Chapter 4

page 1


 それから三十分後、二人はトロントの中心街から、ウェリントン・ストリートを市のはずれにある湖に向かってゆっくりと歩いていた。

 人や馬車や車が雑多に行き来する大通りの半分は、市内を走る鉄道の線路で占められている。さすがに道行く人も、この時間になるとかなり少なくなっていた。
 ロイの全神経は傍らを歩くパトリシアに集中していた。そのくせ極力彼女を見ないようにしていた。
 街の灯に、美しいドレスのすそと、はいている上品な上靴が黒ずんでしまっているのがわかる。こんなに歩かせて足が痛んでいないだろうか? 薄いドレス一枚きりの彼女が夜風に小さく身震いしたので、着ていたタキシードのジャケットを脱いで、肩にぱさりと掛けてやった。
 訊ねたいことが山のようにあるのに、何を聞けばいいのかわからない。まるで気の利かない少年に戻ったようで、そんな自分に心の中で悪態をつく。
 サマセット村の小道を屈託なく笑いながら一緒に歩いた日から、お互いに全く別の道を辿ってきたのだ。二人の間には十年という歳月の溝が横たわり、それを一足飛びに乗り越えることは難しかった。おまけに、さっきの滅茶苦茶なキスのせいで、幼友達という二人の唯一の関係にも、すでに亀裂が生じている。

 そのとき、それまで黙って歩いていたパトリシアが、こちらを見上げて呟くように問いかけた。

「わたし達、どこへ行くのかしら?」
「いや……」声がかすれ、慌てて一、二度咳払いした。「そんなに遠くまで行くつもりはないんだ。あとで必ず君を邸まで送り届けるよ。もう少し歩けるかい? この先に湖に面した公園があってね。そこなら誰かに見つかる心配はないと思う」
「そう」
「本当は、三か月前にチャンドラー邸に行ったときから、君とゆっくり話がしたいと思っていたんだ。成り行きで、こんなふうになってしまったが……」
 彼女のそっけない返事に表情を曇らせ、ロイは思わず足を止めてその顔を覗き込んだ。
「もちろん、今すぐに帰りたいのなら、遠慮なくそう言ってくれたらいい。ここで辻馬車を捕まえて送るよ」
「いいえ、大丈夫」彼女はいそいで首を横に振った。「わたしも……、本当はあなたにとても会いたかったの。そうでなかったらさっき、あなたのことを追いかけたりしなかったわ」

 心配そうなロイの顔を見返し、パトリシアは不安を振り切るように笑顔を見せた。


*** ***


 夜の湖畔は、人影もなくがらんとしていた。晴れた夜空に浮かぶ月が、湖水に冴え冴えと影を落としている。湖に続く公園のベンチで、ロイが手を差しのべて促したので、そっとその手を取って腰を下ろした。背後のガス灯のぼんやりした黄色い光に照らされたパトリシアは、不安そうでもあり、また、どことなくせいせいしているようにも見えた。
 とっさのこととはいえ、随分無茶な真似をしたものだ。今頃ホイットリー邸では、パトリシアがいないことに気付き、一騒ぎになっているかもしれない。
 だが、彼女を帰す前に、どうしても聞いておかなければ、今のままでは納得できないことがあまりにも多すぎた。

「その……、僕も隣に座って、構わないかな?」
「まあ、殿方が女性の前に突っ立ったままで話すなんて、それこそ尋問みたい。礼儀を問われますわ、クライン弁護士さん」
 パトリシアが、からかうようにくすっと笑った。ぎこちない沈黙が破れたことにほっとしながら、にやっと笑って隣に腰を下ろす。
「あなたが今日のパーティに招待されていたなんて、全く知らなかったわ。知っていたらわたしも、もっと早く来たのに」
「まさか。招待されていた訳じゃないさ。ウェスコット先生に無理を言って、招待状を手に入れてもらったんだ」
「そうだったの。でもどうして?」
「……ちょっとばかり、調べたいことがあったんでね」
 舌打ちしたくなるのをこらえて、皮肉な口調で答えた。不思議そうな顔の彼女に苦笑を禁じえなかったが、それでも昔馴染みの気安さが戻ったことに安堵し、ロイは本題を切り出した。
「君のお父さんのことだけど……、その後どうなっているんだい? あれからすでに三か月も経ってる。もう連絡が取れるか居所がわかるかしたの?」
 途端に彼女の表情が真剣になった。
「いいえ。居所も何も、詳しいことは少しもわからないの。だけど、ひと月ほど前に手紙が来たわ。今モントリオールにいるってことだけ」
「モントリオールから手紙?」
 少し気が抜けたが、同時に彼の頭の中でそれまでに得ておいた情報が、めまぐるしく回転し始めた。
「そうか。なら、よかったじゃないか。一安心というわけだ」
「でも、あんな父らしくない手紙、絶対おかしいわ。それ以外、具体的にどこにいるとも、いつ戻るとも書いていないのよ。普段ならもっと近況とか、わたし達を気遣う言葉とか、いろいろ書いてくれるのに」
「なるほどね……。そうか、モントリオールなら、ラトランド商会の大口取引相手、ガヴァナー鉄道会社があるね。まだ新興の会社だが急速に伸びているんだ。確かトロントからの支線敷設工事の落札を、他の会社と張り合っていたはずだが」
 ロイが考え込むようにゆっくりと切り出すと、パトリシアは驚いたように彼をまじまじと見つめた。その視線をしっかり受け止めて頷く。
「ところで君のお父さんも、ラトランドから鉄道債を買っていたのかい? あるいはラトランド商会と何か鉄道債以外のことで、取り引き、もしくは商談でもなかっただろうか」
「ど、どうかしら。わたし……、わたしには、わからないわ。ごめんなさい」
「詳しい内部事情までは、僕にはさすがにわからなかった。どうにかして、もっと突っ込んで調べられるといいんだがね。それとさっきのパーティの席でミスター・ホイットリーが、最近二度、モントリオールまで出かけたと言っていた。どこへ行っていたのかそれとなく聞いてみたら、何か手がかりが……」
「ああ、ロイ! あなたって、なんて素晴らしいんでしょう!」

 彼がまだ全部言い終わらないうちに、突然パトリシアは感極まったように声をあげ、彼の首に手を回して抱きついた。はずみに肩に羽織っていたタキシードのジャケットが地面に滑り落ちたが、二人とも気づきもしなかった。黒い瞳を輝かせながら、パトリシアは喜びに紅潮した顔をロイに向けた。

「あなた、今までそんなにいろいろ調べてくれてたの? あの日わたし達、あなたに本当に失礼なことをしたのに。わたし、あなたがすっかり怒ってしまったと思って……、悲しくてたまらなかったわ。もう一度あなたの事務所に行きたかったけれど、それもできなくて、もうすっかりあきらめていたのに……」

 彼女のぬくもりが手の中にあり、柔らかな息が頬にかかる。ロイの瞳にさっと影が差した。

「あの時のことについては……君のせいじゃないだろう? だが正直に言えば、アーノルドとかいう君の未来のご夫君については、まったくいい印象は持てなかったね。……ほら、そんなことをしてると、またどうなっても知らないぞ。僕の忍耐力を試すつもりなら、やめたほうがいい。君を前にしては至極弱いらしいから。それはもうさっきの廊下で実証済みだろ?」


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/01/21