覗き込むロイの顔も、半分陰になっていた。パトリシアは何度か瞬きして眼の焦点を目の前のロイに合わせると、ほっと深いため息をついた。

 夢だったのね……。

 あの時感じた、胸を締め付けられるような禍々しい不安感は、いったい何だったのだろう? なんと生々しい夢だったことか……。
 まだ心臓が激しく脈打っていた。こめかみににじんだ汗を、ロイが髪をかき分け優しくぬぐってくれる。その親密な仕草に、なんとも言えず安堵した。
「大丈夫かい? ひどくうなされていたけど」
「え、ええ。何でもないわ、ただの……夢よ」
 そう。訳のわからない、ただの悪夢……。
 それから、目の前の愛しい男性が消えてしまわないと確かめるように、彼の引き締まった頬から、この二日間で少し伸びたひげにざらつく顎の線を、指先でゆっくりと辿りはじめた。

「わたしったら、寝ながら騒いで、あなたまで起こしてしまったの? ごめんなさいね……」
「いや、もともと眠ってはいなかったから。どう、まだ痛むかい?」
 ロイは彼女を、いっそう引き寄せようとしながら問いかけた。
 初めて愛し合って二人で頂点に達した後、ぐっすりと眠り込んだ彼女の寝顔を、飽きずにずっと眺めていた。突然、彼女が苦しそうにうなされ始めるまで、起こしてはいけないと、もう一度触れたいという強烈な誘惑に懸命に抗いながら。


 自分を見つめるロイの眼差しにも声にも、そして抱き寄せてくれる腕の力強さにも、疑いようもないほど深い愛がこもっていた。パトリシアはさっきの寝覚めの悪さも吹き飛んでしまうほどの強い喜びを感じた。心から安らぎ、彼のぬくもりに自ら肌をすり寄せていく。
 全身がひどくけだるかった。身体の一番奥深いところに残る、うずくような痛みの訳を思い出した途端、女として新たに生まれ変わった感動がこみ上げてくる。
 まだ結婚もしていないのに、と非難されても別に構わなかった。花びらのような唇に自然に笑みが咲きこぼれる。


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17/05/02