Chapter 13

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「人違いだな。この村では誰もそんなことはしない」
 相手は見当が狂ったように目をしばたかせた。掴まれた手を引き離そうともがくが、ロイの手は万力のように締め付けて離さない。そのとき、それまで黙っていた黒髪のやせた気真面目そうな男が、ようやく間に割り込んできた。

「ワット、もういい。なるほど、お前がロイド・クラインだな。色々話は聞いてる。一つ忠告したくて来た。デイジー・ミラーに手を出すな。横から出て来てかっさらうような真似をすればどうなるか……」
 ロイは視線をボブと呼ばれた男の紅潮した顔に移した。こっちは比較的まともそうに見えるが……。
「……なるほど、そういうことか」
 ようやく合点が行くと、ロイは掴んだ相手のこぶしを押し戻すように突き放した。ワットと呼ばれた男はよろめき、悔しそうに顔を歪めている。
「そういう苦情を言いに来るときは、先に名乗るのが礼儀じゃないか? 名は? どこに住んでるんだ?」
「コ、コープ通り……、スマイルズ家のボブとワットだ。3年前ノヴァスコシヤから移住してきた……」
「兄弟なのか?」
 3年。それで覚えがない訳だ。頷きながら、ロイは再びボブにしっかり目を合わせた。
「そういうことはデイジー本人に直接言うべきだな。ボブ・スマイルズ。安心しろよ、俺はそういう問題に関わるつもりは一切ないんだ」
「そんなはずあるもんか! デイジーが毎日のようにお前のところに通ってるのはとっくに噂になってるんだぞ! お前が来てから俺なんかとは口もききやしない。教会帰りに送っていくと言っても気取り返ってさっさと行ってしまうんだ。前はそうでもなかったのに、お前のせいで……」
 まったく……、だから小さな村はやりにくい。今度こそ深いため息をついた。
「俺とデイジーは単なる学校時代の友人同士というだけだ。それ以上には決してならないさ。いいか、ボブ。本気で惚れてるなら、その勢いでデイジー本人にぶつかって見るんだ。もう俺のところには来ないように、彼女にも言っておくよ」
 ロイは低い声でそう繰り返すと、呆気にとられた二人を突き放すようにその場を離れ、川辺に続く街道へと荷馬車を返した。

‘本気で惚れてるならその勢いで本人にぶつかって見るんだ……’
 たった今口にした言葉が、まるであざ笑うように彼自身に跳ね返ってくる。

 丘陵地の彼方、広がる茜空に積乱雲が急速に膨らんでくるのが見えた。
 どうやら通り雨に遭いそうだ……。


*** ***


 それからわずか2日後のことだった……。

 そのときロイは、たまたま町に出ていた。
 いつものように近隣の農家からマジソン食料品店に頼まれた穀物袋を荷馬車で運び、倉庫で作業をしていた。
「ロイド、おい! ロイド・クライン! いも袋なんぞほっとけ、早く出てこんか」
「……どうしたんです?」
 店の方からやかましく呼び立てられ、むっつりと出てくるなり店主からギンガムシャツの襟首を掴まれた。
 驚く彼の目の前に、激しく興奮し紅潮したマジソン氏の太った顔があった。襟首を掴まれたまま、ロイの身体が前後に揺れる。
「落ち着いてください。いったい……」
 店主はやっと気が付いたように揺さぶるのを止めた。尋常ならざる興奮ぶりに彼は思わず眉をひそめた。
 嫌な予感が走る。相手は唾を吐き飛ばさんばかりに大声でがなりたてた。

「とうとう始まったんだとよ! こいつはどえらいことじゃないか!!」
「何がです?」
「シャーロットタウンから、ハリス長老の家に電話が入ったそうでな。あっちは今この噂で持ちきりだそうだ。わしもたった今聞いたばかりなんだが……」
「だから何を?」
 さっぱり要領を得ない説明に、聞いているロイの方が次第に苛立ってくる。
「戦争だともさ! 決まってるじゃないかね。他に何がある? イギリスがとうとうドイツに宣戦布告したそうだ。いよいよ来たな! これからあちこちの村で義勇兵を募るそうだぞ。無論ここでもな」
「………」
「ロシア、フランスだけではドイツ野郎の相手は心許なかろうが、イギリスが組んだとなればもう心配はいらんぞ。奴らのベルギーへのやり口には、わしもはらわたが煮えくり返っていたんだ。しかもだ、そこへさらにカナダまで打って出るとなれば、そう長い戦争にもなるまいさ。おごり高ぶったドイツのカイゼルに早く一泡吹かせてやりたいもんじゃないかね。いやー、わしがもう20も若ければ、出かけて行ってドイツの犬どもなんぞ一網打尽にしてくれるんだが! さぞ、胸がすく思いだろうな!」

 予感は的中した。誇らしげに喋り続けるマジソン氏の話は延々と続いた。
 ロイは、開きかけた口をまた閉じてしまった。この期に及んで言うべき言葉は何も見つからなかった。老いたる母国がついに戦いに望んだ。そして、その結果は自分達の明日と未来に密接に関わってくるのだ。重要な事実はそれだけだった。
「どうしたんだね? なんだか生っちろい顔してるじゃないか。お前さんももっと興奮するものと思ったがな。村の若い連中ときたらそれはもう……」
 ロイは襟首にかけられたマジソン氏の両手をはずしながら、淡々と答えた。
「その報せのどこがそんなに嬉しいのか、俺にはさっぱり理解できませんね。今日の新聞はまだなんですか?」
「うん? そういえばまだ見ていないぞ。郵便馬車もそろそろ着く頃じゃないか。そうだ、一つ聞いてこないとな。さらに詳しい情報が入るだろうて。お前さん、時間があるならちょっとここに残っていてくれんか」
 ぶつぶつ呟きながら店を出て行くマジソン氏を見送りながら、ロイはしばらくその場にじっと佇んでいた。

 オーストリアの皇太子夫妻暗殺事件から一か月。大洋を越えてカナダ上空まで垂れ込めていたヨーロッパの黒雲から、とうとう激しい雹が落ちて来るのだ。
 昨日までの情報を反芻しながら、彼はゆっくりとカウンターの中に入っていった。


*** ***


 イギリス参戦の報は、狭いサマセット村を野火のように走り、瞬く間に村中に広がっていった。その報せは夕食を前にした平和な村に激震をもたらした。

 ようやく届いた事の詳細を報じた新聞を手にした男達は、興奮のあまり台所に整えられつつあった食事などには見向きもせずに、外に飛び出して行く者も多かった。
 訳がわからず呆然と目を見交わす女達とは裏腹に、大多数の人々、ことに血の気のあり余った屈強な若者達の間では、その事実は歓声と共に熱狂的に受け入れられていった。
 早速州都シャーロットタウンに電話がかけられ、カナダ軍の第一次義勇兵募集のことを聞くや、志願する者が現れはじめる。数日の内に、平和だった村の雰囲気は一変していった。もはや事態は、遠いヨーロッパの問題には留まらなかった。

 かつて遭遇したことのないこの事態に、村人達の反応は総じて賛同的だった。
 数日前まで最も重要な問題だった作物の出来や、穀物相場の話などは完全に忘れ去られ、人々は寄ると触るとどこの誰が志願したの、軍服がどうの、ドイツ軍がどう出るか、といったことばかり熱心に論じ合っていた。


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17/07/22