Chapter 12

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 ようやく一人になった途端、彼女はそのまま椅子にくずれるように突っ伏してしまった。本当に残った力まで皆使い果たしてしまった。
 ロイと結婚……? こんなことになっても、彼はまだわたしを愛してくれているかしら?
 とにかく思い切り泣きたかった。何もかも忘れるくらい泣けば、少しは気も紛れるかもしれない。
 だがそこで、彼女は自分を厳しく叱責した。いいえ! まだ駄目。ロイは今も警察に捕らえられているのだから。
 その時、最後に耳元で勇気づけてくれた彼の声が、はっきりとよみがえってきた。

『たとえどんな状況になっても、何とかその中で最善の方向に持っていけるよう、僕らは努力しないといけない。そうだろう?』

 また涙があふれてきた。急いでそれをぬぐうと、心の中でロイに向かって大きくうなずいていた。



 それから、彼女はしばらくじっと考え込んでいた。不意に思いつめた目を上げる。もう昼近くになっていた。
 どうして気付かなかったのだろう?
 これなら父や伯父も動いてくれるかもしれないじゃないの。
 アーノルドとのさっきの会話が気にかかったが、とにかくやってみるしかない。パトリシアは部屋の鏡を覗き込んだ。懸命に落ち着こうと努めながら、髪と衣服をきっちり整え直すと部屋を出た。
 母親に父の所在を尋ねると、ホイットリー邸だという。
「それなら、今すぐ伯父様に会いに行きます。馬車をお願い」
 彼女は驚く母に、きっぱりと言った。


 ホイットリー邸につくと、脇目も振らずに伯父の書斎に上がっていった。中から話し声が聞こえたが、とにかく夢中で扉を開いた。昼でも薄暗い室内で父とトーマス伯父が向かい合わせに座って何か話し込んでいた。二人が同時に振り返り、ノックもせずにいきなり入ってきたパトリシアに驚きの目を向ける。
 だが話しかけてきた伯父の声は、あくまでも穏やかで優しかった。
「おやおや、パトリシアじゃないかね。いつ来たんだね。少しは落ち着いたかな? まるで病人のような顔色だよ。そういう時は部屋でゆっくり休むべきだがね。いったいどうしたんだね? それにしても、部屋に入るときはノックくらいはするものじゃないかね」
「申し訳ありません、伯父様。ですがどうしても、どうしても今すぐお話しなければいけないことがあって……」
「何事だね?」
 どうやら、まだアーノルドは来ていないらしい。静かに尋ねる父親を見返す彼女の目は必死だった。
「お父さん、それに伯父様、あの……、わたしと一緒にいたクライン弁護士のことなの」
 ロイの名を口にした途端、父の表情がこわばる。彼女は喉から次の言葉を押し出した。

「彼を警察から出してください! あの人はずっとお父さん達の鉄道債の取引について調べていたんです。ラトランド商会のこともこちらの内情も、すでに彼には何もかもわかっています。このまま警察に留めていれば、わたし達にとって大変なことになると思うわ」

「何だって?」
 父が顔をこわばらせ伯父を見やった。伯父の眼が途端に鋭く細められる。
「パトリシア、それはどういう意味かね? もう少し詳しく話してご覧」
 猫撫で声とは裏腹に、彼女を見すえる伯父の目は緊張していた。
 パトリシアは思わず唾を飲みこんだ。今の自分の言葉がロイにとって良かったのかどうか、だんだん自信が持てなくなってくる。だが二人は無言で続きを待っていた。

「ロイは……、わたしが見せたお父さんの文箱の書類を見たとき、こちらの事情を大体理解したみたいなの。でも、彼はそれでどうこうしようなんて、これっぽっちも考えていないわ。ただ……わたしを助けてくれただけなんです。悪い事など一つもしていないし、警察にいなければならない理由なんかないの。どうか彼を助けてあげて、お願い!」
 懸命になるあまり自分でもだんだん支離滅裂になってくるような気がした。そんな彼女を見て二人の男は深々とため息をついた。伯父がこの馬鹿な娘が、と忌々しそうに呟くのが聞こえる。
「アーノルドはいるか? ここに呼べ、今すぐに」
 呼び鈴に応えてやってきたメイドに伯父は厳しい声で命じた。パトリシアはさっと緊張した。父が苛立ったように伯父に向かって声を荒げている。
「だから、わたしが前々から言っていただろう? 本来の方式でないものはいつか必ず無理を来たすと。この始末、どうつけるつもりかね?」
「また手を打つしかあるまい?」
「では君はそうやって『手を打ち』続けるつもりなのか? この世の終わりまで果てしなく?」

 書斎に入ってきたアーノルドは、パトリシアがいるのを見て驚いたように足を止めた。彼の怪訝な表情が嫌な微笑に変わる。彼女は思わず唇を噛み締めた。ホイットリーはまだ顔に腫れが残る息子を苦々しく見すえ、いきなり本題に入った。
「お前は無事に取り戻したと言っていたな。だからもう心配はないと」
「突然、いったい何の話です?」
「もちろん例の書類の話だ。どうやらその中身を全てその男に読みとられていたようだな。なぜあの日わしにすぐ報告しなかった?」
「こ、この馬鹿な女がわざわざ何を言いに来たのか知りませんが……」
 アーノルドがいかにも軽蔑しきった、と言わんばかりの目で彼女を睨んだ。話の矛先を変えようとしている。そう気付いたがすでに遅かった。
「僕がパトリシアを見つけたのはそのロイド・クラインという男のベッドで、だったんですからね。しかも半裸で、ですよ! ということはつまり……言わずともお分かりでしょう? そのときの僕の動揺もご理解いただけますよね。そこまではとても気が回らなかったんです」
「あ、あれは休んでいただけだわ! それに、それに何が動揺よ、大嘘つき!」
「おやおや、往生際が悪いね」

 パトリシアはこわばった顔でアーノルドを睨み返した。一瞬凍りつくような気配が漂う。父が大きく息を吸い込んだ。拳が小刻みに震えている。
「お前、お前は……」
「まぁ、落ち着け。その話はあとだ、アーノルド」
 ホイットリーは息子を険しい目でさえぎると、ニコルズに向かって唸るように言った。
「やはり……、このクラインとかいう男、放っておくわけにもいかんようだな。わしは今から警察に行ってくる。アーノルド、お前にも後で言いたいことは山のようにあるぞ。逃げるなよ!」

 息子に厳しく言い渡すとホイットリーはステッキと帽子を取り上げ、書斎から出て行った。アーノルドは後ずさりながら、その場に立ち尽くす親子を交互に睨みつけていたが、何も言わずにきびすを返して憤然と出て行った。
 ドアが荒々しく閉まった後、書斎には父と娘だけが残された。


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17/05/31