Chapter 19

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 ロイはまだ夢心地だった。いったいトロントで何が起きたのかと、先程の彼女の言葉を反芻してみる。
 あの父親と伯父達をどうやって説得して来たと言うのだろう? それに、結婚すると言っていたアーノルド・ホイットリーとは、その後どうなったんだ?

 構うものか。どんな奇跡が起きたか知らないが、とにかく今、パトリシアはここにいるのだ。気まぐれな運命の女神が、最後の最後に微笑みかけてくれたのかもしれない。


 久し振りに石鹸を思い切り使い、兵営での汗と汚れをきれいさっぱり洗い流すうち、ふいにマジソン氏の言葉を思い出した。
 胸がどくんと大きく波打つ。同時にさっき抱き締めたときの彼女の感触が甦り、激しく悪態をついた。冷水を何杯かぶっても、猛り立つ肉体を抑えるのは至難の業だ。

 しばらく自分と格闘し、頭も身体も相当冷え切った頃、彼はようやく夕食用のまともな衣服を探して自室のチェストをかき回していた。
 とにかく今夜だけは、何とか紳士的に乗り切らなければならない。たとえベッドが拷問台に等しくても。
 そして明日になったら、彼女をトロントまで送っていこう。
 パトリシアがはるばるここまで来てくれた。こうして、俺の帰りをこの家で待っていてくれた!
 それだけで、もう十分過ぎるほどだから……。


*** ***


 久し振りに、カラーのついた濃いストライプのグレー・スーツを着込みタイを締めると、ロイは鏡に映った自分をためつすがめつ点検した。
 この一年近く農作業ばかりしていたせいか、トロントにいた頃より野暮ったい雰囲気になっているような気がする。何より入隊時に短く切ってしまった髪のせいで、スーツが似合わなくなったのは間違いない。
 そんなことを考えている自分に気付き苦笑する。一体俺は何を考えて……。

 ようやく階下に降りていくと、キッチンとダイニングを楽しそうに動き回ってはテーブルを整えているパトリシアの姿が見えた。
 まだ信じられない思いで、しばらくその姿を見守っていたが、ここは自分の家だと思い返し、軽く咳払いして声をかけた。

「その……、そろそろ座ってもかまわないのかな?」
「あら、もちろんだわ。いつ降りてくるのかしら、と思っていたところよ」
 即座に振り返ったパトリシアが、輝くような笑顔で勢いよく近づいてきた。だが、久し振りに身支度を整えた彼の姿に、はっとしたように立ち止まる。
 少し照れたように目の前に立つ男らしい体躯に反応し、脈が急に乱れ始める。目が否応なく精悍な顔に吸い寄せられ、視線が熱く絡まった。

 どうすると考えるより先に、どちらからともなく手が触れ合って、気が付くと互いにきつく抱き合い、再び相手の唇を求めていた。


「……ったく、これじゃいつ夕食にありつけるのか、わからなくなりそうだな」
 しばらくして、自制心を総動員しようやく顔を上げたロイは、こう呟き微笑みかけた。潤んだ瞳をそろそろと開いたパトリシアの紅潮した頬を、指で優しく撫でてやる。
 彼女はほぅと大きく息を付くと、ロイの胸に甘えるように顔を埋めた。彼の心臓が力強く脈打っているのを感じながら、さわやかななつかしい香りを思い切り吸い込む。
「気分的には、ずっとこうしていたいくらいだわ。ああ、ロイ、わたしがどんなにあなたに会いたかったかわかる? あなたの夢を何度見たか……」
「本当かい?」
 半ば強引に顔を上げさせ、今の言葉を確かめるように、もう一度彼が目の奥を覗き込んだ。まっすぐ彼を見上げると、見つめているロイの瞳が濃く陰りを帯びてくる。
 ふいに心がざわめき身体が震え始めた。だがその直後、あわただしく肩を掴まれ、ぐいと押し戻されてしまった。
「そんなことばかり言ってると、今夜は食いっぱぐれてしまうよ。ほら、食事にしよう。実は腹ペコで死にそうなんだ」
 不自然に視線を逸らし、彼はテーブルに歩み寄っていった。
「きれいでしょう? 今朝お庭に初めて咲いていたのよ」
 庭先に咲いていた小さなすずらんで、テーブルを飾ってみてよかった、と心から思った。お陰でまだまだ未熟な料理の見栄えも、少しは引き立って見えるかもしれない。
 ロイが取り替えたばかりの新しいクロスに施した、二人の頭文字刺繍に気付いたようだ。じっと何か考え込んでいる。

「それは……あなたの手紙を見て大至急作ったのよ。本当はもっと早く……、せめて小母様が亡くなる前に連絡をくれればどんなによかったかしれないのに……。いえ、でももういいわ。それより座って……、ロイ? どうかしたの?」
 顔を上げた彼の何とも言えない目付きを見て、思わず声が高くなった。趣味に合わなかったかしら。どうして彼はあんなふうにわたしを見るのだろう?

 だがロイは、何でもない、と首を振ると、紳士らしく彼女の椅子を引いてくれた。
 エプロンをはずして座ると、少しはにかみながら精一杯セッティングしたテーブルを見渡した。彼が料理を見て軽く口笛を吹く。
 どの皿からも、暖かい湯気と食欲をそそる香りが漂っていた。それらを眺めていた彼がふと尋ねた。
「これは何と言う料理なんだい?」
「失礼ね! そりゃ少し見た目がよくないのは認めるけど、味は悪くないのよ。何しろ、うちのコック直伝のレシピなんですもの。その、今日はちょっとオーブンの火加減が……」
「もちろん冗談さ。すごく嬉しいよ。とても口では言えないくらいだ……」
 ロイの表情が和んだ。ほっとして彼女も笑顔になる。
「そう言ってもらえると、頑張ってよかったと思うわ。実はこれを作ったのはまだ三度目なの。だから加減がよくわからなくて……、少し失敗してしまったみたいだわ。ああ、もっと早くからお料理を習っておくべきだったわね。それに、今日あなたが帰ってくるとわかっていたら、もっとしっかり頑張ったのに!」
 悔しそうに唇を噛む彼女の頬に、また優しいキスが下りてきた。ロイの瞳が心なしか潤んでいる。自分も涙ぐみそうになって、慌てて目をしばたかせ、明るく彼を促した。


 どうしてわからないのだろう。彼女が自分のために作ってくれる料理なら、たとえ真っ黒の炭になっていようと、文句一つ言わず食べるのに……。
 パトリシアが無邪気に話す言葉の一言一句が、そして、彼女が自分のためにしてくれた全てのことが、ただ可愛くて愛おしくて、胸に染みわたるようだった。深く感動すると同時に、胸の奥に積もり積もった思いが、津波のように襲いかかってくるのを感じていた。眩暈がするほど強烈な感情に捕らわれ、ふいに黙り込んでしまう。
 だがその一方で、ただ彼女を眺めているだけで、他には何もいらない。そんな思いも同じくらい強く胸を占めていた。不意打ちのように現れた初恋の相手を前にして、すっかりどぎまぎしている少年に戻ってしまったようだった。胸がいっぱいになって、しばらく口もろくに利けずにいたほどだ。

「ロイったら……、さっきからどうしたの? ぼんやりしてないで、もっと食べてちょうだい。それとも口に合わないかしら」
 前の席から身を乗り出すようにして、心配そうに尋ねられたとき、自分がまたぼんやり彼女に見惚れていたことに気付いた。
 咳払いして、いや、なかなかうまいよ、などともごもご呟いて、またナイフとフォークを動かしはじめる。

 パトリシアが、これもかなり頑張ったのよ、でも失敗しちゃったわね、と言いながら切り分け始めたフルーツケーキは、確かに生地が重かったし焦げ目が少し香ばしかったが、そんなことは何の問題もなかった。一口ほおばり、グッド! と親指を突き出してみせる。
 彼女が笑った。その声が耳に懐かしく響き、また目を細める……。


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17/10/21
夢の中に居るような、幸せいっぱいの二人です…。