Chapter 15

page 3


 ベッドに横たわっていたクライン夫人は、飾り帽子の下から黒い瞳に涙を浮かべて微笑みかけるパトリシアを、しばらくいぶかしそうに見上げていた。やがて思い出した、と言うように驚きを浮かべ身体を起こそうとするのを手で押しとどめる。
 見舞いにと持ってきた暖かい高級ウールのショールを鞄から取り出し、弱々しい肩をそっとくるんでやった。
「あんたは……、森屋敷の……」
「はい小母様。森屋敷のパトリシアです。覚えていて下さって嬉しいですわ。本当にお久し振りです。お体が悪いと聞いてとても心配していました。どうぞ早く元の通りお元気になってくださいね」
 そっと、しわの刻まれた頬に心を込めてキスを置き、あの夜と同じく力づけるように手をにぎりしめてから離した。無情なまでの寂しさが胸を吹き抜けていったが、次の瞬間、未練を断ち切るように言った。
「それでは、そろそろ時間ですので、わたしはこれで……」
 森屋敷と言われ、やっと誰だかわかったようにまじまじと自分を見ているデイジーにはもう目もくれず、パトリシアは鞄を取り上げると、静かにロイの家を出ていった。
 優雅に毅然と、そして顔をまっすぐに上げて。

 ロイが今ここに帰ってきて、自分を見たらどんな顔をするだろう、とちらりと思った。見てみたいような気もした。だがこうなった以上、会わなくてよかったのだと自分に言い聞かせる。

 しばらく小道をひたすら歩いて行った。街道まで来て、ロイの家からかなり離れたと気付くや、足から自然に力が抜けてきた。道まで伸びていた木の根っこにつまづいた拍子に、鞄ごとその場にヘたりこむように膝をついてしまった。
 もはや限界はとうに超えていた。ここなら誰もいない。そう思った途端、涙が滝のように溢れ出し、顔をたちまちぐしゃぐしゃに濡らし始める。
 パトリシアはその場にうずくまると、声をあげて泣きじゃくった……。


*** ***


「お嬢さん、あんた、どうしなさった?」
 どれほど泣いていたのかわからなかった。泣き疲れ、涙もとうとう枯れ果てて、ぼんやりしたまま座り込んでいると、一台の荷馬車が通りかかった。
 乗っているのは初老の男で、彼女を上から下までまじまじと見てから、驚いたように声をかけてきた。
「あんたもしや……、パトリシアお嬢さんですかな、森屋敷の?」
 その言葉に思わず反応した。わたしを知っているなんて……。顔を上げ、どう見ても見覚えのない相手に、泣き過ぎてかすれてしまった声でようやく答える。
「……はい、そう……ですわ。あなたは……?」
「サマセット村の者ですが。おお、やっぱりそうでしたか。ここで見つかってよかった、よかった。さぁ、お乗んなさい。村の広場まで送って行ってあげるから」
 パトリシアはポニーが引いた男の荷馬車を見た。わらが敷かれ、すきやクワなど農耕具が積まれているが、座れる場所はたしかに空いている。今は一歩も歩けそうになかったから、村の商店街まで乗せてもらうことにした。
 頭がぼんやりしていたせいで、どうして相手がすぐに自分を見分けたのか、疑問すら抱かなかった。とにかくこれでシャーロットタウンまで帰れるだろう。なんとか州都に帰り着ければ父の家があるし、トロントに連絡もできる。ロイの家から目と鼻の先にある森屋敷で今夜を過ごすつもりは毛頭なかった。今は一刻も早くこの村を離れたい。それだけだった。

 夕暮れの風は冴え冴えとして、さっきより一層冷たくなっていた。足早に暮れていく空と辺り一面に広がる農耕地の中を、縦に走る一本きりの赤土の道。学校帰りに、ロイと走った子供時代から少しも変わらない風景だった。
 その同じ道を荷馬車に揺られてぼんやり眺めていると、思い出がさらに心の痛みを増し加える。
 こんな所まで、わたしは何をしに来たのかしら? 本当に馬鹿みたい……。

 村の商店街まで来ると、さっき立ち話を聞いた小さな広場に戻ったところで止まった。丁寧に礼を言って荷馬車から下りると、その男は向こうを指差して朗らかに言った。
「ほら、あちらであんたのお連れさんがお待ちですよ」
 さらに声を大きくして、「確かにお連れしましたぞ」と叫んでいる。

 何のことだろうと言われた先に目を向けると、ちらちらこちらを見ながら行き過ぎる村人達の向こうに、一台の箱馬車が止まっているのが見えた。
 すぐに馬車の扉が開き、中から見慣れたアーノルドが姿を現したときには、驚きのあまり声も出なかった。

「やあ、パティ。やっぱりここだったね」
 アーノルドは皮肉な笑みを浮かべながら気取った礼をすると、もったいぶった足どりで近付いてきた。
「どうして……、わかったの?」
「君の家出先なんて他に考えられるかい? ここに迎えに来ればいいに決まってるだろう?」
 やれやれ、仕方ないな、と呟く声が聞こえ、パトリシアは思わず一歩後ずさった。
「そんな……。あなたがわざわざ来るなんて、考えもしなかったわ……」
「そうかな? だが、あの迎えのお陰で、君も助かったんじゃないかな? まったくなんて不便で辺鄙な島なんだ。まる二日もかけてやっと追いついて見れば、ここは未だ前世紀のままじゃないか。この連中、車なんて見たこともないんじゃないか? 暮らしてる奴の気が知れないよ。こんな田舎まではるばる来てやったんだ。礼の一つも欲しいものだね」
「……さっきの人、もしかして……迎えに……来させたのね?」

 相変わらずの尊大さだが、嫌な気持はしなかった。ようやく解けた疑問の答えを呟くと、従兄はさも当然、とばかりに頷いた。今は、この昔からの婚約者から逃げたいとは思わなかった。それどころか、見知らぬ異郷で旧知の相手に出会ったような安堵感さえ覚えている。

 反論する気力すら使い果たしたように黙りこくって、ぼんやり焦点の合わない目をしているパトリシアに、アーノルドも何か異常を感じたらしい。
 目を細めてしばらく黙っていたが、やがてエスコートするように彼女に片腕を差し出した。
「それじゃ、素直にトロントに帰るつもりだったんだね? 君に言いたいことは山ほどあるが、こうして無事に会えたんだ。今回の無茶は不問にしてやってもいいと思ってる。ありがたく思ってもらいたいね」
 珍しく従順に、パトリシアが差し出された腕に手を預けたからか、従兄も全てを打ち消すように、意外な誘いをかけてきた。
「腹が空いてるんじゃないか? こんなド田舎じゃ大した料理は期待できないが、シャーロットタウンのキングストリートで、白ワインとロブスターのディナーでもどうだい?」

 いつものアーノルドからは考えられないほど優しい言葉だった。そういえば昨日からろくに食事もしていないと気付いた途端、パトリシアも少し空腹を覚えた。
 腰に我が物顔にアーノルドの手がかかったが、振り払いはしなかった。とにかく支えてくれる手が必要だった。今だけは……。
 二人が寄り添うように、揃って待っていた箱馬車に乗りこもうと進み出たその刹那……。

 さっき来た道、はるか後方から、声の限りに自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
 はっとして振り向いたパトリシアの目に、馬に乗った男が街道を疾走してくるのが見えた。途端に凍りついたように身体が動かなくなる。

 あれは……。間違いない。ロイだ!


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/08/17
帰省の準備や所用のため、更新が遅くなってすみません。
次は、第二部最終章(全3話)へと進みますが、ちょっと時間を巻き戻しまして、サイド・ロイから入ります。
帰るまでに、あと一回は更新できるかと思います。第二部山場なのに申し訳ないです…。