Chapter 6

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「だから、わしがあれほど注意したろうが! にもかかわらずこの無様な結果は何だ! 本業を忘れて、それでも飯が食えると思っているのか?」

 夕映えの光が差し込む頃、ウェスコット弁護士事務所で、ウェスコット氏が声を荒げて机の前に神妙な面持ちで立つロイに向かって説教をしていた。
 上司の厳しい叱責にも、この日ばかりは反論せず黙って聞いていた。弁解の余地もない。今日の口頭弁論の成り行きでは、この裁判は負けるかもしれない。相手側のあらゆる出方を考慮した上で、もっと綿密に作戦を練っておくべきところを手を抜いた、と責められても一言も言い返せなかった。

「今後もこんな調子が続けば、お前に回す仕事を考えなくてはならん。なくなるかもしれんぞ!」
「事務所の名誉を傷つけ、大変申し訳ないと思っています。こんなへまはもう二度とやりません」

 答えるロイの頬が引き締まった。しばらくの間、ウェスコット氏は腹立たしげにパイプをふかしていたが、やがて表情を和らげ、諭すような口調になった。
「いいか、ロイド。何度も言うようだが、ミス・パトリシア・ニコルズの件は仕事とは何の関係もない、お前のプライベートに属することだ。もちろんお前の古い友人が……」
 ゴホンとひとつ咳払いをする。
「そのだな……古い友人が困っているというのなら、首を突っ込むなとは言わん。だが、あくまで仕事が優先だ。当然だな? そんなことも忘れるようではこの先……」
「もちろん、よくわかっていますとも!」
 突然、ロイは鋭く上司の言葉をさえぎった。思わず噛み付くような口調になる。青い瞳に浮かんだ苦悩の影を読み取ったのか、氏はそれ以上もう何も言わず、しばらく黙ってパイプをふかし続けた。

「お前も読んだか?」
「え?」
 いきなり机上の新聞を示され、ロイは面食らった。だが、ウェスコット氏が何のことを言っているのかすぐに思い当たると、黙ってうなずき一面の記事にもう一度さっと目を走らせた。
「バルカン半島でまた、何やら紛争の火種がもちあがったようだ。そうひどいことにならねばよいがな。しかも、オーストリアはドイツと同盟を結んでいる」
「列国が話し合いとやらで、何とか対処するでしょう」
 席に戻りながらそっけなく答える。ヨーロッパの事情など基本的にはあまり関係のないことだ。

 立ち上がったウェスコット氏はややひしゃげた帽子を頭に載せて、再びこちらを振り返った。
「それでは、わしはそろそろ帰るが、今日はお前もいっしょにどうだ? うちに来て食事でも……」
「ありがとうございます。ですが僕はもう少し。残って挽回の余地はないかどうか、検討してみます」
 氏はなんだ、という顔になったが、先ほど延々と説教した手前うなずくしかなかった。
「それじゃマーシー、おや、先に帰ったのか? もうそんな時間かな?」
「少なくとも六時はとうの昔に過ぎていますね」
 ロイは自分のデスクからちらりと顔を上げ、淡々と答えた。


*** ***


 一人になったロイは、しばらくぼんやりと考えにふけっていたが、やがて気を取り直したようにコーヒーを入れ始めた。大きくため息をつき、ランプを点すと手元の資料に目を通し始める。外はすでに宵闇の中だった。

 突然、事務所のドアを叩く音がし、ロイは書類から苛立ったように顔を上げた。
「何か忘れ物ですか? ご自分で取りに入ればいいでしょう……」
 しつこく繰り返されるノックに、苦虫を噛み潰したような顔で扉を開いた彼は、我が目を疑った。
 目の前に蒼白な顔の若い女が立っている。それは確かにパトリシアに見えた。
 しかし……。

 幻にしても実に奇妙な出で立ちだった。レディなら必ず被っている帽子もなく、いつも頭にきちんと結っている黒髪もほどけて、肩から背中へと無造作に垂れかかっていた。顔は何やら黒ずみ、額にほこりのようなものまで貼り付いている。上等な上衣もスカートも皺だらけだ。
 そして緊張しきった面持で、後生大事そうに何かを抱えていた。

「……やあ、パット」

 自分が呆然と眺めていることに気づき、ようやく口にした文句がこれだった。我ながら何と間抜けな……、とロイは内心舌打ちした。パトリシアがほっとしたように表情を緩める。
「お父さんの居所が……、わかったの……」
 糸の切れたマリオネットのように彼女の身体がかしいだ。ロイは慌てて彼女を支え、抱きかかえるようにして室内に戻ると、キャビネットの横に置かれた長椅子に座らせた。
 まっ青な顔でぐったりしている彼女の背中と頭にクッションをあてがうと、靴を脱がせてもっと楽な姿勢がとれるように長椅子の上に横たえてやった。
 一体どうしたんだ? ロイの頭にさまざまな憶測が迷走した。まさか誰かに襲われでもしたのだろうか。

 パトリシアはしばらくじっと目を閉じていた。彼が優しく幾度か呼びかけると、やっとうっすら目を開く。
「まさか、ずっと走ってきたのかい? どこから?」
「……伯父の家からよ。……とても、のどが渇いて……お水を……」
 パトリシアはかろうじてそう答えた。声がかすれてひどく聞き取りにくい。ロイは急いで水の入ったコップを持ってくると、片手で彼女の頭を支え、口元にあてがってやった。渇ききっていたというように、ごくごくと一息に飲み干すと、ひと心地ついたらしく、また目を閉じてしまった。
「一体どうしたっていうんだ? 何が……」

 尋ねようとして、すぐに思い返した。話は後でもいい。彼はキャビネットの中をかき回して乾いたタオルを見つけ出すと、水の入った洗面器を持ってきて再び彼女の横にかがみこんだ。
 顔、髪、首筋、手と順に汚れをふき取り、タオルをすすいでもう一度丁寧にぬぐってやる。やがて青ざめていた顔に赤みが戻り、唇から小さく吐息が漏れた。
「何があったか知らないが、もう大丈夫だ。ここまで来たんだ。もう何も心配はいらないさ」

 力づけながら、今も彼女が大切そうにかかえている箱をそっと取り上げると、傍らのテーブルに置いた。
 彼女が目を開いた。目の前にあるロイの顔を今初めて見るようにじっと見つめる。
 パトリシアはおずおずと片手を伸ばすと、彼の頬にふれた。その華奢な手にロイは自分の大きな荒れた手を重ね、ぐっと力を込めた。
 ロイの手のぬくもりを感じ、パトリシアは少し微笑みながら、かすれた声で言った。

「あなたに会いたかったわ、ロイ……。とっても。自分でも信じられないくらいに……。こんなにもあなたに会いたかったんだって、今わかったわ」
「僕はこの十年間、ずっとそうだった。気が変になるかと思うほどだったな」

 そう答えながら、ロイは彼女の唇に唇を重ねていた。


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17/02/24
お待たせいたしました…。