Chapter 12

page 1


 翌日も、トロントの空はまぶしいほど晴れていた。

 昨夜のうちにパトリシアはチャンドラー邸に連れ戻されていた。母は心から安堵したように彼女を抱き締め、父は彼女の話を聞くより先に「ゆっくり休みなさい」と言い置いて部屋から立ち去ってしまった。あとは、好奇の目を光らせながら表向き至極丁寧に世話を焼く使用人達にされるまま、沐浴し夜着に着替えて床についた。
 ロイと二人きりで、身も心も結ばれ激しく愛し合ったのはつい昨夜のことなのに、すでに遠い過去の出来事のような気がする。
 それほど一夜にして何もかもが変わってしまった。
 眠れるとは思えなかったが疲れには勝てず、うとうとまどろんだ。そのたびに、ロイの低い声と優しく触れる手の感触が夢の中に蘇る。目覚めると、我知らず素肌がほてっていた。


「お嬢様、もう少し召し上がってくださらないと……」
 翌朝遅く、ほとんど手付かずの朝食の皿を見たメイドがぶつぶつ呟きながら、彼女の前にお茶を置いて出て行った。パトリシアが放心したように椅子に座っていると、また扉が開いた。
 反射的に顔を上げると、アーノルドが立っている。車の音さえ聞こえなかったらしい。
 パトリシアの生気のない瞳が、元婚約者の顔を掠めた。ロイが「殴ってやった」と言った通り、数日経った今も顔にはまだ腫れが残り、目元や口元が切れている。いつものハンサムな顔が台無しになっているのを見て、密かに冷たい満足感を覚えた。
 彼女が頑なに自分を拒絶するように目を逸らし続けているのに業を煮やし、アーノルドはつかつかと入ってくると皮肉に声をかけた。

「ようやくご帰還だな。どうだい? 今の気分は」
「お蔭様で最高だわ。……ロイはどうなったの?」
 精一杯の返事と共に、つい一番気にかかっていることが口をついてしまった。途端に元婚約者の声もさらに毒を含む。
「そんなに心配かい? ふふん、いいだろう、教えてやるよ。あいつは今警察の鉄格子の中さ。余計な首を突っ込んだんだ。当然だね。あの愚か者がどうなろうが僕らの知ったことではない。完全に自業自得だよ」
「彼をそれ以上侮辱するのは許さないわ!」
 パトリシアは我慢できないというように、アーノルドを真正面から睨みつけた。自分にもっと鋭い爪があればいいと思う。この傲慢な顔を猫のようにかきむしってやりたい。
「本当なら、『当然』そこにいるべきなのはあなたじゃないの。元はと言えば、全部あなたがしたことでしょう!? ロイが何もしていないことはあなたが一番よく知っているはずだわ」
 アーノルドは驚いたように目を細めた。なぜかぎくりとした顔になると、急くように訊ねた。
「奴から何か聞いたのか? あいつは何と言っていた?」
「彼は何も言わないわ! あなたと違ってね」
 彼の口からほぅっとため息が漏れた。全身に冷たい怒りの火を燃やし身を震わせるパトリシアを、アーノルドは憎らしげに睨み返した。その口調はあくまで尊大だった。
「おやおや、ご立派な口を叩くじゃないか。だが、もう少ししおらしくする方が君のためだね」
「はっきり言っておきますけれど……」
 悔しさに息が詰まりそうになり、大きく息を吸い込んだ。今度はきっぱり言い返す。
「わたしはあの人に誘拐された覚えはこれっぽっちもないわ。よくもそんな口から出任せを言い続けられるわね。少しは恥を知ったらどうなの? あなたの心には良心なんてかけらもないの?」
「良心!」アーノルドが馬鹿にするように鼻先で笑った。
「婚約者の目の前で、他の男に身を任せるような女が、何の良心を説くつもりなのかお聞かせ願いたいものだ」
「………」
「あいつと君は、そもそもどういう関係なんだい? 僕も色々考えてみたが今度の君の行動だけは、どうしても腑に落ちない。今まであんなに僕に従順だった君が、突然反抗的になったと思ったら、次はろくに知りもしない男と……」
「あなたには決してわからないでしょうね。わかりたいとも思わないんじゃないかしら」
 彼女はひるまず相手を見返した。少し落ち着いて答える。
「これが本来のわたしなのかもしれない。ずっとわたしは自分の思いを否定してなんでもあなた達の言いなりになってきた。それが間違っていたのよ」
 アーノルドはふんと鼻を鳴らしただけだった。彼女は目を伏せ半ば一人言のように呟いた。
「それを教えてくれたのはあの人だわ。ロイは、わたしのサマセット村での古いお友達よ。そう……、十三の頃から、わたしは彼を決して忘れたことはなかったわ……」

 謎めいた目つきで眺めていたアーノルドがふいに彼女の隣に腰を下ろした。反射的に立ち上がろうとしたがつかまえられ、強引に抱き寄せられてしまう。
「嫌よ。やめてちょうだい、アーノルド。こんなの卑怯だわ」
 驚きと怒りがさらに重なり、彼女は命ずるように目の前のアーノルドの顔を睨みつけた。
「君こそ、まだ反抗し足りないのかい? 少しぐらいなら刺激になるが、限度がある。度が過ぎるのは考えものだね。君を奴のベッドで見つけたと、僕が正直に叔父さんに言えばどうなると思ってるんだ?」
 彼女がはっとしたように身体をこわばらせた。それではまだ言っていないの? なぜ?
 彼女の動揺を読み取ったように、アーノルドの囁きは更に低くなった。
「今の叔父さんにはあまりにも衝撃が強すぎるだろう? だから言わずにおいてやったのさ。今卒中で倒れられても困るからね。感謝してもらいたいな。さて、わかったら君も今まで通りいい子にしておいで。君がそういう態度を続けるなら、残念だが……」
「脅しても無駄よ。何でも好きなようにするといいわ。あなたとの婚約はもうとっくに解消したんですもの」
 彼女は今度こそ力いっぱい身を振りほどき立ち上がった。軽蔑しきったように彼を睨みつける。
「わたしはロイと結婚するんです。もう金輪際わたしに触れたり話しかけたりしないでちょうだい。あなたなんか大嫌いよ、アーノルド! わたしの部屋から出て行って!! 二度と顔も見たくないわ」
 次の瞬間、顔に平手が飛んできた。頬がひりりと痛み、パトリシアの身体は再び椅子の背もたれに倒れこんでいた。
「口で勝てなくなるとすぐこれね。本当に最低……」
「偉そうな口をきくな! 売女が。ああ、もちろんだとも。婚約はこちらからなかったことにしてやるよ。君のような尻軽はホイットリー家の嫁には断じて相応しくない。ついでに周囲にも婚約解消の理由を公表してやろうか? 君に求婚してくる男など、金輪際誰もいなくなるだろう」
「それこそ望むところだわ。お好きにどうぞ! 今すぐわたしの前から消えてちょうだい!」

 心が粉々に砕けてしまいそうだ。それでも最後のプライドをかき集め、憎らしいアーノルドの前では必死に虚勢を張り通した。昂然と顔を上げ続ける彼女の耳に、ドアが荒々しく閉まる音が聞こえた。


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/05/28