Chapter 14

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 開戦後しばらく経つうち、世界中の人々が――当のドイツ帝国参謀本部でさえ例外なく――その戦争に対する楽観的な見方を修正せざるを得なくなった。

 ドイツは十年来の計画に従って、中立だった隣の小国ベルギーに侵攻した。ベルギーを通過点としてドイツ・フランスの国境沿いに大隊を配し、一気に包囲して一か月半でフランスを攻略し終える、という短期決戦の腹積もりを持っての開戦だった。
 だがフランスは苦戦しつつも善戦した。そこへイギリス・カナダ軍が加わり、セーヌ川上流のマルヌ河畔で、ドイツ軍150万とフランス・イギリス連合軍約100万の兵力が激突した。これが9月上旬のマルヌ会戦である。河を血で染めた戦闘の後、奇跡は起こった。ドイツは退却を余儀なくされ、陥落目前と言われたパリは守られた。

 9月半ば、退却したドイツ軍はフランス国境からほど近いエーヌ川沿いに塹壕を掘り始めた。これに対峙するべく、連合国側も並行するように塹壕を掘り始める。
 そして……戦況は完全に膠着した。西部戦線は兵士達にとって悪夢の如き塹壕戦へと、否応なしに移行していくことになる……。

 深まり行く秋の季節さえ、今年は例年の輝きを失っているように見えた。


*** ***


 その日の午後、トロントの目抜き通りに面したチャンドラー邸の前に予告なく一台の車が停まった。

 降り立ったホイットリーは苦虫を噛み潰したばかり、という顔つきだった。羽振りのよさを示す太った赤ら顔は相変わらずだが、近頃どんどん精彩を失っていきつつあった。父に続き邸に入った次男アーノルドも、いつになく神妙だ。
 ホイットリー家にとって、遠いヨーロッパの地でベルギーの子供達がドイツ兵の銃剣により大量殺戮されていようが、フランスが国土の大半を占領されようが、そんなことは問題ではなかった。
 唯一の重大事は、この戦争がヨーロッパからカナダに至るまでの金融市場に、思いもかけない深刻な打撃をもたらしたという現実だ。戦争開始と同時に暴落した金融市場は一時回復の兆しを見せたものの、長期戦が囁かれるに及んで再び下落する一方だった。


「また大幅に下がったぞ……」
 ホイットリーはチャンドラー家の一同――ニコルズ一家も含む――がそろっていた広い居間に入ってくるなりこう唸った。安楽椅子に余裕たっぷりに座る義弟、チャールズ・ニコルズを睨みつけ悲鳴に近い声になる。
「とうに知っているんだろう? 鉄道債は今や債権購入時の半額にまで落ち込んでしまった。しかもだ! いったいいつこの戦争は終わる? このままでは証券が紙切れ同然になってしまうかもしれんぞ。おい、お前も関係があるだろう。落ち着いていないで何とか言えばどうだ?」
 皮肉な眼差しで義兄を見上げたニコルズが、くっと顔をゆがめ、次の瞬間大声で笑い始めた。妻と娘がぎょっとしたように彼に目を向ける。
 気でも狂ったか、と危ぶむように見ていた一同の前で、笑いが止まらないと言うように、彼はしばらく哄笑し続けていたが、ようやく苦しそうに腹をさすって笑いやめた。痛烈に愉快そうに義兄を眺める。
「文字通り天罰てきめんだな。神は全てをご存知で御業をなしたもう。もちろんこういう事態も十分あり得るだろうさ。この世には確実なことなどないのだよ。予測できなかったのは君の落ち度以外何物でもない」
「どうしたら半年前に今日の事態を予測できたというんだ!? 完全に不可能だった!!」
 髪をかきむしらんばかりに脂肪のついた顔を紅潮させて、ホイットリーががなりたてる。
「まぁ落ち着くんだ、トーマス。ここで争ってなんの益になる?」
 なおも愉快そうに笑うニコルズに掴みかからんばかりのホイットリーを押し留めたのは、いつも不可解な冷静さを漂わせる館の主、チャンドラーだった。息を呑んで見ていた女達がほっと胸を撫で下ろす。
「君は鉄道事業に過度に傾注しすぎたのだよ。危険は絶えず分散すべきというのがわたしの持論でね。まぁまぁ、それでもまだ君達には例の油田がある。もしかすると、この戦争が思いのほか石油の需要を世界的に早めてくれるかもしれんぞ。採掘技術と一緒にな。なにしろドイツの最新砲弾の威力たるや、過去に例を見ないほどすさまじいそうだ」


 油田と聞いて、それまで壁の花のようにじっと隅の椅子に座っていたパトリシアがびくりと青い顔を上げた。
 思わしげに娘を見た父、ニコルズの視線を避けるように、彼女は黙って立ち上がり部屋から出て行こうとした。
 そのときノックがあり、お茶のワゴンとともに新たな新聞の号外を手に入ってくるメイドに、危うくぶつかりそうになる。
 号外にはいつも新聞社が入手したばかりの緊急外電文が、大見出しでのせられている。内容に目を通すや、言い争っていた男達もそれぞれ目を閉じて頭を振った。
「ひどく……悪い知らせですの?」
 ニコルズ夫人がこわごわ話しかける。いや、と夫は淡々と答えた。
「トルコが同盟軍について参戦したらしい。これでますます長びくだろうな」

 扉のところに立ったまま会話を聞きながら、パトリシアの目の前にいつかロイの腕の中で見た夢が、まざまざと蘇ってきた。
 地平を埋め尽くさんばかりに、嵐に向かって足を引きずるように歩いていた疲れ切った男達……。
 ああ、あの夢はこういう意味だったの? それとも悪夢の行軍はまだまだ果てしなく続くのだろうか。

「来年の春までは確実に続くでしょうよ! それがどうしたと言うのです?」
 どうでもいい、と言わんばかりに声を上げたのはチャンドラー伯母だった。伯父も口髭をひねりながら頷く。
「戦線はすでに完全に膠着状態だ。ともかく、これでカナダからもさらに大勢が大陸に行くだろう。とてもじゃないが早期決着は望めそうにないね。最初の予測などまったく当てにならないものだ」
「もうやめてくれ、そんな話ばかり聞きたくもない」
 ホイットリーが不機嫌に言い、手を振ってやめろというジェスチャーをして見せたので、一同は黙ってお茶を飲み始めた。

 今なら誰も自分に注意を払っていない。これ幸いとパトリシアはそっと部屋を出た。
 先ほどの鉄道債の話題から、彼女の心は熱湯の沸いた大鍋のように煮えくり返っていた。これ以上あそこにいたらヒステリックに叫んで、地団太踏み出すかもしれない……。

 馬鹿みたい!!
 そんな泡沫のようなつまらないことに巻きこんだ挙句、あの人の弁護士としての輝かしい将来を台無しにしただなんて……。

 思うだに、言いようのない憤りと悔しさがこみ上げてくる。
 しかも。あれから三か月経った今、伯父も彼女の父親さえ、そんな古いことは記憶にも留めていないようだった。それがなおのこと腹立たしい。

 ロイが去っていった日、自分の中で何かが死んでしまったようだった。
 もはや何事にも敏感に反応できなくなっている。前にも増して空虚な日々が義務的かつ無感動に過ぎていくばかりだ。束の間でも、愛する男性とともに過ごしたかけがえのない数日の後では、チャンドラー邸の美しい家具調度品を備えた居室さえ、囚人をつなぐ牢獄に等しかった。心にぽっかり明いた空洞を埋められるものは何もなく、耐え難いほど虚しい日々が意味もなく過ぎていく。
 この三か月、彼を追いかけてプリンスエドワード島に行きたい、と、それだけを何度願ったか知れなかった。
 だが、自分には自由になるお金もない。おまけに、待てど暮らせど当のロイからは手紙一通来なかった。毎日それだけを切望し、郵便馬車が来る時間になると酷くそわそわして、メイドに自分宛の手紙がないかと聞いては裏切られる。
 それがひと月も続くと、次第にある疑惑が頭をもたげてきた。もしかすると彼は、もう自分などとは関わりたくないのかもしれない……。
 あんな目に遭わされたのだ。自分達を恨んでいたって少しもおかしくない。確かに通い合ったはずの愛ですら、とうに冷めてしまっていても不思議ではないのだ。

 そう思うと、意識が遠のくような気がした。こちらから手紙を書く勇気も到底出せなかった……。

 今、かろうじて立っていられるのは、トロント赤十字婦人会の仕事があるからだ。
 開戦以来、赤十字社を通しての戦争への貢献は、全世界的に多忙を極めていた。カナダでも、中流から上流婦人達の間に広がり、心ある婦人達が中心になって従軍看護婦の手配や支援、戦地で日ごとに必要とされるおびたたしい量の包帯、シーツ、清潔な衣服の替えや薬を調達し援助するべく精一杯尽力している。
 その手伝いが今の彼女の大きな拠り所だった。自分が必要とされ、できることがあるのは嬉しいことだ。会合のある日は必ず出かけ、他の婦人達と一緒に、たとえ包帯を果てしなく長々と巻き取る作業でも、シーツのふちかがりといった地味な作業でも嫌がらずに手伝った。

 そして帰りがけには、ウェスコット弁護士事務所に必ず顔を出してみる。弁護士の戦争前も今も変わらぬゆったりした口調を聞くだけで安心できた。彼にロイからの消息が入っていないかと尋ねる瞬間が唯一の希望だった。だが、希望はいつも虚しく裏切られる。
 それでもロイに会いたいという思いは募る一方だった……。


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17/07/29
サイド・パトリシアです。
どうも、彼女から動かないと話が進まないみたいですねぇ…。