Chapter 8

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 戻ってきたロイはしばらくの間、放心したように誰も居ない寝室の戸口に突っ立っていた。ようやく事態が飲み込めてくると、空っぽのベッドにのろのろと腰を下ろす。
 枕にもシーツにも彼女の眠った跡がくっきりと残っていたが、すでにぬくもりは消えていた。

 パット。出ていったんだな……。やはりチャンドラー邸に戻ったんだろうか。
 無茶なことを。今そんなことをすれば、何があるかわからないのに。

 だが……、と、ロイの口から大きなため息が漏れる。

 ここにいても危険なのは同じだ、と思ったかもしれない。そう、違う意味で。

 彼は思わず両手で顔を覆ってしまった。さっきまで飲んでいた安アルコールのせいで、頭が重くなっていて思考もかなり鈍っている。だが、しらふでいてさえ、あれほど取り返しのつかない真似をしてしまうとは。

 パット!
 必死で俺を頼ってきたんだろうに。結局俺は、身勝手な感情を爆発させて彼女を傷つけたあげく、また危険の中に追い返してしまっただけだ。
 いくら後悔しても、もう遅いのか……。


 そのとき、廊下に出る扉が開く鈍い音が聞こえた。ロイははじかれたように立ち上がると、寝室から居間に飛び出していった。
「パット! よかった、心配して……」
 だが戸口に姿を現した二人の男を見るなり、言葉は舌先で凍り付いてしまう。

 アーノルド・ホイットリー! 何てことだ!

 しまった! という思いが、瞬時にロイの頭を駆け巡った。
 この男、ついにここまでかぎつけてきたのか。いったいどうやって?
 そこでウェスコット事務所を訪ねてきたあの運転手のことが脳裏に閃いた。酔いも一気に吹き飛んでしまう。
 ぎりっと歯を食いしばり、アーノルドからその背後に立って油断のない目つきでこちらを眺めている黒服の男へ、もう一度視線を走らせた。

 一方、アーノルドはいかにも不愉快極まると言わんばかりの、軽蔑しきった表情を浮かべて中に入ってくると、しばらくの間、部屋をじろじろ眺め回していた。二人はランプの明かりの中でしばし睨み合った。

「貴様がロイド・クラインか……。なるほど、思い出したぞ。パティが一度、チャンドラー邸に連れてきたことがあったな。あのときの無礼極まりない男だ」
 それから再び、わざとらしく部屋を見渡して、馬鹿にするように鼻先で笑った。
「やれやれ。こんな所に住むような男のどこがいいのか、パティの神経を疑うね」
 挑発には取り合わず、ロイは感情を押し殺した声で尋ねた。
「ホイットリー、彼女をどうした?」
「パトリシアかい? 彼女のことでは、君に山ほど礼を言いたいと思っていたところだ。今夜はまた随分と、世話になったようだからね」
「………」
「身に覚えがないと、言うつもりかな?」

 さらに緊張したロイの前を幾度か往復しながら、アーノルドが指で何か合図を送った。途端に、両肩に背後から腕が回され、身動きが取れないように、がっちりと押さえ込まれてしまう。
「何をする!」
 パトリシアを気遣うあまり、もう一人の動きに気付かなかった。いつの間にか背後に回っていた男の腕を振りほどこうともがきながら、大声を上げる。途端に喉元に鋭利なナイフの冷たい感触があたった。
 ぴたりと動きを止めたロイの首筋に、さっと痛みが走った。そこから血が流れ出すのを感じ、彼は目を細めた。
 アーノルドが目の前でにやにや笑っている。
「動くなよ。知っていたかい? 昔、開拓時代には、姦通した者は見せしめに『Adultery』の『A』を緋色の文字で書いて首に下げさせ、さらし者にしたそうだ。どうだい? このナイフで君の首にそう刻んでやろうか?」
「……このげすの変態野郎!」
 ロイが低い声で毒づくと、たちまち顔面に固めた拳が飛んできた。この優男のどこにこんな力があったのか、思わず頭がのけぞった。アーノルドは怒りに任せて、ロイの顔といわず腹といわず、手当たり次第に殴り蹴りつけてくる。

「何、こんなもの、たいした傷にもならないさ。だいたい彼女のことより、自分の心配をすべきだと思うがね。後で警察を呼んでやるから安心したまえ。もっとも行くのは病院ではなく、留置場だろうが。この犯罪者め。また随分と、大口をたたくじゃないか」
 したたか殴られ、口の中も相当切れていた。血の味がする唾を床に吐き捨て、ロイはようやく顔を上げた。
「どういう意味だ? だいたい、彼女はもうお前とは……」
 言いかけるや、またもや腹を蹴りつけられた。アーノルドが不快そうに口元を歪めている。
「あくまでずうずうしく、しらを切るつもりかい? まあいい。留置場に入ってからでも、後悔する時間はたっぷりあるだろう。身の程もわきまえず、僕の婚約者に手を出すとは、はなはだしい愚行だったとね。余計なことをすればどうなるか、身をもって学ぶだろうよ。さて、時間がもったいない。パトリシアが君に渡したと言っていた例の書類、さっさと返してもらおうか」

 ふーっと一つ大きく息を吐き出すと、ロイは相手の顔をつくづくと眺めた。口調とは裏腹に、その目には濃い憎しみの色が浮かんでいる。あいにくこちらの手には武器は何もない。あるのはただ一つだけ……。

「例の書類? それは『例の』鉄道債不正取引の証拠書類のことか?」

 低い声で答えた途端、アーノルドと腕を押さえている背後の男が同時に、はっとしたように息を吸い込んだ。まとっていた落着きがたちまち剥がれ、目をむいて噛み付くように叫ぶ。

「な、何だと! 貴様、い、い、いったい何の話をしてるんだ?」
「しらばくれても無駄だぞ! 僕にはわかっている。ホイットリー一族がラトランド商会と結託して鉄道債の不正取引をし、莫大な利益をむさぼっていることはな! 『あの日』パトリシアから、ミスター・ニコルズ失踪の調査依頼を受けてから、ずっと調べ続けてきたんだ。あの書類はその結果を見事に裏付けてくれたよ。僕を逮捕させる? 面白い。それなら取り調べに対し、これまでの調査結果を洗いざらいぶちまけてやる。警察の反応はさぞ見ものだろうな!」


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17/04/01