Chapter 8

page 1


 ロイが足音も荒く立ち去り、激しい音を立てて廊下に出るドアが閉まった後、コンウェイ邸は再び夜の静けさに包まれた。
 パトリシアはシーツを半ばむき出しになった体に巻きつけたまま、力尽きたようにじっと枕に顔を埋めていた。
 涙があふれてあふれて、どうにも止まらなかった。あまりにも多くのことが一度に重なり、心の許容範囲をとうに超えてしまったようだった。
 そして、どうやら泣きながら眠りに落ちたらしかった。


 突然、半ばむき出しの肩に手がかかり、乱暴にゆすり起こされた。はっとして目を開くと、誰か男が自分の上にかがみこんでいる。最初、ロイが帰ってきたのかと思った。だが、ぼんやりした意識の淵から浮かび上がり、目の焦点を男の顔に合わせた途端、全身が凍りつくような衝撃に襲われた。

 アーノルド!

 ランプの薄暗い光の中、パトリシアの全身を貫かんばかりの怒りをみなぎらせ、軽蔑しきった表情で立っていたのは、今この世で一番会いたくない相手、婚約者のアーノルド・ホイットリーだった。


「この……、あばずれ!」
 ぎょっとして身体を起こしかけた彼女の耳に、容赦ないののしりの声が打ちつけた。
 かかっていたシーツがずり落ち、衣服を乱したしどけない姿が露わになる。アーノルドが鋭く息を吸い込むのが聞こえた。もはや怒っているなどという生易しいものではない。彼は激怒している。

 なぜ、彼がこの部屋にいるのか、どうやって、ここを突き止めたのか、パトリシアにはまったくわからなかった。呆然として、顔にかかる乱れた黒髪を指でかき上げたとき、自分がさっきのままの乱れた姿でいることに気付く。慌ててシーツで首まで覆うと、精いっぱいの勇気をかき集め、怒り狂っているアーノルドを見上げた。
「服を直します。この部屋から出ていってちょうだい」
 ありがたいことに、何とか声が震えなかった。アーノルドは彼女を殴りつけるかのように片手を高く振り上げた。そのとき、背後から大きな咳払いが聞こえ、思い出したようにぶるぶる震える手をぐっと握り締めて下におろす。
 やって来たのは、アーノルド一人ではなかった。寝室の入り口付近に警官の帽子と制服をつけた男が立っていた。カンテラを手に、興味深そうに二人を見比べている。
「五分だけ時間をやる。きちんと服を直すんだ」
 彼は低い声でこう言い捨てると、憤然と肩をいからせたまま、男と一緒に寝室から出て行った。


 ああ、最悪の事態になってしまった。自分は今、どう対処すればいいのだろう?

 よい知恵も浮かばないまま、とにかく大急ぎでベッドから降りると、震える手で衣服を整える。ロイはまだ帰らない。こうなったら、その方がよかったと思う。
 まるで断頭台に上がる前のようだ。あの悲劇の女王メアリー・スチュアートやレディ・ジェーン・グレイも、きっとこんな気分だったに違いない。


 それでも精いっぱいの威厳と自尊心をかき集め、顔をしっかり上げて、パトリシアはロイの寝室から出て行った。居間をいらいらと歩き回っていたアーノルドが、さっと振り返る。いつもの気取りはかけらもなく、青い目がやけにぎらついて見えた。
 彼は足早に近付いてくると、抱擁するように見せかけて、抱きしめながらパトリシアの腕をもう一人の男に見えないように背中に捻り上げた。激痛が走り、思わず呻き声をあげる。だが、それすらも、彼の乱暴な口づけにかき消されてしまう。腕の痛みと冷たい唇の感触に、耐え切れなくなりそうだ。
 そう思ったとき、唐突に唇が離れた。氷のような視線でパトリシアを見下ろしながら、アーノルドはさも心配そうに声をかけてくる。

「大丈夫だったかい、ハニー? 君が屋敷からいなくなったと聞いて、僕も父も伯母達も、皆どんなに心配したことか。君がだまされて見知らぬ男に連れ去られたとわかったときは、心臓が止まりそうになったよ。とにかく無事でよかった。奴は、逃げたようだな。何、捕まえてやるさ。すぐに逮捕状が出るよう取り計らうつもりだよ。もう大丈夫だからね。さあ、帰ろう。歩けるかい?」
「何ですって? いったい何の話をしているの? とんでもないわ! それはどういう意味?」
 驚いて力いっぱい抗い、身をもぎ放そうとしたが、さらにきつく手首を掴まれてしまった。

「しぃ。この家の住人達が皆起きてしまう。君はまだ興奮していて、まともに考えることもできないんだ。自分が置かれている状況がわかっていないようだね。さあ落ち着いて。話は後でゆっくりすればいい。外に車を待たせてる。一緒に屋敷に帰るんだ、いい子だからね」

 優しい言葉とは裏腹に、彼女の肩を抱く手は力ずくで乱暴だった。無理やり引きずられるように戸口のほうに歩きながら、パトリシアは目を大きく見開いた。
「い、いやよ、絶対に帰らないわ、彼が言ってることは嘘よ、お願い、助けて……」
 必死で戸口にしがみつき、前を歩く警官にそう声をかけた途端、手を引き剥がされ、また背後できつく捻り上げられた。思わず悲鳴を上げる。
 だが喉から声が漏れた瞬間、アーノルドは彼女の口をさっと片手でふさぐと、それ以上有無を言わさず、彼女を引っ立てるようにカンテラを下げた警官の後ろから狭い階段をおり、コンウェイ邸の前で待っていた車に、彼女を力づくで押し込んだ。
 自分はすぐには入らず、案内してくれたらしいその警官と何やら話していたが、警官がうなずいて立ち去ってしまうと、ゆっくりとパトリシアの隣に乗り込んできた。
 車のドアが、静かな音を立てて閉まる。
「少しだけ、車を動かせ。数ブロックでいい」
 運転席にはいつもの運転手ではなく、大きな体躯の見知らぬ黒服の男が、座っていた。アーノルドの命令に黙って車を動かす。数ブロック先の路上に再び停まると、彼は男にハサウェイ邸の前で見張っているよう命じた。

 二人きりの車内に、ピンと張り詰めた沈黙が流れる。


「さて、パティ……」
 アーノルドの不気味なほど穏やかな声がかかり、パトリシアは思わず飛び上がりそうになった。
「屋敷中が、蜂の巣をつついたような騒ぎだったぞ。おかげで今夜は一睡もできなかった。それにしてもこの明け方近く、わざわざ居所を探し出してまで迎えに来てやったというのに、一言の礼もなしかい? いい加減こっちを向いたらどうだ」
 頑として横を向いたまま、車外の暗闇を見すえていた彼女のあごをぐいと掴むと、無理やり顔を自分のほうに向けさせた。
 触れられて全身が一層こわばった。その反応を楽しむように、彼は薄笑いを浮かべている。
「どんな気分だい? 結婚目前に迫った婚約者を裏切り、他の男に身をまかせたあげくに、その現場を捕まえられるっていうのは。聞かせてくれよ」
「………」
「そいつは、まだ若い弁護士だそうだな。名は何と言ったかい? そうそう、たしか、ロイド・クラインか」

 毒を含んだ皮肉な声が、舌なめずりするようにロイの名を告げたとき、パトリシアは目を閉じてしまった。


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/03/24