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 男は三人の前につかつかと歩み寄ってきた。

 二人の間のただならぬ雰囲気に、周りも気付いているかもしれない。クリフが怪訝な顔で自分を注視しているのが感じられたが、今のサマンサには そちらに注意を向ける心のゆとりなど到底なかった。
 マット・エイモス・マロリーは今、その傲慢な顔に紛れもない驚愕の色を浮かべて目の前に立っていた。彼は魅力的だが個性的な容貌の持ち主だった。まだ彼に会って胸が騒ぐという事実に愕然としながら、彼女は仕方なく相手を見上げた。豊かな黒髪と浅黒い肌、そして冷徹そのものの黒い眼差し。すべてあの頃と何一つ変わっていないように思われた。

 サマンサは彼から目をそらし、急にからからになった唇を舌先で湿らせた。先手必勝かもしれない。やや上ずり加減の声をどうにか喉から絞り出す。

「なんて奇遇だこと。本当にお久しぶりね、お元気?」
 男は最初の驚愕にショックが加わったという表情で、サマンサを上から下まで見た。そしてその腕の中でむずがって泣いている子供にゆっくり目を移す。しばらく子供をしげしげと眺めた後、最後に彼女から少し離れた所で、敵意を込めて自分を睨みつけているクリフに鋭い目を向けた。ようやく発せられた言葉は、淡々として冷やかだった。

「ああ、もちろん元気だ。君とまさかこんな所で会うとはな。で、そちらは君のご主人かな?」
「……ええ、そうよ。そんな話よりあなたの素敵なお連れの方が、恐い顔でこっちを見てるわ。もう行ったほうがいいんじゃないかしら? わたし達、今から帰る所だったの」

 こう言いながら 必死の思いでクリフに目で合図を送る。彼がわかったとばかりにサマンサの肩に腕を回し、外へ連れ出そうとするのを見て、男の目が険しくなった。
「今どこに住んでいるんだ?」
「そんなこと、どうでもいいでしょ。もう二度とお会いすることはないわ」
 クリフを促し行こうとするのを押しとどめ、男はなおも食い下がった。
「君は結婚したのかな?」
「そうよ、いけないかしら?」
 声に激しい敵意を込めて、懸命に応酬する。
「あなたは一体誰です?」
 クリフがサマンサを守ろうとするように、一歩彼女の前に出て 男を睨み付けながら鋭く問い掛けた。
「なぜこんなふうに彼女を困らせるんだ」

 男は敵意を込めた視線でクリフをねめつけた。クリフも男を冷ややかに見返す。二人の間に一気触発の雰囲気が漂った。その時、サマンサがクリフの腕を強く引っ張った。
「いいのよ、行きましょう」
 子供を抱いて今度はさっさと後も見ずに歩き出す。
 周りの客達の注目を一身に浴びていたことに気付き、顔を赤らめながらサマンサはいそいそと車の助手席に乗り込んだ。
 彼はまだ自分たちを見ているのだろうか。


「あいつは誰だい?」
 運転席のシートベルトを締めながら、クリフが問いかけた。低い声に抑えられた苛立ちを感じる。
「君がこんなに動揺するなんて……」
 サマンサがシートにぐったりともたれかかり、激しく身を震わせるのを見ながら眉をひそめる。
「マット・エイモス・マロリーよ」
 彼女の呟くような声を聞いて、クリフは驚いてこちらをじっと見つめた。
「あの有名なコンチネンタル・エンタープライズ社長の、かい?」
「お願い。早く出してちょうだい、クリフ」

 彼女があえぐように言うのを聞いて、クリフは舌打ちするとエンジンをかけアクセルをぐっと踏み込んだ。
 サマンサのアパートまでわずか三十分足らずのドライブだったが、二人とも異常なまでに黙りこくっていた。クリフは質問したいことが次から次へ沸いてくるのを押し戻しつつ、どうにか運転に集中しようとした。

 ようやく彼女のフラットに到着した。一人でいいと言う彼女を無視して、クリフはその手から眠ってしまった子供を抱き取ると、先に立ってドアの鍵を開けた。

 そのまま子供部屋まで歩いていき、小さなベッドにマシューを寝かしつける。階段を下りてくると、サマンサはリビングのソファーにぼんやりと座り込んでいた。前かがみになって手で額を覆っている。
 クリフはポケットに手を突っ込んで、そんな彼女をまるで初めて見るかのように眺めていた。

 しばらく経ってようやく声をかける。
「コーヒーでもどうだい?」 
 赤い髪がびくっとしたように揺れ、顔を上げる。その激しいショックに動揺した表情を見て、彼は胸が突かれる思いがした。

「僕がいれるよ。君は座っていたらいい」
 十分後、湯気の立つマグカップを二つ持って、彼はキッチンから戻ってきた。サマンサの隣に腰をおろすと、目の前にカップを差し出す。

「あいつは誰だ?」
 彼はもう一度同じ質問を繰り返した。答えを聞くまでは帰らないつもりだった。
「コンチネンタル・エンタープライズの社長が、一体君とどういう関係があるんだ?」

 サマンサは一瞬身を震わせただけで、すぐには答えなかった。
 ゆっくりとカップに手を伸ばし、やけそうに熱いブラックコーヒーをすする。熱い液体が喉を通ると、ようやく少し気持が落ち着いてきた。

「驚いたでしょうね」
 彼女は自嘲ぎみに笑い声をもらした。
「わたしも驚いたわ」
「それにあいつも驚いていた。いやショックを受けていたと言った方がいいかな。それにしても……」

 クリフは考え込むようにコーヒーを口にした。
「君の即席夫には、事情を何も話してくれないのかい?」
 冗談めかした声でうながすと、彼女が力無く微笑むのがわかった。
「……あの人と、少しだけつきあったことがあるの、もうずっと以前ね」  ようやく、サマンサがかすれたひどく聞き取りにくい声で話し始めたので、クリフは一言も聞き漏らすまいとして、身を屈めなければならなかった。
「以前っていつのこと? 君達がカンザスに来る前なんだろう?」
「マシューが生まれる前のことよ」
 ためていた息をほっと掃き出し続ける。

「二十一の時だったわ。休暇ではじめてイギリスに旅行した時に出会ったの。彼も単なる旅行客だと思っていたわ。アメリカからの一人者の旅行客同士だと。ピカデリー広場で会ってすぐ意気投合して……」
 そう、あの日初めて彼に会ってわたしは彼に夢中になった。あの人は女を夢中にさせずには置かない人だった。だが、そんな彼の背後は虚偽で塗り固められていたのだ。サマンサは苦々しい思いで、長い間閉じ込めていた記憶をなぞり、反芻していた。
「夢のような三週間だったわ。そしてわたしは休暇が終わって帰ってきた。それだけよ」
「……で、あいつが、マシューの父親なのかい?」

 それは鋭い刃を秘めた質問だった。サマンサはビクッと肩を震わせて彼を見た。
 いつもは陽気で少しおどけた青い瞳も今は真剣そのもので、恐いほどだった。
「それはご想像にお任せするわ」
 軽くそう言って、空になったカップを片づけようと手を伸ばす。
 その手首をクリフが強く掴んだ。

「あいつが父親なんだな」

 彼の眼が、どんなささいな動きも見逃すまいとするように、じっと注がれている。問いかけが断定的な言い方になった。疑問が彼の中で次第に確信に変わっていった。
「痛いわ」
 サマンサの弱々しい抗議にもかかわらず、彼は手首を掴んだままその表情を食い入るように見つめている。
 いつもののんびりした穏やかなクリフからは想像もできないような、真実を探ろうとする心に鋭く切り込むような眼差しだった。目を閉じて青ざめた顔に、彼はしばらくじっと視線を注いでいたが、やがてゆっくりと手を離して立ち上がると、ドアに向かった。

「クリフ……」
 ためらうようなサマンサの声に、クリフは皮肉な笑顔を見せて振り返った。
「今日は疲れただろう? ゆっくりおやすみ、サマンサ」
 静かに扉が閉まる音がした……。



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