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カンザス・シティ 医療センター

 夏の夕暮れの陽射しが、降ろしたブラインドを通して、白いシーツの上に影を落としていた。
 小さくノックして病室に入ってきたミリアムはベッドの傍らに立った。午後になってようやくカウボーイの一人から事件の話を聞き、とるものもとりあえず、牧場から車を飛ばして来たのだった。
 クリフは眠っていた。彼の端正な顔についた痣と、傷に貼られたガーゼを見て思わず唇を噛む。左肩の包帯が痛々しいほど白く見えた。いつも快活で陽気で、そして強い彼がこんなことになるとは信じられない。これもみんな、突然やって来たあの女のせいだ。悔しさと、嫉妬がミリアムの中でない交ぜになって、心が掻きむしられるようだった。だが、今度こそは彼もわかっただろう。そうしたら、少しばかり小言を言って、許してやればいい。
 そんなことを考えながらミリアムは微笑し、起こさないように気をつけて彼の唇に軽くキスすると、持ってきた手作りバイをベッド脇の棚に載せ、さっきまでジョーが座っていた鉄パイプの椅子に腰をおろした。黒人の牧童頭はミリアムが来たのを見て、煙草を吸いに外へ出てしまっていた。
 ふと、ベッドの足元に閉じたノートブックPCが置いてあるのに気付いた。不思議に思ったが、そのまま小半時、じっとその寝顔を見守っていた。やがてクリフが身動きして、目を開いた。枕元に立ち、顔を覗き込む。
「クリフ、大丈夫?」
 優しい問いかけに応えるように、彼の唇が「サマ」と動いた。またもや強いショックを受け、ミリアムは一歩後ずさると思わず早口でまくしたて始める。
「あなた馬鹿よ。だからわたしがあれほど言ったのに。忠告を聞かないからこんなひどいことになってしまったじゃない」半分泣いているような声になる。「もう懲りたでしょ? あんな人いなくなってよかったんだわ。あなたが結婚するって聞いてわたし……、本当にショックだったんだから」
 最後は、ささやくような声になる。
 二、三度瞬きをしてから、深いブルーの目がミリアムを捕らえた。彼女の言葉が耳に入ったのか、とっさに表情が曇る。だが、次の瞬間、彼は口元にいつもの優しい笑みを浮かべていた。
「やあ、ミリアム。随分心配かけたようだね。わざわざ来てくれたのかい?」
 陽気ないつもの調子に、ミリアムは内心安堵したが、わざとすねた顔をして見せた。
「そうよ、本当に心配したんだから。大体あなたは昔から、無茶する傾向にあったもの」
 そして次にまた口調を変え、優しく問い掛けた。
「何かして欲しいこと、ある?」
「ベッドを起こしてくれないかな。そこにボタンがあるんだが」
「まあ、駄目よ、おとなしく横になっていないと」
「もう大丈夫さ。頼むよ」 
 その静かだが有無を言わせない口調に仕方なく、言われた通りにボタンを押すと、寝台の上半分だけが持ち上がり、彼はベッドにもたれて座るような姿勢になった。
 クリフは正面の壁にかかる時計に目を向けた。午後五時前だ。一日があっという間に過ぎてしまう。手術後半日以上ゆっくり寝ていたおかげで、幾分肩の痛みも薄らいでいるようだ。それとも痛み止めの効果かもしれない。左腕は動かないように完全に固定されてしまっていた。これは数日で治るような怪我ではない。だが幸い、足ときき腕は何ともないのだ。明日には、どうにかしなければ。彼は無事な方の右腕をゆっくり回してみた。
 その時、ノックがあった。今朝事情を聞きに来たブラッドレー保安官が、グレーの口髭を蓄えた顔に厳しい表情が浮かべて、再び顔を覗かせた。
「やあ、クリフォード、今朝よりは顔色がだいぶよくなったようだな」
「ええ、おかげさまで」彼は保安官に椅子を勧めてから、ミリアムに目を向ける。
「すまないが、コーヒーを3つ買ってきてくれるかい?」
 ミリアムがうなずいて出て行くと、クリフは保安官に向き直った。
「どうです? 何かわかりましたか?」
「わかったといえば、そうだな。君が言っていたMt−R牧場の取引先への脅迫については、確かにいくつかそういう事実が浮かんできている。もっとも相手も確たる証言をするのを拒んでいてね。大きな実害もないようだし、それだけで立件はできないな。君の件は傷害事件として取り扱うしかないが、あいにく唯一の証人はどこかに消えてしまっている」
 「マンハッタンのエンタープライズ・ホテルだと思います」 
 彼は唇を噛み締めた。
「そうはっきり言い切れるかね?」
「80パーセントは。さもなくば奴の本社ビルか、その外の系列ホテルだ」
「それでだ。実はNY市警にも、婦女略取事件として捜査協力を依頼したんだが……」
 保安官の顔に更に苦々しい表情が浮かんだ。顎に片手をやり、さすりはじめる。
「あの街ではそういう事件が日常茶飯事、実際掃いて捨てるほど起きている。彼らから見れば、処理すべき告発書が一枚増えたに過ぎないようだ。ただし、相手が相手だから、別の意味でいささかの関心は寄せていた。反トラスト法違反問題に関わる別件逮捕、ぐらいの可能性はあるかもしれんな」
 やはり、そんなところだろう。予想はしていたので、クリフも黙ってうなずいた。いたいけな子供達が大勢誘拐事件の被害に遭い、マスコミを動員し必死に捜索する両親の願いも空しく、幼い命を落としている街だ。サマンサの件は命に関わるような問題ではない。当然、先送りされるだろう。
「わかりました。それではやはり、僕が彼女を迎えに行くしかないようだ」
 折しも部屋に戻ってきたミリアムは、それを聞いたとたん、コーヒーの紙コップを載せたトレイを取り落とした。床に黒い液体が零れる。二人は驚いて声もなく彼を見つめた。



エンタープライズ・ホテル 53階 スイートルーム


 サマンサは饒舌にしゃべり続けるマットの話を聞き流しながら、お代わりのコーヒーを口に運んでいた。彼の話題は最近のビジネスのことに移っていた。彼女にはよく分からないホテル業界の話をあれこれ持ち出しながら、反応を見ているようだ。
「だから、君がこの書類にサインすることによって、マシューが僕のこれらの基盤を受け継ぐ可能性も出て来るわけだ。僕には他に子供はいない。僕としてもどうせなら、赤の他人よりは血を分けた息子に譲りたいと思うんだ。どうだい? 悪い話じゃあるまい?」
 彼は自分の長口上をこう締めくくった。うんざりしながら、サマンサは断固として首を横に振り続けた。
「何を言われてもお断りよ。あの子はわたしの大切な息子です。親権を手放してあきらめるつもりはないわ」
「別にあきらめろと言っているわけではない、としたら?」
 彼女の手を取ろうとするように、彼が腕を伸ばしてきたので、すかさず引っ込める。マットはおもしろそうに唇を歪めた。
「君も知っての通り、僕は今別居中の身だ。僕と君とマシューの3人で、一緒に暮らせばいい。僕は今は本社最上階のペントハウスに住んでいるが、君達のために郊外に家を買ってもいいとさえ思っている」
 サマンサは歯を食いしばった。四年前と同じ、甘い言葉の罠。二度もかかると思っているの?
「そんなことを望んでもいないわたしの意見は、聞き入れていただけるのかしら? だいいち別居中だってあなたが結婚してるという事実は、まったく変わらないわ。奥様がそれを知ったらどうなさるかしら。よくも堂々とそんな提案ができるものね。恥知らず! そんな人が父親だなんて、あの子に知らせると思っているの?」
「妻はフレッチャー家の出だ。離婚するつもりはないよ。だが一緒に暮らして楽しい相手という訳でもないからね」
「まったく最低な人ね、マット。それでしばらくして、あなたがその『パパママごっこ』に飽きた時には、またわたし達をほおり出すわけ? 次は何万ドルの小切手付き?」
「今度はそんなことにはならないさ、息子がいる」
 マットの目が光ったような気がした。ふいに立ち上がると、まるで獲物を追いつめるのを楽しむ黒い獣のような緩慢な動作で、一歩足を踏み出した。
「奴と寝たんだろう? よかったかい?」
 唇の端に皮肉な薄笑いを浮かべ、身構えるサマンサに近付いた。
「さあ、もうそろそろお遊びはおしまいだ。君はかつて僕のものだった。今もすぐにそうなる。そうしたら君も、どちらがいいかすぐにわかるさ」 
 彼が何をするつもりなのか、すぐに分かった。彼女は弾かれたように椅子から立ち上がり後ずさる。身体が背後のテレビ台にぶつかり、テレビの横においてある薔薇をアレンジしたガラスの大きな花瓶が揺れる。とっさにそれを取り上げた。
「ほう、おもしろい。それで何をするつもりだい?」
 マットは猫なで声でこう言いながら、目を細めて近付いてくる。
「あなたなんか大嫌いよ! わたしに触らないで!」
 鋭く声を上げる。身体がどうしようもなく震え始める。じりじりと歩み寄るマットに向かって、夢中で力一杯花瓶を投げつけたが、難なくかわされてしまった。繊細な花瓶はテーブルに当たって砕け、ガラスの破片と長い茎の薔薇、そして水の雫が美しい絨毯に飛び散った。
 マットは怒ったように目を細め素早く彼女の前に立つと、華奢な手首を締め上げ引き寄せた。だが掴まれた手を振りほどこうと、夢中で力いっぱい向うずねを蹴飛ばしたので、彼の口から思わずうめき声が漏れた。サマンサは何とか手を振りほどこうと闇雲にもがいた。
「この山猫め!」
 マットが怒って、今度は彼女の肩をわし掴みにしてぐいと押し、そのまま壁に押しつけた。サマンサの喉から押し殺した悲鳴が漏れる。必死の抵抗も空しく、のけぞった白い首筋に彼の唇が押し当てられ、大きな手が身体を探るように這い回りはじめた……。


 ふいに、部屋の内線電話が鳴り響いた。マットがぎくりとしたように顔を上げ、一瞬ためらうように押さえつけていた彼女を眺める。サマンサの顔は真っ青で、激しく息を喘がせていた。彼はゆっくりと身体を離すと、電話に近付き受話器を取り上げた。
「何だ? 今日は連絡を入れるなと言っておいたはずだぞ」
「誠に申し訳ありません。奥様から緊急のご用件で」
「……代われ」
 しぶしぶ、受話器を持ち替える。すぐに電話が切り替わり、ダイアンの無邪気そうな声が聞こえてきた。
「あなた、今日はお仕事お休みなんですって? 今そちらで何をしていらっしゃるの?」
「そんなことを誰から聞いた?」
「あら、さっき秘書のお嬢さんが教えてくれたわよ。携帯にもつながらないし、随分あちこち探したわ。あなた今日これから、モントクレヤーまで帰っていらっしゃることはできないかしら?」
「それは悪かったな。だが、今ちょっと手が離せないんだ。無理だな」
「あら、そう」ダイアンは勝ち誇った声を出した。「いいわ。それじゃ、わたしの方からトニーの件、弁護士に頼んで勝手に進めさせてもらうわよ。トニーも今ここに来ているの。いい機会だから、例の養子手続きの書類をつくらせようと思って」
「何だって?」マットは小声で悪態をついた。「その件に関しては、まだ考慮中だと言っただろう!」
「いったい何を考えることがあるのかしら?」
 ダイアンの口調が、わずかに変わったような気がした。おかしい。突然こんなことを言い出すとは。厳重に注意していたのだが、こちらの思惑を何か感づきでもしたのだろうか?
「……わかった。今からそっちへ行く。いいか、書類はまだそのままにしておくんだぞ。勝手な真似をしたら承知しないからな」
 最後は脅すようにそう言って受話器を叩き付けると、苦い表情でサマンサに目を向けた。彼女はマットの位置から一番遠い壁際にぴたりと身体を張り付かせ、その手には、隅の簡易キッチンからどうにか探し出した、小さな果物ナイフがしっかりと握られていた。彼は目茶苦茶になったスイートを苦々しく見渡し、再び彼女を眺めた。
「安心したまえ。今夜のところ君は無事だ。とりあえず、この部屋を片づけさせよう。ただし逃げようなどとは思うんじゃないぞ。明日の夜、また来る。それまで僕の提案をじっくりと考えてみることだ。いい返事を期待している」
 そう言い捨てると、彼は荒々しく部屋を出て行った。サマンサは身体の力が抜け、思わずその場にへなへなと膝を突いた。