Chapter 7

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 彼女の思いがけない言葉を聞き、ロイの自制のたがは今にも吹き飛びそうになった。何より、パトリシアの熱い反応が彼を根底から揺さぶっていた。
 身内に強い歓喜と一層激しい欲望が燃え上がる。すぐさま、彼女の服を全て剥ぎ取ってしまいたい。そんな荒っぽい衝動を抑えているだけで、額に汗が噴き出してくるほどだ。

 パトリシアは俺のものだ。このまま自身を彼女の中にうずめ、痺れるような悦びの中で一つに融け合ってしまいたい。何を迷う必要がある? 彼女も今、俺の下で完全に身を投げ出して、俺が踏み出すのを待ち望んでくれているじゃないか……。

 だが、そう思うそばから、冷ややかな声が心に忍び寄ってくる。

 それでいったい、どうなると言うんだ……?

 ロイは、はっと顔をあげた。苦い現実に突然、頭を張り飛ばされたようだ。奥歯をぎりっと噛み締める。
 そうだ。その後いったい、どうなるというのだ? 今の自分に彼女に約束できるどんな未来の保証がある?
 俺が彼女にどんな暮らしを与えてやれる?
 この下町の狭い安下宿と、面倒を見なければならないサマセットの年老いた母親、そして駆け出し弁護士であるという以外、今の自分には文字通りまったく何もないというのに……。

 ……わかっている。パトリシアに相応しいのは俺じゃない……。

 だが、彼女が誰か他の男のものになると考えるだけでも、鋭い刃で胸をえぐられるような激しい痛みに突き刺されるような気がした。
 まして、あのアーノルド・ホイットリーなどに、誰が……!


 組み敷いた身体の下で、パトリシアは目を閉じたまま、彼の髪に指を差し込み、うわごとのように幾度も幾度も彼の名を呼んでいた。ロイはランプの光に浮かび上がった上気した顔と枕に乱れかかる長い黒髪につくづくと見入った。
 今の彼女をずっと見ていたい。この美しいすべてを、まぶたの奥にしっかりと焼き付けておきたかった。
 唇に口づけ、そのまま剥き出しになっている首筋から胸元へと再び熱く辿りはじめる。その柔らかい肌のミルクのような味わいを、しばし我を忘れ他の一切を忘れてむさぼった。
 ロイもパトリシアの名を幾度も呼んだ。身体も心も、永遠に彼女の中に溺れていたい。もっと彼女と根源的に一つになりたいと、大声でわめき叫んでいる。自分と同じく、彼女にもこの先決して自分を忘れることができないように、彼女を自身の一部にし、深く烙印を押してしまいたい。そんな男の本能的な所有欲が、腹の下から拷問のように突き上げてくる。
 繰り返し繰り返し彼女の名を呼びながら、ロイは彼女に覆いかぶさり、いっそうきつく抱き締めた。
 それでもロイは、必死になって自分とそして彼女の欲望にさえも抗った。肉の熱望にもかかわらず、どうしてもできなかった。
 なりふり構わず、この一夜限りと身勝手な渇望を満たすには、あまりにも深く彼女を愛していた。今彼はその事実を痛いほど思い知らされていた……。


「くそっ!」
 いきなりロイは彼女を抱きかかえたまま、ベッドの上で身を返して仰向けに転がった。
「パット……、駄目だ……。もうこれ以上は……」
 締め付けられるようなその声は、半ば朦朧としていたパトリシアの意識をも呼び覚ました。彼女ははっと我に返ったように目を開き、驚いたように彼の腕の中で頭を起こした。
 ロイは必死になって自制するように目を閉じ、唇を噛み締めていた。汗のしずくが光る胸が、半ばはだけたシャツの下で荒い呼吸に大きく上下している。彼の大きな手が彼女の頭をとらえ、もう一度、心臓の真上に押し当てた。パトリシアは呆然としたまま、激しく打ちつける彼の鼓動に耳をすませていた。
 やがて、その手が彼女をそっと脇へ押しのけた。息を殺すパトリシアの傍らでゆっくりと身体を起こす気配がし、体にそっと掛けられるシーツの感触を感じた。

 長い沈黙の後、ポツリと低い声が落ちた。
「すまなかった……、パトリシア」
 彼女は目を開いたまま、無言でベッドにうつぶせになっていた。心底打ちのめされていることを、彼には気付かれたくなかった。
 すべてを打ち明け、あからさまに身を投げ出したのに、これではあんまりな仕打ちだ……。
 青ざめて顔をこわばらせたまま、パトリシアはしばらく身動きもできなかった。
「パット……」
 ロイがもう一度ためらうように髪に触れるのを感じ、彼女はやおら振り向くと、その手をピシリと払いのけた。彼はさっと手を引っ込め、一歩後ずさった。
 ロイのシャツもズボンも乱れて皺くちゃだった。さっきまでの情熱を瞳にくすぶらせたまま、緊張した堅い表情で自分をじっと見つめている。
 パトリシアは粉々になったプライドを、どうにかかき集めた。動いたはずみに乱れた衣服からあらわになった胸元を、シーツでしっかり覆うと、ロイに向かって震える声で言い放った。
「今すぐ、この部屋から出て行ってちょうだい!」
 目から涙があふれてきた。それを隠そうとベッドに突っ伏した彼女の背後で、ドアが静かに閉まる音がした。


*** ***


 ああ、畜生! なんて馬鹿な真似をしたんだ……、俺は……。

 ロイは思いつく限りの言葉で自分を罵りながら、そのままコンウェイ邸を飛び出した。
 やりきれない気持を持て余しながら、しばらくあてもなく歩き回った挙句、下町の裏通りに面した汚い酒場にふらりと足を踏み入れた。
 一目でそれとわかる移民風の男達が数人、奥の席で賭け事に興じていたが、夜更けの酒場はひっそりとしていた。
 バーカウンターに立ち、近寄ってくる商売女をうるさそうに追い払いつつ、明け方近くまで、ちびちびと酒を飲んで時間をつぶした。
 いっそ酔いつぶれたいと思ったが、今夜はとてもできそうにない。

 まだ薄暗い明け方、鉛のように重くなった頭を抱えてようやく下宿に戻ってみると、部屋のドアが半ば開いたままになっていた。
 ずっと点けっぱなしのランプの油がすでに尽きかけているのか、消えそうな灯りが小さく瞬いている。

「パトリシア?」
 嫌な予感がした。彼女の名を呼びながら、急いで寝室の扉を開く。

 だが、パトリシアの姿は、部屋から忽然と消え失せていた……。


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17/03/20