Chapter 9

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 サラエボ事件が大きく新聞で報道された日から数日後の夕刻、トロント市から数マイル離れた人家もまばらな街道沿いの小さな宿屋の前で、一台の辻馬車が止まった。
 鞄と包みを下げた初老の男が、用心深く左右を見回し、誰もいないのを確認してから、難しい表情のまま馬車から降り立った。そして御者の男にチップを渡し、待っているように頼むとそっと中に入っていった。

「ミスター・ウェスコット! よく来てくださいましたわ」
 部屋のドアを小さく開いたパトリシアは、ウェスコット弁護士の姿を見るなり嬉しそうに目を輝かせ、中に招じ入れた。ロイは眠っていた。ベッドの傍らに空になったスープのボウルと皿が置かれている。弁護士はロイの顔を眺めて、やれやれと言わんばかりに大きくため息をついた。
 まだ顔や体や腕のあちこちがあざになっていたし、首筋の包帯の下にはナイフの傷があり、脳震盪を起こしていたせいで、本人は何も言わないが丸一日以上強い頭痛に悩まされたようだ。
「まだ頭が痛むと?」
「いいえ、それは納まったみたいです……。食事も摂ってくれていますし」
「それはよかった。だが……、見たところ今度はあなたの方が倒れそうだ。夜はきちんと部屋で休んでいますかな? 顔色が優れないようだが」
「……わたしは大丈夫です」
 そう首を振りながら、また辛そうにロイに目を向けたパトリシアを見て、弁護士は力づけるように彼女の肩をぽんぽんと叩いた。


 あの朝、倒れたロイを通りすがりの辻馬車にのせ、素早くトロントを離れてここにかつぎこんだ。この辺りならとりあえず大丈夫だろう。ところが、診せた医者からまで理由を詮索され、つまらぬ喧嘩に巻き込まれたのだと説明しなければならない始末だった。

「あの、この前お願いしたロイの着替えは……」
 これを、と膨らんだ鞄を彼女に差し出しながら、彼はロイを起こさないよう、小声で言った。
「とりあえず、こいつのロッカーにあった着替え類を鞄に詰め込んで来たんですがな。それからミス・ニコルズ、あなたのもだ。必要だろうと家内が言うもので。いや何、用意したのはわしの家内でね。あれの若い頃の服だから古いものだし、あなたの方が細いようだが、ま、ないよりはましでしょうからな」
 途端にパトリシアの表情がぱっと明るくなった。
「ええ、ええ、実を言うと、どうしようかと思っていたところだったんです。何から何までありがとうございます。本当になんてお礼を申し上げたらいいか」
「しかし、事態はさらにまずいことになって……、いやなに、こちらのことですが」
 こほんと咳払いをしたとき、ロイが目をしばたかせて身動きした。傍らの椅子に座る上司の姿を認めるなり、いきなりベッドから身体を起こそうとする。
「だめ。だめよ、急に動いちゃ」
 慌てて駆け寄り、シーツから出た裸の肩を押さえようとした彼女の手を、ロイはさっと振り払った。
「重症扱いはやめてくれ。もう大丈夫さ。こんなもの、もともとたいした傷じゃないんだ……」
 だが、そう言うそばからどこか痛んだのか、少し口元を歪めている。パトリシアは傷ついたようにうつむき、振り払われた手をそっとさすった。
 そんな二人を見比べながら、ウェスコット弁護士はやんわりと声をかけた。
「無理するな。かなりひどかったんだからな。体中打ち身だらけだし、首の切り傷も見かけより深いそうだ。侮ってはいかん。気分はどうだ?」
「ですから大丈夫ですよ。こんなふうに横になっているほどの怪我じゃ……。それよりホイット……」

 ロイが話を切り出そうとするや、弁護士は後ろを向いているパトリシアをちらりと眺め、目で話を止めさせた。そして、帽子を被り直して立ち上がった。
「外に馬車を待たせとるんでな。今日はこれで帰るよ。話はまた明日にでもしよう。とりあえず、ゆっくり休んで早く傷を治すんだ。いいかね、二人とも。ここから出るなよ」
 部屋を出る間際、弁護士は思い出したように振り返ると、茶目っ気たっぷりにこう付け加えた。
「言っておくがここの払いは、お前の給料の『つけ』だからな。事務所に復帰したら、思う存分こき使ってやるから覚悟しておけよ」
「もう二度と、頂く仕事にけちは付けないつもりです」
 ロイは、神妙にうなずいた。


 二人きりになると、部屋に再び気まずい沈黙が漂った。
 ベッド脇のテーブルを片付けて、持って来た水差しの盆を置くと、パトリシアはその沈黙を破るようにおずおずと問いかけた。
「ど、どこか痛む? お薬を……」
「いや、いいよ。それよりこの部屋で気がついたときから、ずっと気になっていたんだけどね、パトリシア」
 彼女をじっと見ていたロイが、苛立ちを隠さずに言う。
「どうしてそんな目で僕を見るんだい? 何か言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいだろう? おまけに腫れ物に触るような態度は止めてくれないか」
「でも、あなたはひどい怪我をしてるのよ。それもわたしが……、あなたのところに行ったばかりに、こんなことになってしまって……」
 今までずっと彼女の心を苛んでいた自責の念が、とうとう溢れ出し、すすり泣くような声になった。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、ロイ……。わたしのせいだわ」
「よせよ。どうして君が謝るんだ? 君だって……」
 わざとぶっきらぼうに答えながら、彼女の頬にまだ小さく残るアーノルドの乱暴の痕跡に目をやり、小声で悪態をついた。
「その青いあざを見るたびに腹の中が煮えくり返って仕方がないよ。あのげす野郎の顔を、もっとめちゃめちゃになるまで殴ってやるんだった」
「アーノルドを殴ったの? あなたが?」
「忘れたかい? これでも昔、サマセット村では一、二を争うガキ大将だったんだぜ。そう一方的に殴られてばかりいるわけないだろ? 確かにこっちもかなりやられたが、あいつの方だって、相当ダメージを受けたはずさ。向こうは二人いた分優勢だっただけだ。一対一なら、あんなくそ野郎に……」
「まぁ、ミスター・クライン! 本当にお里が知れるわよ」
 パトリシアがとうとう声を立てて笑い始めたので、ロイの表情もようやく和んだ。
「そうさ、君は笑っていなくちゃ……」
 インクを溶かしたような青い瞳が、優しくパトリシアに注がれる。
「僕の記憶の中にいる君は、たいてい生き生きと笑ってるか、怒ってるか、どちらかなんだ。そう、怒っていても、文句言っていてもいいさ。だけど、泣かないでくれ。泣いちゃいけないよ」
「ロイ……ったら……」
「ほら、まただよ」

 やんわりととがめるように微笑む、魅力的なカーブを描いたロイの口元を見たとき、パトリシアはほとんど衝動的にベッドの脇にひざまずいた。

 次の瞬間、彼女はロイの唇に夢中で自分の唇を重ねていた。


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17/04/20
急に更新をお休みして、すみませんでした。
またできるだけ頑張ります〜。