Chapter 15
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「……トロントですわ。今日の午後、シャーロットタウンに着いたばかりです。この村に少し用があって……。それより、さっきのお話のことを教えてください……。確か『クライン』と聞こえて……」
「ああ、なんだね!」
もう一人の婦人が、彼女を安心させるように朗らかに頷きかけた。
「ロイド・クラインとデイジー・ミラーのことを知りたいのかい? お嬢さん、お知り合いなの? あの二人なら、最近しょっちゅう一緒にいるのを見かけますよ。なんでももうじき結婚するって噂だから、おめでたいことさね。あれあれ、あんた、気分でも悪いの? 真っ青だよ。宿はどこに?」
「い、いえ、大丈夫ですわ……。ありがとう……ございます」
「ちょっと、あんた! どこへお行きだい? そっちへ行くと森の方に出ちまうよ」
追いかけてくる親切な婦人達の声に返事をする余裕さえ、とうになくなっていた。
黙って頭を振ると、パトリシアはよろめくようにロイの家がある方角へと足を踏み出した。
あの人の家に行こう。とにかく彼に会わなければ!
そんなこと……、あるはずがないもの !!
*** ***
「小母様、お加減がいいなら、少し召し上がれるかしら。今持ってくるわ」
その日もデイジーはクライン家の厨房に上がりこんでいた。臥せったまま、日毎やつれていくような気がするクライン夫人に心配そうな目を向け、作ってきたココットとスープを運ぶ。
ロイはデイジーを自宅の前で下ろすと、そのまま荷馬車で配達に行ってしまった。
ストーブにかかる黒い鉄製の鍋には、オートミールの粥が煮えていた。水を足して味見しながら、思わずくすっと笑ってしまう。あのロイが鍋にかがみこんで木のさじで鍋を掻き回している姿を想像すると楽しくなる。
持って来たエプロンをつけ、かいがいしくお茶のテーブルを整えていると、玄関にノックがあった。
「ロイ、もう帰ったの? 思ったより早かったわね。ちょうどお茶の支度ができたところよ」
そのまま出て行ってドアを勢いよく開く。
ばさっと何かがポーチに落ちる音がした。
デイジーの目の前に、どこから来たのかといぶかるほど洒落た帽子と旅行用ドレス姿の若い女が、驚愕したように黒い目を見開いて立っていた。
パトリシアは、今自分が目にしている光景が信じられなかった。
ここは本当にロイの家だろうか? 知らないうちによそに引っ越したのかもしれない。
あるいは、間違えて他の家に来てしまったのだろうか。そんな可能性に咄嗟にすがりつく。
尋ねる声が震えた。
「あの……、こちら、ミセス・クラインとロイのお宅では……?」
だが、微かな希望もたちまちついえ去った。
「ええ、確かにその二人の家ですよ。でも、ロイは今仕事に出てますわ。もう少ししたら戻ると思いますけど。あなた、この辺りの方じゃないですね? あの人に何か御用かしら?」
金髪娘の目が挑戦的にきらめいたような気がした。パトリシアは更に顔から血の気が引いていくのを感じながら、何とか声を絞り出した。
「ト、トロントの……ウェスコット法律事務所から参りましたの……。ロイに……先生からの伝言が……」
「あらまぁ、そうだったの! それは失礼しましたわ。遠いところをわざわざご苦労様です。さあ、どうぞお入りになって。さっき言ったとおり、ロイはまだ帰りませんが、たった今午後のお茶の支度が整ったところなんですよ」
『法律事務所』と言うなり娘の態度は一変した。パトリシアをニコニコと愛想良く迎え入れると、炉に火が起こされた居間に案内していく。
夢中で歩いてきたときは気付かなかったが、確かに身体がかなり冷えてきていた。見覚えのある古いテーブルには、実に家庭的なお茶の準備が整っていた。
まるで勝手知ったる我が家のごとく、炉にかかった鍋を覗き込んでかき回し、部屋を動き回ってお茶を入れていくその姿を眺めるうちに、パトリシアは先ほどの二人の婦人の言葉を絶望的に了解していった。
そしてロイがこの数か月の間、どうして自分に手紙を一度もくれなかったのか、その理由もはっきりと……。
心の中で何かが粉々に砕け散る音が聞こえた。もう二度と元の自分には戻れそうにないほど大切なものが、たった今失われてしまった。感覚全てが麻痺し、凍りついたように涙すら出ない。
次第に、どうして自分がここに座っているのか、その理由すらわからなくなってくる。出されたお茶に手もつけず、しばらくじっと押し黙っていたが、とうとう静かに立ち上がった。
「それじゃ、そろそろお暇しますわ……。今からシャーロットタウン行きの馬車はあるかしら?」
「定期便はないけれど、馬車なら……頼めば出してくれるかも知れないわ。でも、まだロイが帰って来ていないのに……どうしましょう! 偉い先生から何かお言伝があるとおっしゃったでしょう?」
「あなたから、ロイに伝えてくださればいいわ。これが先生のお手紙です」
封のされた手紙をテーブルに置くと、パトリシアはここに来て初めて、真正面から相手を見つめた。歳は少し上かもしれない。自分にはない豊かな金髪と青い目をした、しっかりと生活力のありそうな女性だ。
そう……、ロイはわたしでなく、この人を選んだのね。確かに、わたしよりずっと家のきりもりが上手だわ。
パトリシアは小さくため息をついた。なぜか気持が妙に落ち着いてくる。
「どうかあなたから、彼に伝えてください。ウェスコット先生はいつでも彼が帰ってくるのを待っているし、連絡を待っているから、と……。そして、くれぐれも命を縮める様な無茶なことはしないように、と」
「わかったわ。後は、そのお手紙に書いてあるのね」
「ロイ、いえ、ミスター・クラインは、お元気でしょうか?」
「え、ええ、もちろん……」
「少しミセス・クラインにお会いできるかしら?」
「そうね……、聞いてくるわ」
何故か、慌てたようにばたばたと娘が出て行った後、束の間一人になったパトリシアは懐かしいその家の居間を改めて見回した。
そして白壁の釘に無造作に引っ掛けられた、洗いざらしの男物のシャツに気が付く。
そっと近寄り手にとって見た。これはロイのシャツだ……。
ごわごわした布地に顔を埋め、かすかに残る男らしい彼の匂いを精一杯吸い込んだ。
ああ、懐かしいロイ。
ロイ、ロイ……。酷いわ! わたしはこれからどうやって生きていけばいいの?
涙が溢れてきて、シャツにしみができていく。そのとき軽い足音がしたので、急いで戻して振り向いた。
「どうぞ、こちらよ」
少し怪訝な表情で案内する彼女の後ろから、パトリシアは2階の小部屋に入っていった。
こじんまりしたロイの母親の寝室は、最後に彼女がこの部屋に入った5年前の12月とほとんど変わらないようだった。だが、歳月だけは確実に過ぎている。すっかり老け込んで生気を失くしたクライン夫人を見て、また涙が出そうになった。
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17/08/12
今の韓国雑感などを、ダイアリーにて。