〜ある夜明け前 第二部序章〜


 もうクリスマスも近いというのに、今年はあまり雪が降らなかった。
 冬の曇り空の下、枯れ野原と化した丘陵地から夏の陽気さは跡形もなく消えうせ、常緑樹の森はいっそう黒々と、北の大地に影を落としている。
 ぬくぬくと温まった居心地良い居間の暖炉に薪を数本足してから、デイジー・ミラーは椅子に戻ると再び縫い物を取り上げた。村の衣料品店で見つけた、かなり値は張るが暖かい高級ウールの服地。彼女は今これで父と兄とそれからもう一人、長いこと心密かに憧れていた『彼』のために紳士物のベストを仕立てていた。
 川近くに住むオーランド・クラインの長男で、島を出てトロントの大学に行ったロイドが、今年は例年より二週間早く帰ってきている。今年こそは念願のクリスマスの贈り物を渡せるかもしれない。あとは最後の仕上げを残すのみだ。
 もっとも彼の家では今、到底クリスマスどころではないだろうけれど……。

*** ***

 この冬、クラインの家はまるで天罰でも蒙ったかのように立て続けの不幸に見舞われていた。
 先にまだ十七歳になったばかりだったエイミーがチフスで花の命を散らせたばかり。にもかかわらずその悪魔の病は、犠牲者が一人では足りないと言わんばかりに、父親のオーランドにも襲い掛かった。熟練した看護婦が呼ばれ、ロイもつききりで看護しているらしいが、容態は芳しくないそうだ。

 デイジーは目を上げ、華やかさはないが暖かい我が家の居間を見渡した。暖炉では薪がオレンジ色の炎を上げてはぜている。部屋の一角に、先日兄が森から切り出してきた樅の木がデコレートされて、まだ完成とは言えないまでもクリスマスの彩りを添えていた。玄関には紅い実をつけたヒイラギの枝を編んで作ったリースを飾り、クリスマスプディングの仕込みも上々。七面鳥は羽をむしられ料理されんばかりになって台所の梁につるされている。
 昼の時間が短いこの季節、窓の外はもう薄暗くなりつつあった。凍えるような寒気が来ているようだ。雪になるのかも知れない。

 それにしても……。
 彼女は思わず大きなため息をついた。本当になんて気の毒なことだろう……。


 十六歳でノヴァスコシアの学校に行ったロイド・クラインが、毎年休暇で村に帰るたびに、密かに胸をときめかせてきた。村の小学校でクラスメートとして共に机を並べて学んでいた頃から、彼は多くの少女達の間で何かと噂になっていた。
 自分も、あの快活なブルーの瞳に見つめてもらいたくて、わざと彼の前を歩いたり、少し遠いにもかかわらず、彼が居るマジソン食料品店まで足を延ばしては、ジャガイモの大袋の配達を頼んだりしたものだった。
 もともと年齢よりしっかりしていてとても頭のよかった彼は、ある年の夏が終わる頃、成功を約束されたような運のよさでこの田舎村を離れ街に出て行ってしまった。以来、年毎に洗練された都会の青年に変っていく。そんな彼をただ眺めているだけなのは悔しいけれど、どうにもしようがなかった。きっとトロントにお似合いの素敵な恋人が待っているのだろう。

 窓ガラスに映った自分の平凡な顔を眺めて、デイジーは思わず苦笑いした。自分の容姿でとりえと言えば、この豊かな金髪と色艶の良い肌くらいのものだ。
 もちろん彼女も人並みに、村の男達から求愛を受ける歳になっていた。まるでどこかの詩集から名前だけ変えて引き写してきたような詩を贈られたり、たどたどしい愛の告白を受けたことなら一度ならずある。
 だが、その相手がどれもまるで趣味に合わなかった。野良仕事の作業着から無理やり着替えてきたようなスーツに、無教養丸出しの言葉使いときては、たとえ真紅のバラを一ダース捧げられても興冷めするというものだ。

 そのとき、母親が祈りの言葉を唱え十字を切りながら居間に入ってきた。
 デイジーは慌てて母を振り返った。
「母さん! それってもしかして……」
「ああ、そうなのさ」
 母は陰気な声を出した。
「オーランド・クラインが数時間前にとうとう亡くなったそうだよ。まだそんな歳でもないのにねえ。たった今知らせが来たところさ」
「まあ、お気の毒に……。それでロイは? ミセス・クラインも……」
 取って付けたようにクライン夫人の名を付け足したことに気付いたふうもなく、母親は炉辺に近付き炎に手をかざした。
「そりゃネッタは、大した嘆きようだとさ。まぁ無理もないね、ひと月で立て続けに二人ときては。あたしだって気が変になるだろうよ」
「……そう、お葬式は……明日よね」
「午後さ。村の主だった者が集まるだろうよ。また喪服を出さなくちゃ。お前も行くだろう?」
「もちろんよ」
 仕上がったばかりのロイのベストを籠の中に押し込みながら答える。ああ、やっぱり今年は渡せないわ。デイジーは立ち上がって十字を切った。
「また、ぞろ喪服の品評会になるかもしれないね」
 ミラー夫人は辛らつに続けた。
「ジョアン・ワーナーときたら、この前仕立てたばかりの喪服を早く見せびらかしたくてしかたないみたいだったしね。わざわざケベックから取り寄せた絹地で作ったんだとさ。この寒いのに無理にも着てくるだろうよ。ふん、風邪でも引けばいい気味さ。まったく喪服なんぞ黒けりゃ絹だろうがウールだろうが交ぜ織りだろうが、果たす役割は一緒じゃないかね。死者なんかそっちのけで、不謹慎極まりない話だよ」
「………」
 延々と続く繰言を聞き流しているうちに、父と兄も外から戻ってきた。たとえ喪服の生地は二流でも、家族がそろってクリスマスを迎えられることこそ、何よりの幸せというものだ。
 デイジーは夕食の支度をしようと、そっと台所に立って行った。

*** ***

 それはプリンスエドワード島の州都シャーロットタウンに近いサマセット村の、ある冬の出来事だった……。

 ひときわ寒い冬至の前日、森近くの小さな家から、また一つの魂が神の御許に召されていった。あの日、チフスという恐ろしい病がふいにこの田舎家に襲いかかったときから、この悲しみの夜はすでに予定されていたのだろうか。
 先にまだ咲き初めた花のようだった妹が、そして今目の前で父親が、この世に別れを告げて逝ってしまった。
 妹の容態急変の知らせに、大学の試験も放り出してトロントから駆けつけたロイだったが、結局妹の葬儀には間に合わなかった。そしてその日以来ずっと家に留まって、母を助け父の看護に当たってきた。
 そんな息子の懸命の励ましの甲斐もなく、今まるでろうそくの炎を吹き消すように父もまた、この世を去ってしまった……。

 残されたロイは、悲嘆にくれて倒れそうな母親を支えながら葬儀に臨み、どうしようもなく沈黙していた。
 彼にとって父親は、決して尊敬すべき対象ではなかった。教育の機会に恵まれなかったオーランド・クラインは、終生どこにでもいる田舎の農夫に過ぎなかった。時に酒を飲んで粗暴さをさらけ出し、ひどく扱いにくい厄介者に変ったりもした。
 そうした父を見るにつけ、自分はその轍を踏むまいと堅く誓わずにはいられなかった。この環境から這い出すためにこれまで懸命に頑張ってきたのだし、ついに念願かなってキング大学で法律を学び、目標に手が届こうとしている。

 だが……、これから一体どうなることか。

 ロイは懸命に沸き起こる深い悲しみ、そして無力感と闘っていた。
 それでもやはり父は父だった。棺に収まった物言わぬ痩せた顔を見つめながら、ロイはつくづくと思った。この喪失感を言葉にするのは難しい。このささやかな我が家さえ、今日はやけにがらんとして、広く冷たく感じられた。


 牧師が祈りをささげ、オルガンの葬送曲が流れる中を棺が墓地に運ばれていく。
 村の参列者達が厳粛な面持ちで見守る中、クライン家の主人の葬儀は、吐く息まで白く凍てつく午後、教会裏の墓地で執り行われた。先頃できたばかりのエイミーの墓の傍らに、新たに碑銘を刻んだ真新しい墓石が置かれると、お悔やみの言葉を述べながら、人々がゆっくりと立ち去っていく。
 牧師が涙にかき暮れるクライン夫人のために、祈祷室で祈りと慰めの言葉をかけていた。ロイ自身、半ば放心したように母を待っていると、ふいに背後から声がかかった。

「ロイ、大丈夫? あなたまで、まるで病人みたいよ。ひどく疲れてるのね。この度は本当にお気の毒でしたこと……」
 振り返ると、かつて村の小学校で共に学んだ仲間達が十人ほど、同情に満ちた表情で立っていた。その中の一人、金髪を黒い帽子の下につかねたデイジー・ミラーが、やおら決意したように話しかけてくると、こわばっていたロイの口元が少しだけほころんだ。
「やぁ、デイジー。この寒空に親父のために来てくれてありがとう。それにクレイグに、マイク、スージー、ああ、みんな……。僕をまだ覚えていてくれたんだな」
「もちろんよ、ロイド・クライン、あなたを忘れたりできるもんですか!」
 つい力いっぱいこう答えてしまってから、デイジーはしまったと言うように頬を染め、慌てて後ろに並んだ友人達を振り返った。
「他のみんなだってそうよ、ええ、もちろんですとも! あなたこそ、わたし達を覚えていてくれてとても嬉しいわ」

 まるでそれを合図にするように、一斉に近付いてきて口々にお悔やみや励ましの言葉を述べる古い友人達に、ロイは本当になぐさめられ力づけられた。彼と同じように大学や仕事で故郷を離れた者達も、クリスマスで家に帰ってきている。今サマセット村には、かつて一緒に釣りをし、駆け回った懐かしい顔ぶれが大勢そろっていた。


 そのときだった……。

 向こうの小道を急いでこちらにやって来る、黒い服の若い女が見えた。
 背筋をのばして早足で近付くすらりとした姿が目に入った途端、それまで微笑していたロイの顔から笑みがさっと消え、強い驚きの色が取って代わった。
 ロイが突然目を見開いたのを見て、デイジーも不思議そうにそちらに目を向けた。
 あら、あれは誰だったろう……。あんなお嬢さん、この村にいたかしら?
 そう思ったとき、若い女が顔を上げてまっすぐにロイを見た。数メートルを隔てて見つめ合う二人を見た途端、デイジーは訳のわからない痛みを覚え、思わず数歩あとずさった。
 友人の一人から思わせぶりに肩を叩かれ、怒ったように食って掛かる。

 クライン夫人が牧師に見送られて教会から出てくると、ロイは皆に別れを告げ、母親を中に挟んで三人で歩き出した。そんなロイと彼女を交互に見比べているうちに、ようやく気付く。

 ああ、彼女は森屋敷のパトリシア・ニコルズなんだわ……。

*** ***

 ロイとパトリシアは視線を絡ませ合ったまま、しばらくじっと動かなかった。
 やがて、パトリシアがそっとロイに近付いてきた。
「ああ、ロイ……、なんと言ったらいいのかしら……」
 彼女の態度は、五年という歳月を少しも感じさせなかった。その黒い瞳には涙が浮かんでいる。
「エイミーさんとお父様がお亡くなりになったそうね、あまりにも急な話だったから、聞いたときはとても信じられなかったわ。とるものもとりあえず来たのよ」
 ロイは目をしばたかせると、慌てて喉の奥に引っ込んでしまった声を再び引っ張り出した。
「パトリシア……、ど、どうして君がここに?」
「昨日、シャーロットタウンから着いたばかりなの。今年のクリスマスを家で過ごすために」
「……へぇ、そうなのか」
「あ、小母様!」
 ロイの母親がハンカチを目に押し当てながら、少しよろめくように教会から出てきた。黒いドレスのすそを翻し駆け寄っていくパトリシアの後姿に、ロイは場所柄も忘れ思わず目を奪われてしまった。
 その後、寄り添うようにして帰る間、パトリシアは母を慰め勇気付けるように、何度も優しい言葉をかけていた。


 自分より三つ歳下だから、彼女は今年十八のはず……。
 教会から家までの道すがら、ロイは横目でちらちらと彼女を窺いながら、再び黙りこくっていた。
 五年ぶりに目にした彼女の変貌に、ひどく戸惑っていたせいもある。今横を歩く女性は、かつて一緒に森を散歩したエプロンドレスのパットではなく、どう見ても良家の令嬢だった。ファーのついた上等の黒いコートとビロードの喪服もさることながら、その帽子の被り方、服の着こなし、立ち居振る舞い、声の抑揚、全てがあの十三の少女の頃とはまるで違っていた。
 大学でかなり世間慣れたと自負していた彼も、まるで初めて会う上流婦人を相手にするように、ただ戸惑っていた。
 彼の家に着いた後もパトリシアはすぐには帰らず、母が眠るまでベッドの傍らに付き添ってくれた。
 今朝片付けたばかりの居間で、ロイは炉辺にかがみこんで火種を掻き起こしていた。ようやく薪が赤々と燃え始めた頃、パトリシアが二階から降りてきた。

「小母様、やっとお休みになったわ。眠って少し落ち着かれるといいけれど……」
 ロイは彼女を見ながらぎこちなくうなずいた。
「疲れたでしょう? どうぞお座りください」
 馬鹿丁寧に言い過ぎた、と舌打ちしてから、さらに思い出したように椅子の背もたれの埃を手で払ってみる。
「まだ時間は大丈夫かい? 何もないけど、今熱いお茶でも……」
 思いがけない成り行きに、自分でも情けないほど慌てふためいていた。お茶の道具を探して戸棚をひっかき回していると、ふいにパトリシアがなつかしそうに声をあげた。
「ロイ、あなたのおうちって、昔とちっとも変らないのね。とてもほっとするわ。このキルトの敷物も覚えているわよ。エイミーさんがここに座って……」
「………」
「ごめんなさい、わたしったら……」
 ロイの手が突然止まったことに気付き、パトリシアは心底申し訳なさそうにしょんぼりした。
「いや……別に」
 その後二人は、またぎこちなく黙り込んでしまった。
 ようやくお茶を入れて彼女に差し出すと、自分も黙ってお茶をすすった。せっかく彼女と向き合っているのに、大学で貯えた気の効いた会話も何ひとつ浮かんでこない。
 やがてドアにノックがあった。森屋敷からの迎えだった。
「今夜はありがとう、色々と……、その、お陰で助かったよ」
 立ち上がった彼女にようやくコートを着せ掛けると、結い上げた黒髪からほんのり良い香りがした。思わず声がかすれる。
 パトリシアは身支度を整えると彼を見上げ、同情をこめてやわらかく微笑んだ。
「どうか、元気を出してちょうだいね」
 カンテラを下げた森屋敷の使用人と共に、彼女が暗い道を帰っていく。ロイを気遣うように、幾度も幾度も振り返りながら……。

*** ***

 二人の姿が見えなくなった後も、彼はしばらく家の前に佇んでいた。
 ふと、顔にふわりと冷たいものが当たった。見上げると、夜空から白い雪片がちらちらと舞い落ちてくる。

 本当に、遠くなってしまったんだな……。
 束の間、彼女と森を歩いた懐かしい少年の日が、彼の心をかすめた。
 それは、掌に舞い降りては消える一ひらの雪のように、儚く密やかな初恋の思い出……。

「メリー・クリスマス、パット」

 ロイは森屋敷のある方角に向かって、そっと呟いた。
 粉雪が全てを包み込むように、音もなく降り続いていた……。


〜 FIN 〜

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17/07/04
お待たせいたしました(でしょうか…)。
そろそろ、更新を再開いたしますね。
季節はずれ過ぎてますが、本作は夜明け前の過去番外編です。二部のサマセット村編の序章になります。
長文ですが、途中で切るのも何でしたので、全文一度に載せました。
二部は全体的にこういうトーンでして、一部に輪をかけて地味なんですが…、
引き続きお付き合い頂ければ、大感謝です。