Chapter 4

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 こんなことは今すぐやめろ、この大馬鹿野郎!
 心の中で自分に向けてそう怒鳴っても、もはや抑えも歯止めも利かなくなっていた。
 これこそ、彼女を再び目にしたときから、彼が心密かに抱き続けていた願望そのものだった。こうして胸いっぱいに彼女の香りを吸い込みながら、彼女の甘さの中に深く酔いしれること……。
 だが今度こそは、パトリシアも激しく抵抗した。こんなキスは我慢できなかった。ロイはまるでわたしを罰するようにキスしている。今の彼の唇は荒っぽくて一方的に奪い取るようで、感じられるのはむき出しの激情だけだった。
 彼はいったいどうして、わたしにこんなことをするのだろう。
 さっきの言い方が、癇に障ったからかもしれない、とぼんやりかすむ頭で考えようとしたが、彼のキスがさらに貪欲に深まってくるにつれ、何も考えられなくなってきた。
 見極めるのも怖い何かが、パトリシアの身体の奥から沸き立ち始める。口中を激しくまさぐられ、ついにこらえきれず、閉じた瞼から涙がこぼれはじめた。

 始めたのと同じくらい唐突に、ロイはキスをやめて身体を押しのけた。泣いているパトリシアの顔を、目を細めて見つめていたが、やがて、くそっと毒づき、向こうに歩いていった。月明かりの中、大きな松の木の太い幹に幾度もこぶしをたたきつける彼を、パトリシアは唇を震わせながら、眺めていた。


「すまなかった、パット……」
 ようやく戻ってきたロイは彼女と目を合わせようともせずに、ポツリと呟いた。木に打ち付けていた手の甲が擦りむけ、血が流れている。パトリシアはその手を取ろうと無意識に片手を伸ばしかけたが、彼はさっとひっこめると、俯きがちにかすれた声で続けた。
「本当にすまなかった。こんなつもりは、まったくなかったんだ。君がお父さんを探したいなら、何か手伝えたらと思っただけで……。ああ、今更何を言っても言い訳にしかならないな。確かに僕には、君にあれこれ言う権利も資格も何もない。それに僕こそ本当に最低だ。久しぶりに君に会って以来、ののしられても仕方ないことばかりしている。だけど……」
 男らしい顔が一瞬ゆがんだ。
「いや、もう戻ろう。チャンドラー邸まで送っていったら、二度と君にかかわるようなことはしない。約束するよ」

 ロイはベンチの下に落ちていたタキシードのジャケットを拾い上げ、肩にかけた。そのまま先に立つと、公園の入り口に向かって歩きだす。
 パトリシアはまだ身動きもせず、遠ざかって行く背中を見つめていた。

 少し先でロイが振り返ったとき、パトリシアの大きな瞳が苦しそうな色を帯びた。震える唇がそっと動く。
「だって……、それじゃあ……」
 怪訝な顔をしたロイに向かって、今度は一気に心の奥底をぶちまけるように叫んでいた。
「ねえ、あなたがいなかったら、わたしはいったいどうすればいいの? 手伝ってくれるって言った言葉は嘘だったの? あなたが教えてくれなかったら、馬鹿なわたしには、今からどうすればいいのかさえわからないわ!」

 そう叫びながら、涙がまたぼろぼろと頬を伝って零れ落ちたが、もう体裁をかまっている余裕はどこにもなかった。

「そんなに知りたいのなら、教えてあげる! アーノルドとの婚約は、わたしがしたくてしたんじゃない! わたしには選択の余地もなかった。十六歳のとき、初めてトロントに来た日に、トーマス伯父様からアーノルドを婚約者だと紹介されて、いつか時期が来たら、け、結婚するんだって言われて……。父も母も伯父も伯母達も、みんなとっくに知ってて、当たり前みたいに喜んでいるのに、わたしに嫌だと言える? それから二年間、女学校でレディになる教育を受けたわ。規則だらけの窮屈な学校! 大声で笑っただけでも厳しく注意された。あんな所、大嫌いだったのに!」
 ロイがゆっくりと戻ってきた。再び目の前に立ち無言のまま、続きを待っている。パトリシアは、なおも激した口調でしゃべり続けた。
「十八で卒業したわ。そのあとは当たり前のように、アーノルドがわたしを訪ねてくるようになった。わたしの本当の気持を聞いてくれた人なんか、今まで誰もいなかった! こんなわたしが一人ぼっちで、いったい何ができるの? ねえ、あなたにわかるんだったら、教えてちょうだい!」

 背中に回された力強い腕の感触に、パトリシアは口を閉じた。だが心の中では、説明できない安堵感とともに、腹立ち、そして今の今まで抑えつけてきたありとあらゆる複雑な感情が、一度にどっと噴き出していた。それらを叩きつけるように、ロイの胸といわず、肩といわず、 手当たり次第に握りしめたこぶしで打っていた。
 顔だけはよけていたものの、彼は一切抵抗しなかった。黙って立ったまま、泣きながら打ちつける華奢なこぶしの雨をじっと受け止めていた。
 しゃくりあげ、夢中で言い募り叩くパトリシアの気持が、今度はロイにも手に取るように理解できた。予想もしなかった激しい奔流を黙って受け止めながら、彼女が今までどれほど我慢してきたのか、それを思うと胸がひりつくようだった。

 彼女が息を切らせ、力尽きたように両手を降ろしたのを見て、ロイはようやく口を開いた。
「気が晴れたかい?」
「いいえ、まだよ」
 まだすすり上げてはいるが、幾分落ち着いたように見えた。ロイが黙ってズボンのポケットから皺になったハンカチを取り出すと、それを受け取って目元をぬぐう。
「わからないわよ、あなたになんか……。自分で道を切り開いて、さっさとプリンスエドワード島から去ってしまったあなたになんか……。わたしだって行けるものなら、あなたのように大学にも行きたかったわ。たくさんの気の合う友達と、詩や文学や歴史を勉強をしたり、時には政治や哲学の話もしたり……」
「じゃあ、どうしてそうしなかった? 君の家なら、問題なくできたはずだろう? ご両親にその希望を話せばよかったじゃないか」
「トーマス伯父様が、レディは大学で小難しい理論やラテン語なんか習うよりも、作法や会話や社交術のほうがはるかに有益だとおっしゃって、それでおしまいだもの」
「まったくなんて家だ。それで、誰も何も言わなかったのか?」
 思わずはき捨てるように呟く。
「そうだったのか。ぼくはてっきり……。わかったから。さあ……」
 ロイはそう繰り返しながら、力づけるように彼女の背中をさすってやった。顔もドレスも泣き濡れてぐしゃぐしゃになっていたが、ホイットリー邸で見た人形のような彼女より、数倍も生き生きしている。
 これこそロイが知っているサマセットのパトリシア・ニコルズだった。誰よりも会いたかった、愛しい少女……。
 やがて、泣きはらした顔を上げさせると、涙の跡を指先でそっとなぞり、彼は穏やかに言った。

「今はもうとっくに二十世紀だ。そんな時代遅れの考え方は消えて行きつつあるんだ。すばらしい職業について、立派に自立している女性だってたくさん知ってる。よかったらまた紹介してあげるよ。もちろん君には、君のしたいことをする権利があるんだし、いくら有力者の伯父さんだか知らないが、言いなりになって好きでもない奴と無理に結婚するなんてのは論外だ。君もはっきりとそう言うべきなんだよ。何をそんなに、怖がっているんだい?」

 パトリシアは目を見開いた。わたしは臆病だったのかしら? ロイの言葉は、彼女の中に無理やり敷き詰められていた「従順」という安全な歩道に、大きくひびを入れたようだった。その下から力強い未知のものが、ゆっくりと動き出すのを感じる。
 何かが変わりそうな予感に、身体がまた震えた。
 黒い瞳にともり始めた光をしっかりと捉え、ロイは微笑んだ。そして、力づけるようにもう一度大きく頷いた。

「これからは、僕が君のそばにいる。あいつよりは、頼りにしてくれていいと思うよ」


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17/01/30