Chapter 20

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 ようやく村の婦人達から解放されたのは、かなり経ってからだった。五月のさわやかな風を受けながら、赤土の街道を荷馬車がシャーロットタウンへ向かう。手綱を操るロイの隣で、パトリシアが感激したように村を振り返っている。
「皆さん、信じられないくらいご親切ね。トロントでは考えられないことよ。ここでなら、わたし一人でも、何とかやっていけそうだわ……」
 はっとしたように彼女を見たロイが一瞬目を細めた。けれど、口に出してはこう言っただけだった。
「まったく……。素敵におせっかいな連中だろう? まだまだたくさんいるんだ。明日までは覚悟した方がいいだろうな」


 州都に着くなり、二人は真っ先に役場に駆け込んだ。おめでとう、という祝辞とともに、結婚許可証を受け取って、出てきたときにはすっかり解放的な気分になっていた。それから午後の今まで、キングストリートのちょっと豪勢な店でシーフードのランチを取ったり、家具店や雑貨店、食料品店を回って買い物をしている。

「ロイったら、こんなに買っても使い切れないわよ! お金がもったいないわ! もう十分!」
「あと、もう一つだけ、見たいものがあるんだ」
 声を上げて抗議したパトリシアに、これが最後だから……、とロイが肩を抱いて連れて行ったのは、店頭に自転車をたくさん並べた店だった。
「あの家で暮らすつもりなら、君専用の交通手段が必要だろう? 乗れるかい?」
 朗らかに尋ねながら一台の自転車の前にかがみ込んでべダルをいじり始めたロイを見て、彼女は首を激しく横に振った。
「いいえ、こんなのわたしには無理よ、転んであざだらけになってしまうわ!」
 おや、と言うように、ロイが顔を上げる。
「勇敢な君がそんなことを言うのかい? 心配ないさ。少し練習すれば乗れるようになるから。今からちょっと試してご覧。教えてあげるよ」
 店主に、古い自転車を借りてロイに後ろを支えてもらいながら、おそるおそるペダルを踏んでみる。だがたちまち、よろけて足をついてしまった。しばらく頑張ってみたが急には難しそうだ。
 とうとうサドルから降りると、店主とロイの二人に向かって「ごめんなさい」と申し訳なさそうに微笑んだ。
 ロイもあきらめたように笑顔で頷くと、さらに何か言おうとしたパトリシアの肩に腕を回し強引に引き寄せた。そのまま、いかにも新婚です、と言わんばかりに、人目も気にせず薔薇色の唇に口付ける……。

 昨夜、彼女が突然我が家のドアから駆け出してきた時から、ロイはまだ夢を見ているような心地だった。
 今のこれらは全て、人生の最後に見るという、幸福な幻ではないだろうか?
 そんな不安に捉えられるたび、彼女が確かに傍に存在していると確認するように、抱き寄せてしまうのだ。


 よく晴れたさわやかな午後だった。笑顔と軽口を交わしながら、二人は運命からやっともぎ取ったこの素晴らしいひと時を大いに楽しんだ。かなり遅くなってから、ようやく荷馬車に買い込んだ品物を積み上げて家に戻ってみると、注文しておいた寝台が先に届いていた。
「遅いお帰りで。若いもんはお楽しみがたくさんあって結構なことだねぇ」
 パイプをふかしながら、のんびり待っていた男が、いやみっぽく眉を上げたのを無視し、ロイは彼と二人、狭いドアを通すのにかなり苦心しながら、買ったばかりの新しいベッドを二人の寝室に運び込んだ。
 狭い階段を登っていくベッドを見上げ、また頬を染めたパトリシアも、気を取り直したようにエプロンをつけると、かいがいしく食事の支度をはじめた。

 長かった灰色の日々の後で、楽しい一日とは、どうしてこうも早く過ぎ去ってしまうのだろうか……。
 一日の終わりに、ロイは朝の約束どおり、ドレスの包みを抱えた彼女をハリス夫妻の家に送っていった。同じ家に居ては、自制する自信など全くなかったから、ありがたい申し出だと思うことにする。

「明日の十一時。教会で会おう」
 名残惜しそうに別れのキスを交わし、ドアに向かった彼女に、ロイはかすれた声を投げかけた。
 あと一晩の辛抱だ。この夜の向こうには、輝かしい朝が待っている。


*** ***


 その記念すべき朝は、天気も上々だった。窓から五月の太陽が陽気に降り注いでいる。
 がばと跳ね起きた彼は、ベッドサイドの懐中時計を取り上げるなり、激しく毒づいた。式は十一時からの予定だというのに寝坊したのだ。昨夜、ひどく気持が昂ぶってしまい、なかなか寝付かれなかったせいだ。

 ああ、こんな言い訳、まるで、ピクニックを控えた子供じゃないか。

 ぶつぶつ呟きながら、パトリシアが準備しておいてくれた朝食を横目に、コーヒーとパン切れだけ胃袋に押し込むと、猛烈な勢いでひげをそり、シャツを着込み、白いタイを締めた。この村に戻って以来、めったに袖を通すこともなくなった一番いいスーツを久し振りに身につけ、鏡を覗く。
 鏡の隅には、壁に掛かった軍服が映っていた。強いて見ないようにしながら、髪を手で撫で付ける。短く刈ったせいで、スーツ姿の見栄えが数段悪くなったと、顔をしかめてしまう。

 家に一つしかない掛け時計が、もう出なければ間に合わないと告げていた。さて、荷馬車で行くか、馬で走るか。馬の方が早いが、帰りは彼女を連れてくるのだから……。
 いや、と彼は頭を振った。せめて今日くらい、まともな二人乗りの馬車を借りよう。麦の束のように、荷馬車に花嫁を乗せてくるのでは、あまりにも失礼ではないか。


 野を渡る春風が、ミントと早咲きの野ばらの香りを運んでくる。
 天も祝福しているとしか思えない好天にもかかわらず、村に向かって馬を走らせるロイの心は、またしても揺れていた。
 正確には昨夜からだ。パトリシアをハリス長老の家に送った後、一人で我が家に戻った彼は、じゃれ付いてくる仔犬に餌を与えながら、再び強烈な迷いに襲われていた。
 この村外れのちっぽけな家にたった一人で、都会育ちの令嬢である彼女が、どうやって暮らしていけるのだろう?
 自分が彼女に残せるのは、この家と、たかが知れた貯金くらいだ。彼女は、これからの生活の厳しさを理解しているのだろうか?

 次から次へと心配が大波のように押し寄せてきて、ベッドにもぐりこんで眠ろうとしても、なかなか寝付かれなかった。寝坊したのはそのせいでもある。そして今の今、彼はその迷いに再び囚われていた。
 いくら戦時結婚とはいえ、このドタバタぶりはどうだろう。彼女は本当に俺なんかと結婚してもいいのだろうか? 自分などより彼女を幸せにできる男が、トロントの社交界には山ほどいるだろうに。あの甘ったれのアーノルド・ホイットリーでさえ、今の彼よりは、はるかにパトリシアを幸せにできると断言できた。

『ここでなら、わたし一人でも何とかやっていけそうだわ……』

 昨日、シャーロットタウンに向かう道すがら、パトリシアが呟いた何気ない一言。それが今も彼の胸をきりきりと刺し続けていた。あの時はさらっと流したが、その実、心にぐさりと突き刺さったまま、抜けなくなっていたのだ。
 俺はすぐにこの村からいなくなる。戦争はまだまだ終わらないかもしれない。カナダ軍がドイツ軍の毒ガス攻撃で全滅することだってあり得るのだ。そうなったら、彼女はどうなる?
 結婚してから後悔されるくらいなら、いっそ、今のうちに……。
 馬上で、ロイはぎりっと唇をかみ締めた。
 そうだ。今ならまだ遅すぎはしない。男として心から愛する女性のために、自分の心を引き裂いてでも、急に気が変わった、と言うべきではないか?
 彼女をトロントに送り帰すことこそが、正しい選択ではないのか? もし、パトリシアを本当に愛しているのなら……。

 ああ、畜生! それくらいなら、いっそ、自分の心臓に銃剣を突きたてた方が、まだ痛みは少ないだろうが……!!

 結論も出せないまま、村に着いてしまった。本当に遅刻しているかもしれない。引きつった表情のまま、彼は教会に向かった。
 とにかく、彼女に会って、この事実を確認し、最後にもう一度選択の余地を与えよう。もし、わずかでも迷いが見えたら、その時は……。


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17/11/06
オフがちょっと忙しくて、更新が遅くなってしまいました。
すみません…。