Chapter 21

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 近くの小川から、かすかなせせらぎが聞こえてくる。もうお昼になっただろうか。子犬を放してやると大はしゃぎで、どこかに駈け去って行った。心配するパトリシアに、帰ってくるさと笑って、まずは食事にしないか、と提案する。
 彼女がさっそく持ってきたバスケットを開いた。真鍮のカップに注いだ水筒のお茶と、昨夜の残り物や焼き菓子を詰め込んだだけのランチだったが、この中では王侯の昼食にも劣らなかった。
 たわいもない話に笑ったり、ふざけ合ったりしながらゆっくりと食事を取る。
 やがて話の種も尽きると、二人はただ寄り添って座っていた。しばし、取り巻くものはさえずる鳥の声と小川のせせらぎと、梢を渡る風の音だけになる。

「まるで、世界にわたし達二人きりみたいね……」
「こうしていると、何もかも忘れてしまいそうだな」
「忘れられたらいいのに……、ああ、本当に奇跡が起きて、明日中に何もかも終わってしまえばいいのに!」

 せつなそうに声をあげるパトリシアに、ロイはそっとキスして微笑みかけた。再び虚空を仰いだ彼の瞳は、空の色を映したようにどこまでも青く澄んでいた。

「これらをお造りになった偉大なる造物主にとっては……、地上の泥沼の争いなんか、ウジ虫同士の仲間割れにすぎないのかもしれないな」
 穏やかな微笑を浮かべたまま、ロイはふと、はるか遠くに思いを馳せるように呟いた。
「長い時代を通して見れば、今この世界を揺るがしている大戦争さえ、ほんの一瞬の出来事にすぎないんだろうね。そう、だからこそ、僕ら自身が今存在する意味を見出さなければならないのかもしれない……。ナポレオンの頃ではなく、この【今】を生きている意味をね。幸か不幸か、この時代に生まれた以上、世界を覆っている深い闇を黙殺しきることは、やっぱりできないと思う。この夜の向こうにどんな曙光が輝くのか、かなうものならこの目で見てみたいと思うんだ。そのためには、逃げずになすべきことをなす以外、道はないんだろうね。……僕らには、やっかいなことに良心というものがある」
「そんなもの、さっさとどこかに置き去りにして、平気で生きている人もいるのにね」
 物事の捉え方にも何と違いがあるのだろう。ちらりと元婚約者を思い出し、パトリシアが苦々しくつぶやいたとき、肩に手がかかり、優しく抱き寄せられる。
「かもしれないな。それに、その方がよほど楽に生きられるし、賢いのかもしれないよ。でも少なくとも僕は違う。これでやっと魂の負い目から解放された気分だよ……。ああ、もうこんな話はよそう、時間がもったいない」
 二人はまた沈黙した。見つめ合ううちに、ごく自然に互いの唇が重なっていた。ロイの手が結い上げたパトリシアの髪をほどいた。陽光を浴びて、長い黒髪が艶やかに風に溶けて流れる。
 その豊かな巻き毛をひと房取り上げて口づけながら、彼は穏やかに言った。

「パット……、今ここで君がほしい。そう言ったら、君はどうする?」

 パトリシアがはっとしたように身じろいだ。ロイは微笑を浮かべ、憂いと情愛の混じった熱っぽい眼でしっかりと彼女を捉えていた。けれど、手を伸ばそうとはしていない。全ては彼女の自由な意志にまかされている。
 そう悟った時、パトリシアは黙って立ち上がった。少し震える手でエプロンドレスをはずし、服のボタンをはずし始める。
 見上げるブルーの瞳がみるみる色濃くなった。間近にある男性の体が緊張してくるのを感じ取りながら、身につけている衣服と下着を一枚ずつ下に落としていった。

 ついに、生まれたままの姿で目の前に立った彼女を、ロイは少し頭を引いて、一枚の絵を眺めるように見つめていた。
 はにかむように頬と肌を上気させ、乳房を覆うように腕を交差させた彼女の裸身が、萌え立つ木々と彩り豊かな花を背景に浮かび上がっている。
 何という調和だろう……。温かな木漏れ日の中、風が柔らかに彼女の黒髪と白い素肌をなぶっている。ロイは目の前の鮮やかな情景を胸に深く刻み込んだ。一片も欠けることなく完璧に。今目にしている情景こそ、これから果てしなく続く西部戦線の夜々、彼を照らし導いてくれる灯し火となることがはっきりと分かったからだ。

 身動きしないロイに、パトリシアがそっと手をかけ、立ち上がらせた。まるで神聖なものを称え崇めるように、彼はおそるおそる彼女の白い肩に手を伸ばした。パトリシアの指が自分のシャツのボタンにかかるのを見て、やっと気が付いたように彼も衣服を脱ぎ捨てる……。

 二人は今、エデンの園のアダムとイブのように、互いだけを拠り所として立っていた。完全に外界から隔絶された孤独……。あるいはこれこそが、失楽園の痛みなのかもしれない。
 太古の時代から今に至るまで変わらず降り注ぐ陽光を浴びながら、互いに畏れに似た思いをこめて触れ合い、しっかりと抱き合った。
 そして、唇に永遠の誓いを繰り返しながら、太古からの衝動に身を任せていった。


*** ***


 夕暮れの風が吹き始めた。身も心も一つになった歓喜のひとときを分かち合った後も、二人は敷物の上に抱き合ったまましばらく横たわっていた。
 満たされたパトリシアのけだるい表情をじっと見ていたロイがようやく体を起こした。共に身繕いを済ませると、彼は口笛を吹いて子犬を呼び、荷物をまとめて馬車に積み上げた。戻る道すがら、ふいに思い出したように声をあげる。

「そう言えば……、明日は君の誕生日じゃなかったかい?」
「あら、そうだったわね。あまりにも色んな事があって、すっかり忘れていたけど」
 別にどうでもいいのよ、と眉をひそめる顔をちょっとつついて、彼は明るく尋ねた。
「僕が今27だから……、君は23かな、24?」
「レディに年齢を聞くものじゃないわ」
 ふふっと笑ってから、「24歳になるのね」と呟いた。去年の誕生日からもう何年も経ったような気がする。自分にとっても世界にとっても、あまりにも激動の一年だった。
「それじゃちょっと、お祝い代わりに町によって、食事をしてから帰ろう」
 パトリシアにしても、今から夕食の支度をする余力が残っているとは思えなかったから、ロイの魅力的な申し出に喜んで甘えることにする。

 村のパブで食事をとった後、彼は電報を打ってくるよ、と言って彼女をそこに残し、出かけてしまった。
「トロントのウェスコット先生に、僕らが無事に結婚したことをちゃんと報告しないとね」

 陽気にウィンクしたロイに笑い返し、心からの感謝を伝えてね、と見送った。パトリシアがそのまま一人で待っていると、近くの席についた老人達の会話が嫌でも耳に飛び込んでくる。三人はくだ混じりに戦況を分析した後、陰気に締めくくった。
「だが、イタリーもオーストリアに宣戦布告したことだ。これで戦局の早期収拾に希望がもてるんじゃないかね」
「ふん、今まで何度そんな言葉でごまかされてきたことか! 第一、寝返ったイタリーをどれほど当てにできるのか、まだわからんじゃないかね。それに……」
「そうじゃとも。第一、戦況がよくなろうが、わしの息子はもう二度と帰って来はせん!」

 最後の呻きには胸を突かれるような響きがこもっていた。パトリシアは耳をふさぎたくなった。ロイが明後日の朝には行ってしまうという現実が、突然重く重くのしかかってくる。
 ああ、早くロイが戻って来ればいいのに!

 だが予想に反し、彼が戻るまでには随分と時間がかかった。ようやく戻って来たロイは、言葉少なに彼女を促し、家路についた。彼の顔も何故か強張っているような気がする。

 その夜、二人は結局何も言葉にしなかった。
 ただ再び、荒々しいほど互いを求めると、互いの腕の中で眠りに落ちていった。


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17/11/24