Chapter 3

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 パトリシアの身体は傍目にもわかるほど震えていた。
 突然のことにアーノルドも驚き、眉をひそめながら、彼女を抱きかかえるように踊りの輪から抜け出すと、壁際の椅子にそっと座らせた。
「急にいったいどうしたんだ。気分でも悪いのかい?」
 覗き込むアーノルドにやっとの思いで頷き返しながら、パトリシアの視線はさっき見えたロイの姿を追いかけて、必死に広間中をさまよっていた。ようやく、こちらに背を向け出て行こうとする背の高い姿を、扉ぎりぎりで捉えると、声にならない声が唇からこぼれ落ちた。

「待って……、お願いだから待ってちょうだい」

 パトリシアはやみくもに椅子から立ち上がった。目の前の婚約者が表情を曇らせ、その傍らで数人の客達も眉をひそめて眺めていたが、何も目に入らなかったほどだ。だが、辛うじてその場を繕うようにこれだけ言った。
「アーノルド、わたし……、何だかとても気分が悪くなってしまって……。少しお部屋で休ませていただくわ」
「貧血かな? 僕もいっしょに行こうか?」
「いいえ、あなたはお客様のお相手があるでしょう。わたし一人で大丈夫よ」

 青ざめた顔でまだ少し震えている彼女の言葉を、疑う者は誰もいなかった。内心ほっとしているのがありありとわかるアーノルドを残し、客の間をすり抜けるように、小走りに今しがたロイが出て行った扉に向かう。

 神様! どうぞ彼がまだ、ここに居てくれますように!


*** ***


 ロイは屋敷の階段を下りると、見知った顔が何人もいる表玄関付近を避け、ひと気のない中庭の方から外へ出ようと、廊下を大股に歩いていった。あらかじめ、この屋敷の構造を見ておいたのが役に立ったようだ。
 とにかく、この息の詰まる華やかな屋敷から、誰の目にも触れずに一刻も早く消え失せてしまいたかった。たとえ弁護士仲間相手でも、気安い世間話など、今はとてもできる状態ではない。
 突き当たりに見える扉は少し開いていて、湿った夜風を運んできたが、彼の腹の中は、どうしようもないほど煮えくり返っていた。

 あと一分と、あんな光景を見ていることはできなかった。失望感と悔しさが容赦なく胸に打ちつける。そして何よりも焼け付くような嫉妬心――認めたくないが、そうとしか言いようがない――に、頭が吹き飛びそうになっている。
 自分ごときが彼女の心配をしてやる必要など、これっぽっちもなかったのだ。たまっている仕事を放り出してまで、こんなところに駆けつけたあげく、一番知りたくなかった現実を目の前に突き付けられて、自分の愚かさ加減を心底呪っていた。

 パトリシアがアーノルド・ホイットリーに伴われて室内に入ってきた瞬間、頭を棍棒で一発殴られたような気がした。突然、ビロードのカーテンの裏側で男達の会話を聞きとることが、ひどく困難になった。
 それでも、さらに踏みとどまって、有益な情報らしきものもいくつか拾いはしたが、今更それが何になるというのだろう?
 二人が踊り始めたとき、我慢も限界に達した。気がつくと無意識に、数歩前に踏み出していた。あのいまいましい男が、我が物顔で彼女の腰にぴったりと密着し、甘ったるい顔で何ごとかささやきながら、彼女の顔に手を触れている。
 その様子を見るなり頭に血がのぼり、ラトランドも鉄道債も、何もかもがどうでもよくなってしまった。

 俺は今まで三か月も、いったい何をやっていたんだろう……。

 怒りと同時に強い脱力感に襲われた。それでも身動きもできず、優雅に踊るパトリシアをただじっと見つめていた。もう二度と、彼女を目にすることはないのだと、今こそはっきり思い知らされたからだ。
 その時ふと、彼女と目が合った。パトリシアは自分に気づくなりさっと青ざめると、アーノルドに隠れるように身を寄せてしまった。ぎりっと奥歯をかみ締め、我に返るとロイはさっときびすを返しホールを後にした……。


 近づいてくる軽い足音に一瞬緊張したロイは、背後から聞こえてきた思いがけない声に、驚いて立ち止まった。
「ロイド・クライン! あなたロイでしょう? お願いよ、待ってちょうだい」
 振り返ると、少し離れたところにパトリシアが息を切らせながら立っている。
 なぜか、彼女はひどく切羽詰っているように見えた。二人はしばらく身動きもせずに見つめ合ったまま、その場にじっと立ち尽くしていた。
 廊下の薄暗い照明が、緊張した彼女の顔と美しいドレス姿を白く浮かび上がらせている。

「どう……して……?」
 ようやく、彼の唇からひび割れた声が漏れた。
 まさか追いかけてくるなんて。それに彼女は今泣いているのだろうか?
 その頬を伝いおちる幾筋もの涙に、ロイは我が目を疑った。頭は一層混乱したが、混乱しながらも反射的に、両腕を広げるように前に突き出していた。
 次の瞬間、彼女は驚くほどの勢いで腕の中に飛び込んできた。よろめかないように両足を踏ん張り、支えなければならないほどだった。

「パトリシア?」

 何がどうしてこうなったのか、ロイにはさっぱりわからなかった。それでも今この胸に感じる彼女の身体のぬくもりと、甘い香りはまぎれもなく本物だ。彼女が自分の腕の中で声を殺して泣いている。ロイはしばらくためらうように彼女を抱いていたが、やがて、彼女の顎に手をかけて、そっと顔を上げさせた。
 パトリシアは伏目がちに顔をあげ、涙にぬれる黒い瞳で彼を見上げた。その目の中に自分に対する限りない親愛の情を読み取ったとき、ロイは思わず、小さくうめき声をあげた。
「パット……」
 引き離されたあの日からずっと、宝物のように心に隠し持っていた大切な呼び名。もう二度と彼女を呼ぶことはないだろうとあきらめながら、捨て去ることもできなかったその名を、彼はそっと呼びかけた。
 呼びかけながら、そのシルクのような唇に、強く自分の唇を押し付けていた。

 もちろん、すぐにやめるつもりだった。今、ひどく興奮しているらしい彼女をなだめ、慰めるだけのキスのつもりだった。二人の間に、そんなにも待ち焦がれたように、一気に情熱の炎が燃え上がるとは思ってもいなかった。
 腕の中の体が大きく震えた。華奢な手が彼の腕をおそるおそる這い上がり、着ているタキシードの肩をぎゅっと捕まえる。その愛らしい仕草とともに重なりあった唇の下で、彼女の唇が小さく開いた。おずおずと触れてくる花びらのような舌先を感じたとき、ついに彼の理性はふっとんでしまった。
 片方の腕で身体をしっかり抱き寄せ、もう片方の手で彼女の頭を動かないように押さえつけると、ロイはその唇をむさぼるように開かせながら、奥まで荒々しく舌を滑り込ませた。パトリシアは彼の侵略にびくりと身をこわばらせたが、キスの仕方は知っているようだった。まだためらいつつも、身内からの熱に押されるように彼を求め、キスを返しはじめる。
 触れ合い絡み合った唇と舌が、お互いを味わうように激しくキスを繰り返す。きつく閉じたまぶたの裏で、何かが音を立ててはじけたような気がした。


 廊下の向こうから近づいてくる複数の足音が聞こえ、はっとして目を開いた。ロイは慌てて抱擁を解くと、息を乱しながら彼女を見つめた。
 パトリシアはまだ呆然としているようだった。どうしたらいいのか全くわからない、というように、怯えた目でただ彼を見返している。

「パット、僕と一緒に来るんだ。早く!」

 次の瞬間、ロイは彼女の手をつかむと、目の前の扉を押し開いていた。


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17/01/17
やっとやっとココまで来ました〜(嬉)
引き続き、お待ちいただければ感謝です。