Chapter 5

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 夜もかなり更けた頃、辻馬車がチャンドラー邸の少し手前に停まった。

 ロイはここでいいというパトリシアを追いかけて、屋敷の門近くまで来ると、彼女の左腕をつかんで振り向かせた。だがパトリシアは一緒に行って説明すると言う彼を、あくまできっぱりと押しとどめた。
「あなたが来れば、その説明が余計ややこしくなるだけよ。わたし一人の方がまだましに決まってるわ」
「……君はいつでもそう言うんだな。僕はいったいいつになったら、堂々と君を送っていけるようになるんだろう?」
 悔しさに一抹の寂しさをにじませながらつぶやくロイに、パトリシアはそっと微笑みかけた。
「どうかそんなふうに思わないでちょうだい。今夜はつきあってくれて本当にありがとう。ロイ、あなたのおかげで今からわたしがどうすればいいのか、やっと分かったと思うわ。遅すぎるわよね、本当に。でもやってみるから」
「せめて……、それなら近いうちに必ずウェスコット事務所にでも連絡をくれるかい? もしくれなければ、今度こそ僕はこの家に押しかけるぜ。たとえ君の伯母上やあいつに何と言われようとね」
「わかったわ。そんなに心配そうな顔しないで。大丈夫だから」
 もう一度頷いたパトリシアは、そのドレスの悲惨な状態にもかかわらず、とてもきれいだった。おどおどしたところが消え、どこか毅然とした雰囲気さえ漂わせている。

 まだ手を離したくなかった。このままどこかへ連れ去ってしまいたい。そんなやみくもな衝動さえ感じるほどだ。
 だがもちろん彼女の言うことは正しかった。これ以上自分がいても困らせるだけだ。
 ロイはしぶしぶその場から離れた。すぐには帰らなかった。パトリシアが重い扉の中に消え去った後も、近くの建物の陰からチャンドラー邸を見上げて佇んでいた。


 彼女を得るには、いったいどうすれば……。

 コンウェイ邸に帰りついたとき、ロイはすっかり物思いに沈んでいた。自室に入りランプの火を点すと、すすけた居間の壁が黄色く浮かび上がる。
 狭い自室を眺めた途端、ロイはそんなことを考えた自分を思い切りあざ笑いたくなった。今しがたホイットリーの邸で目にしたばかりの、シャンデリアに煌くゴージャスなホールやギャラリーが頭の中を駆け巡る。あれこそが、今のパトリシアにふさわしい環境だ。彼女には大金持ちの婚約者がいる。勝算などひとかけらもない。
 どんなに自分に言い聞かせても、もう遅すぎた。抱きしめたときの彼女の身体の震え、キスしたときの甘い唇の感触、触れた指、そのすべてがまだ手にも唇にも体にも残っている。
 ああ、畜生! 
 シャツを脱ぎ捨て壁際に歩み寄ると、備え付けの洗面台に汲んでおいた水を頭からかぶった。心が完全に深みにはまり込んで抜き差しならなくなっている。今まではどうにかやり過ごしてきた。しかし今度ばかりは、無事にここから抜け出せるのかどうか、自分でもまったく自信が持てなかった。


*** ***


 翌朝、パトリシアはひどく興奮しながら起き上がった。疲れてはいたが、気分が嘘のように軽くなっている。
 今度の一件に関わりそうな手がかりを、まず一つでも多く見つけ出すこと。父の書斎や寝室を詳しく調べてみるのは、ごく初歩的な捜索方法だ。個々のピースがたくさん集まってくれば、次第に全体像が見えてくる。
 昨夜ロイはそう教えてくれた。教えながら半ばあきれていたような気がする。本当にわたしはなんて多くの時間を無駄にしていたのだろう。いらいらしながらも、自分では何一つしようとしなかった。アーノルドをただ信じて待っていたなんて、まったく馬鹿みたいだ。今となっては彼が信じられるのかどうかさえ疑わしかった。あの人は自分に都合のいいことしか考えない人だと、とうの昔にわかっていたはずなのに……。

 時間を無駄に……。そこまで考えたとき、ぎくりとした。今までの自分の人生そのものが、無駄でなかったと言い切れるのだろうか?
 したいこともできず、周りから勧められるままに整えられた環境の中でのみ行動し、婚約まで……。パトリシアは大きく頭を振った。突き詰めることにはまだ耐えられそうにない。
 彼女の思いは、再びロイのことに移っていった。
 そう、今は彼がいてくれる。遠いサマセットの日々、唯一心からの友達だったロイ。
 彼が同じトロント市内にいて、しかも昨夜は自分のことを心配して、わざわざホイットリー邸まで来てくれたのだ。それだけで、心がこれほど満たされているのが、とても不思議だった。

 でも、彼のキスのことは……?

 パトリシアは急いで固く目をつぶった。あの瞬間、彼が垣間見せた焼け付くような眼差しを思い出すと、心臓がぎゅっと縮まるようだ。これ以上踏み込んでしまえば二人の関係は今のままではいられなくなる。一番大切な美しい思い出とともに、粉々に砕け散ってしまいそうな気がする。
 何よりもそれが一番怖かった……。


 考えることがたくさんあったおかげで、昼食後部屋にセシリア伯母があがってきた時でさえ、普段よりはずっとしのぎやすかった。あきれ返って言葉も出ないと言いつつ、やかましく並べ立てるレディのたしなみについての説教をうつむいて聞くふりをし、あれこれ考えごとを続けながらやり過ごした。
 ようやく終わったと見ると、パトリシアは伯母に問いかけた。

「伯母様、お父さんの書斎の鍵はいったいどこにあるんでしょう? それにどうして鍵がかかっているんですか? 以前はそんなことなかったわ」
「何ですって? 書斎の鍵がどうしたと言うんです?」
 じろりと見返す伯母に、パトリシアはひるむことなく問い続けた。
「さっき書斎に行ったら、鍵がかかっていて入れなかったんです。わたし、探しものがあって……。どうしても中に入りたいんです」
「お父様は商用でお出かけなのですよ。お留守中にお部屋を引っ掻き回すなんて、まったく賛成できませんね。お父様もきっとわたしと同じ意見でしょう。ほら、アーノルドが着いたようです。余計なことを考えていないで、服装を整えて降りていらっしゃい。アーノルドにもしそんな訳のわからないことを言ったりすれば、ますます怒らせるだけだと思いますね。昨夜は相当お冠でしたから、あなたもそのつもりで」

 窓の下で、車のエンジン音がひとつ大きく唸ってから途切れた。セシリア伯母は厳格な声でそう言い置くと、出迎えるためにさっさと出て行った。
 パトリシアは窓から車を見下ろし、大きくため息をついた。そしてゆっくりと着替えにかかった。


 サロンに入るとさっきの伯母の言葉どおり、見るからに機嫌の悪そうなアーノルドがテーブルについてお茶を飲んでいた。
 不満の色をありありと浮かべ、パトリシアに気が付いても声をかけようともせず、いつもよりさらに尊大に眺め回している。彼がひどく怒っているのは明らかだった。昨日までなら、きっといたずらにおどおどしてしまったに違いない。
 自分でも驚いたことに、その日は彼の機嫌などどうでもいい、と思えた。自分で椅子を引いてさっさと席に着くと、ティーセットを取りあげ自分用のお茶を注ぐ。
 そして、おやっという顔をしたアーノルドに向かって、いきなり切り出した。

「トーマス伯父様が、最近モントリオールへいらっしゃったというのは、本当なのかしら?」


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17/02/04
更新が不規則になっていてすみません。
やや不定期でも週二回は守りたいところです……。