Chapter 19

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 夕日が沈んだ後、森の上空には冴え冴えとした月がかかっていた。陰影を帯びた黄昏の空を、風がゆるやかに吹き抜けていく。

 足元で吼えている子犬の声すらどこか遠くから聞こえてくるようだった。周囲の全てが急速に薄らぎ、見えているのはただ彼女の姿だけになる。気が付くと、かすれた声で支離滅裂に問いかけていた。

「パトリシア……? どうして君が……ここで何を……、いったい?」

 これは夢か幻に違いない。こんなことは絶対にありえない。自分はいつの間にか眠ってしまったのだろうか? さもなくば本当に頭がどうかしてしまったのか?
 ロイの脳裏にそんな自問が意味なくせめぎ合った。そうしながらも、彼の青い瞳は彼女の全てを飢えたように求め続けていた。これもまた束の間で消え失せる残酷な幻の一つなら、せめて今、彼女の全てを網膜に焼き付けておきたい……。

 だがその姿は、ゆらいで消えたりはしなかった。

 不安そうに戸口に出てきた次の瞬間、パトリシアの顔は、雲間から陽が差し込んだようにさっと輝き、強い安堵の色が浮かんだ。
 ほとんど同時に細い身体が震え始め、大きな瞳にたちまち涙が膨らんで、ぼろぼろと頬にこぼれ始める。
 そんな一挙一動を、ロイはまだ夢見るように眺めていたが、もう一度「ロイ!」と呼びかけられ、はっとして彼女の方に一歩足を踏み出した。

「ロイ……、帰ってきたのね! ああ、神様、ありがとうございます! わたしは間に合いました!」

 次の瞬間、パトリシアはそれ以上言葉にならない、とばかりにまっすぐこちらに駆け寄ってきた。


 ロイも同じだった。祈りの言葉、感謝の言葉、彼自身よくわからない呻き声を上げて、まっすぐ腕に飛び込んできたパトリシアをしっかりと抱き留めた。
 彼女を捕らえた衝撃に身体が揺れ、夢心地から現実へと一挙に引き戻される。

「パット……。本当に? 本当に君なのか? 顔をよく見せてくれ」
 信じられない思いで呟きながら、胸にすがりつく彼女に夢中で手をかけ、あごを持ち上げた。
 弾薬で荒れた手が、震えながらその顔を辿っていく。ひっきりなしに頬を伝っている涙をぬぐってやると、濡れた黒い瞳が食い入るように見上げてきた。見下ろす彼の視界が急にぼやける。彼女の右手がつと伸びて、繊細な指先が優しく目じりを辿っていった。

 その時初めて、自分の目からも涙が零れていることに気付いた。少し照れながら微笑み返す。吐息混じりにパトリシアが囁いた。
「少し……痩せたのね……。キャンプでの生活は大変だったでしょう? 食事はきちんと取っていたの?」
「ああ、一応は。あまり食欲の出る代物でもなかったけどね」
 泣きながら、ふふっと彼女も笑った。やっと、互いに少し落ち着いてきたようだ。さっきの勢いで解けた巻き毛が彼の手に落ちかかっている。それをひと房持ち上げて、甘い彼女の香りを吸い込んだ。

 パトリシアが目を閉じ、唇を差し出すように少し上を向いた。その仕草にこもった無言の誘いに即座に応じ、ロイが彼女を優しく覆う。
 二人の唇が触れ合った瞬間、抱き合う腕に強い力がこもった。再会を懐かしむ甘やかなキスは、たちまち激しい熱を帯びた男と女の口付けへと変わっていった。
 どちらからともなく身体を一層ぴったりと寄せ合い、夢中で抱き締めながら、しばし貪欲なキスに存分に身を任せる。
 あれほど恋焦がれ待ち望んだ相手が、今確かにこの腕の中にいる。それを何度も確かめるように、二人は互いに夢中になって手のひらで輪郭を辿りあった。


*** ***


 どれくらいそうしていたかわからなかった。
 ようやくそっと体を離したロイは、我が物顔で家に戻っていく白い子犬を見やった。まだ泣いている彼女を引き寄せ、続いて我が家に入っていった。中は自分が去ったときと同じく、清潔に片付いているが、少し模様替えされていた。

 だが、そんな話はあとでいい。背負っていた荷物を床に降ろすや、パトリシアの肩をそっと押さえ、彼はもう一度彼女の顔を覗き込んだ。
 ランプの灯りの下で、目を細めてつくづくと愛しい恋人の顔に見入った。いくら見ても飽き足りない。パトリシアもまた、濡れた黒いまつげを感極まったように震わせて自分を見上げている。
 黙って見つめ合う内、ふいに押し寄せてきた激情に圧倒されそうになって、ロイは慌てて視線をそらし、それを抑え込んだ。

「パット……パット! まだ信じられないんだ……。君が本当にここにいるなんて!」
「もちろん本当だわ。ずっとあなたに会いたくてたまらなかったんですもの。でも、あなたったら、手紙もくれないし、もしかして怒っているかもしれないと思ったら、なかなか勇気が出せなかったの……。やっとウェスコット先生のおかげでこの村に来てみれば、あなたは結婚するって言うし! あの時は、本当に死にそうな気分だったわよ!」
「ちょ……ちょっと待てよ。その話を持ち出すなら……、先に結婚するって言ったのは君だぜ? あの後、僕がどんなに……」
「あら! 真に受けないでちょうだい。そんなの、あなたが結婚するって聞いたからに決まってるじゃないの!」

 彼女の口から、これまで聞いたこともないほど激しい勢いで、次々に彼への糾弾の文句がほとばしった。
 返す言葉もなく目を見張っているロイに、ひとさし指を一本つきつけるようにして、なおも夢中で喋り続ける。

「あなたがやっとくれたあの手紙を、わたしがどんなに待っていたか、あなたには絶対にわからないわ! あれを見て、すぐにここに来ようと思ったのよ」
「……僕は、別にそんなつもりで書いたわけじゃ……」
「ええ、あなたの『つもり』は、手紙を読んでよくわかったわ!」
 彼女の勢いにさらにたじろいだ彼に、声がもう一オクターブ高まった。思わず足で床板を踏み鳴らす。
「あなたはいつだってそう! でも! わたしの気持はどうなるの? あなたが戦争に行ってしまうのを知りながら、黙って見ているなんて絶対できない相談よ。だから両親を一生懸命説得してここに来たの。それが四日前……。なのに、誰に聞いてもあなたの連絡先はわからないと言うし、あなたがもう村に戻らず、直接ヨーロッパに行ってしまったらどうしようと、心配で居ても立ってもいられなかったわ。笑い事じゃないのよ! 本当に恐ろしかったんだから!」

 感情を爆発させたパトリシアに、ロイは度肝を抜かれていたが、次第に胸の底からさらに深い喜びがこみ上げてきた。
 突然声をたてて笑い出した彼を見て、何がおかしいの、と睨みつける。ロイは頭を振ってどうにか笑いを噛み殺すと、彼女を力いっぱい抱き締めた。

「ありがとう……。嬉しいよ。ああ、パット、愛してる。そんな君だからこそ愛したんだ。ずっと君だけを思ってきて本当によかった。他に言うべき言葉が見つからないくらいだ」

 もう一度キスしようと顔を寄せ、ふと自分の汚れに気付く。
 ためらっている彼を見て、今度は彼女が笑い声を上げる番だった。

「食事の支度をしておくわ。バスを使ってらっしゃい」
「『食事の支度』って、君が作るのかい……? へぇ、それは楽しみだな」
 ロイがにやりとして二階に姿を消した。なんだかもう奥さんになった気分で、うきうきしながら、パトリシアはキッチンに立つと夕食の準備にとりかかった。
 今こそ、二週間の特訓の成果を見せるときだ。


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17/10/18