Chapter 14

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 ぼんやりする頭をふって、パトリシアは紺色の詰め襟の簡素な衣服に着替えると、準備しておいたバッグを取り上げた。だが、部屋を出た途端聞きたくもない声が聞こえ、はっとする。
 あまりにも腹を立てていたせいで、視界まで曇っていたようだ。ドアの少し先にアーノルドが待ち構えていることに気が付かなかった。無視しようとしたが、目の前に立ちふさがられて、やむなく立ち止まる。

 年上のこの従兄は、最近少しパトリシアの機嫌をとるような素振りを見せていた。

「どこへ行くつもりだい?」
「通してちょうだい、アーノルド。出かけたいの」
「だから、どこへ?」
「赤十字の支部よ。お針の会があるの」
 視線を交わすのも厭わしいとばかりに、パトリシアは目を逸らしたまま最低限だけ答えた。その態度にむっとしたように彼はぐっとパトリシアの腕を掴むと、無理やり振り向かせる。
「それは熱心なことだ。だが君の心にかかるのは戦争かな? それともあいつのこと? あいつはまだ例の島にいるんだろう? 大口叩いた割に意気地なしだな」
 無表情だったパトリシアの目にさっと強い怒りが走った。昂然と目の前の従兄を見据え、言い返す。
「よくもそんなこと言えるわね。あなたこそどうなのよ……、志願兵の条件にある【18歳以上の健康な男】の一人として、志願して戦地に行くべきだなんて、かけらも思っていないんでしょう!」
「そんなこと答えるまでもないだろう? 何が嬉しくて他国のためにわざわざこの快適な暮らしを捨てて、日々塹壕の中で泥まみれになって過ごさないといけないんだい? 絶対御免こうむるね、そんな役柄は貧乏人どもに任せておけばいいのさ。しかし君も……」
 つと手を伸ばし彼女の顎を持ち上げたアーノルドの顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「婚約者に向かって、戦地に行けなどとよくも言えるね。そろそろわきまえて欲しいな」
 かけられた手をぴしゃりと退け、パトリシアはそのまま行き過ぎようとした。だが、彼はしつこく食い下がってくる。
「あなたにそんなことを言われる筋合いは全くないと思うけど。通して。会合は三時からなの」
「ふふん、本当かい? またあの弁護士の爺さんのところじゃないのか?」
 びくりと身じろいだ彼女をいたぶるように、アーノルドの顔に嫌な笑みが浮かんだ。
「君が赤十字の会合と称して出て行く先が必ずしもそうでないことぐらい、とうに知り及んでいるんだよ。叔父さんにはまだ黙っておいてやるからありがたく思うんだね。もっとも君の態度次第だ。それにしても、あんな爺さんのところにしげく足を運んで一体何をしてるんだい? もうあいつはとうの昔にいないのにさ」
「……誰がそうさせたの?」
 パトリシアの喉からたまりきれず低い声が漏れた。燃えるような黒い目に、さしものアーノルドも気おされたように後ずさる。こほん、と咳払いしてなだめるように猫なで声になった。
「まぁ……今日のところはいいだろう。僕が車で送ってやるよ。だが忘れちゃ困るね。この戦争でごたついているが、僕らは結婚するんだ。近い将来、アーノルド・ホイットリー夫人になると意識して行動してもらわないと困るんだ」
「ご心配なく! あなたと結婚するつもりなんか、これっぽっちもありません! 何度言えばわかるの? わたしはロイと婚約しているんです! その手を離して、汚らわしい!」
「人が下手に出ていれば……、いいかげんにしないと!」
「どうするの? またわたしを殴るの? 本当にご立派な紳士ですこと。大嫌いよ、あなたなんか」

 パトリシアが憎しみを込めて放った言葉に、アーノルドも我慢の限界に達したようだった。汚い物を振り払うようにさっと手を離すと、苦々しげな唸り声とともに足音高く立ち去っていく。

 もはや出かける気力を失い、彼女は自室に引き返すとそのままべッドに突っ伏してしまった。
 窓の外を一陣の風が音を立てて吹きぬけて行く。それはまるでこの時代を嘆いているように聞こえた。


*** ***


「こんにちは、ウェスコット先生。その後、お変わりありませんか」

 視界を遮るように大きく新聞を広げて読みふけっていたウェスコット弁護士は、突然頭上から降ってきたパトリシアの声に驚き、慌てて新聞ごと手を下ろした。
 もう夕刻になっていた。アシスタントのマーシー・トレントンも帰ったばかりだ。
「おお、ミス・ニコルズ、約一週間ぶりかな。おとといからあなたにお会いしたいと思っていたところだった。実はロイドの奴が、ようやく手紙を寄越しましてな」
「ほ、本当ですか!?」
 見る見るうちに大きな黒い瞳に涙を浮かべた彼女に、弁護士は目を細めると、深い深いため息をついた。
 パトリシアの強い期待のこもった眼差しから目を逸らすように、机の引き出しを開き手紙を取り出す。

「いや……あまりよい便りではなくてな。ロイドの奴め、正式にこの事務所を辞めると、辞表を送って寄越したのですよ」


*** ***


 十月、ベルギーのアントワープが陥落し、戦場は同国内のイーブルに移った。
 イギリス軍は最新式の装備を構えたドイツ軍相手に、懸命に対抗し続けていた。
 日々届く外電文に誰もが興奮と不安の狭間を往き来し、戦地の兵士達から便りが届き始める頃には、サマセット村の話題はもはや戦争一色になっていた。
 男も女もヨーロッパの詳細な地図や新聞記事を睨んでは、軍事用語を使って戦略的会話をかわしている。


 そんな激動の国際情勢とは無縁に見える、よく晴れた秋の日の午後……。
 紅葉の葉陰が揺れる森近くにあるクライン家に、一人の老紳士が訪ねてきた。最近白いペンキですっかり塗り直された二階建ての木造家屋を眺め「ほう」と大きく頷く。息子が帰ってからこの家の暮らしがよくなった、との噂どおり、以前とは見違えるほどきれいになっていた。
 村の世話役、ハリス長老の急な訪問で母親に呼ばれ畑から戻ったロイは、清潔な厚手のコットンシャツに着替えると、馴染みの教会長老と向き合った。この村では、堅苦しい挨拶の常套句など何も要らない。

「学校で? 村の子供達を教える……? 僕がですか?」
 思ってもみなかった誘いに驚きを隠しきれない表情で繰り返すロイに、ハリス長老がさらに勢い込んで身を乗り出した。
「そうとも! もちろんだ。君ほど高い教育を受けた逸材が、この僻地に……いや失礼、何も僻地が悪いとは言わんがね……、ただ引っ込んでいるだけでは実に惜しい。これは長老会でも一致している意見でな、ロイド。何しろ今のご時世だ。若い男達が次々に戦場へ行ってしまう。実はフォートランド街道沿いの学校教師が一週間前に志願してな。引き留めることもできなかったのだが、それで空席ができてしまったんだ。女性ならもちろん何人もいるが、やはり君がいるなら、君に頼みたいと言うことになってな。どうかね? 引き受けて貰えんかな?」
 前かがみになって両手を握り合わせたまま、ロイはしばらく考え込むように沈黙していた。長老が答えを促すように咳払いすると、ようやく姿勢を正して相手を見た。
「お申し出はありがたいと思いますし、とても残念ですが……、その仕事はお引き受けできそうにありません。どうか他の人を探してください」
「……と言うと? どういうことかね? 君もやはり……」
 全部は言わせず、ロイは淡々とその言葉を引き取った。
「そうです。近いうちに、僕も志願するつもりです」


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17/08/01