Chapter 8

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 まるで捕らえた獲物をじわじわと締め殺していく、鎌首をもたげた蛇のよう。パトリシアは凍りついたように、なおも無言のままじっとしていた。
「舌を失くしたのか? 返事をしたらどうなんだ !?」
 急に声を荒げ、あごを掴んでいた手を彼女の乱れて流れる黒髪の中に突っ込むと、息が鼻先にかかるほど顔を近づけてきた。険しく細められた青い目と引き結んだ唇が、闇に浮かんだ彼の表情を、いっそう酷薄なものにしている。ぞっとして顔を引こうとしたが、動くこともできない。

 ようやく、乾ききったパトリシアの唇から、かすれた声が漏れた。
「……どうやって、ここがわかったの?」
「聞いているのは、僕だ」
 ふいに、彼女の中に強い怒りがこみ上げて、怖れを凌駕した。瞳を挑戦的に煌かせながら、のしかかるように迫るアーノルドの身体を両手で押し戻す。

「少なくとも、あなたに悪いことをしたとは少しも思わないわ! お父さんに、そんなひどいことをして、最初にわたしを裏切ったのは、あなた達の方じゃないの。手を離してちょうだい、アーノルド。あなたなんか大嫌いよ。婚約なんて、もう我慢できないわ。絶対に結婚なんかするものですか!」

 身体が自由になったと思った瞬間、いきなり顔に拳が飛んできた。目の前で火花が散るほどの衝撃とともに頭がシートにかしぎ、頬に焼け付くような痛みを覚えた。唇がひりりと痛み、力いっぱい殴られたのだと思い至る。切れた唇を、手のひらで恐る恐るぬぐってみる。
「後悔しているとしおらしく謝って許しを請えば、多少手を緩めてやったかもしれないものを! この上まだ、僕を怒らせたいと見える。本当に馬鹿な女だよ」
「………」
「いつからだい?」
「え?」
「いつから、そいつとできていた? あのパーティから黙って抜けだした夜からか?」

 何て汚らわしい言葉だろう。パトリシアは、アーノルドの手から逃れ、何とか車の外に出ようと闇雲にもがき始めた。
 少しの間、激しく掴み合っていたが、やはり男の力には到底かなわなかった。やがて、アーノルドに背後から身体を組み敷かれ、両方の手首をひねり上げられてしまう。

「痛い! 痛いわ」
「いい加減にするんだ! この腕をへし折ってやってもいいくらいなんだぞ。僕だって、仮にも"いとこ"に、そこまで手荒な真似をしたくない。さあ、さっさと答えてもらおう。あの書類をいったいどうしたのか」
 これでもまだ、手荒な真似をし足りないとでも言うつもりだろうか。滑稽で笑い出したくなるほどだ。だが書類と聞いて、彼女はどきりとした。
「何の……ことかしら」
 もう息も絶え絶えだったが、この問いに答えることはできなかった。ロイにまで何かあったら、と思うとぞっとする。
 手首を締めつけるアーノルドの手にさらに力が加わった。骨が折れるかと思うほど締め上げられ、悲鳴を上げて、とうとうすすり泣きを漏らしてしまう。
「痛いわ……。お願いだから手を離して」
「なら、さっさと言うんだね」
 彼の手がようやく緩んだ。急き込んで命じられ、一瞬事実を打ち明けそうになったが、からくも思いとどまる。

「ここに来る途中、どこかに落としてしまったみたいで」
 アーノルドが激しく悪態をついた。切羽詰まったように彼女の腕を離すと再び顔をぐいと近付け、今度は囁くような猫撫で声になる。
「嘘をついても、誰のためにならないんだよ。お父さんに会いたくないのかい、パティ? それにそいつにも、まだ弁護士でいてもらいたいんだろう?」
「何ですって? あの人に何かするつもりなの?」
 声が震え、思わず瞳を大きく見開いた。アーノルドがにやりと唇をゆがめる。
「おやおや、そんなに心配なのかい? だがね、このまま行けば、そいつは間違いなく職を追われるよ。それどころか、監獄行きかもしれないな。君を誘惑した上誘拐までして、これだけ警察を大騒ぎさせたんだから」
「誘惑? 誘拐ですって? 誰が、誰を誘拐したっていうの?」
「ロイド・クラインだったね。そいつが、君を」
 パトリシアは馬鹿馬鹿しいと言うように、虚ろな笑い声を上げた。
「そんなこと、誰も信じるものですか。わたしが自分であの人に助けを求めたのよ。あなた達からね。そんな真似をしてごらんなさい。わたしが警察に行って、はっきり証言するわ」
「君は悪い男に騙されて、今完全に混乱してる。まともな判断ができない状態だと思われるだけだろうよ」
「アーノルド、まさか、本気じゃないでしょう?」
 押し寄せる不安が勝った。もう限界だった。彼女の口調には、疲労と今度こそ本物の恐怖がにじんでいた。
「もちろん本気さ。ただし……」
 アーノルドの唇に、もったいぶった微笑が浮かぶ。
「君が正直にあの書類のありかを言いさえすれば、ことを表ざたにしなくても済む。それに叔父さんのことで、昨日の僕らの会話を聞いていたんだろう? それならもう、君に隠しておく必要もないわけだからね」
「………」
「僕が連れて行ってあげるよ。叔父さんの居る所へ」
「ほ、本当?」
「ああ、本当だとも。あの書類は叔父さんの仕事の記録なんだ。他の奴が持っていても、何の意味もない。だが、僕らには必要なものだ」
 パトリシアは、がっくりとうなだれてしまった。
「ロイに……、渡したわ」
「それであいつは書類をどうしたんだ? 今どこにある? あの部屋か?」

「ミスター・ホイットリー!」
 そのとき黒服の男が、戻ってきて車のドアを強く叩いた。アーノルドが僅かに車のドアを開く。
「なんだ? 奴が帰ってきたのか?」
「暗くて年恰好まではわかりませんでしたが、男が一人コンウェイ邸に入っていったのは確かです」
「わかった」
 彼は再びパトリシアの顔を上げさせると、急き込んで問い詰めた。
「奴は今もそれを持っているんだな? 早く言うんだ!」
「そうよ、持って……いるわ」

 視界がついにぐらぐらと回り始めた。囁くような声で呟きながら、身体が暗い淵に飲み込まれるような感覚に襲われて、パトリシアは車のシートにガックリと身をもたせかけた。
 この悪夢から逃れるため、いっそ意識を失ってしまえたら、どんなにいいだろう。

 だが、アーノルドはさらに容赦しなかった。
 両手首を取られて、弱々しく再び目を開く。パトリシアが上げる抗議の声に耳も貸さず男に指図すると、細いがしっかりした紐で後手に、それから足首も縛ってしまった。紐がほどけないのを確かめ、彼は薄笑いを浮かべて、彼女の身体を座席の真ん中に押し戻した。
 そして、パトリシアの顔に覆いかぶさるようにして、震える唇に羽根のように軽いキスをする。
 もはや抵抗する気力も出なかった。

「悪いが鍵がかからないからね。また逃げ出されたら面倒なんだ。そのまま少しお休み。すぐ戻るよ」
「なんて……酷い人なの!」
 最後の力を振り絞って、はき捨てるように呟いたパトリシアの耳に、愉快そうな笑い声が響いた。
「僕を裏切ったあげく、一晩中市内を探し回らせた罰としては、この程度じゃまだ軽すぎるくらいだね。いい子で反省しておいで。さほど痛くはないはずだ。心配しなくてもすぐに戻るよ」

 こう言い残すと、アーノルドは男を伴って、再び夜明け前の闇の中に消えていった。


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17/03/29
この原稿を書いた当時の懐かしいあとがき → ダイアリー (章立ては今とは違っています)