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ミズーリ州 カンザスシティ郊外 マウント・リバー牧場



 牧場の朝は、早い……。

 緑のじゅうたんを敷き詰めたような大地に、遅い夏の日差しが照りつけ始める頃、カウボーイ達はすでに起き出して、めいめい朝の仕事にかかっている。


 カンザス・シティからI−70を走ると、道路沿いの平原には、緑の牧場がいくつもあって、放牧地で牛や馬がのんびり草を食んでいるのが見える。その中の一つ、広い敷地を有するマウント・リバー牧場の現在の所有者は、オースティン家の当年三十二歳になるクリフォードだ。数年前に急死した父の跡を継ぎ、牧場経営を軌道に乗せている。荒くれカウボーイ達ですら、このボスには一目置いていた。
 その彼もようやく婚約し、今や結婚式が目前に迫っている。婚約者のサマンサ・バークスには、三歳になる男の子がいた。その子供の親権を巡って問題が起こり、それを解決すべく肩の怪我を押してまで、彼がニューヨークに飛んだのは、まだほんの半月ほど前のことだ。どうにかけりをつけて戻った途端、さすがのタフガイもダウンした。
 体力が回復しない間こそ事務所でおとなしくしていたものの、持ち前の気力体力で体調が戻りはじめるや、再び毎日現場に出ていくようになっていた。もちろん狙撃された左腕は、まだ使えるはずもないのだが……。


 マウント・リバー牧場に来てから数週間、ランチハウスで生活を共にしながら、そんなクリフを見てきたサマンサは、日ごとに彼をよく知るようになっていた。と同時に、はらはらしながらも、さじを投げたくなるような気さえし始めている。
 どんなに心配して注意しても頼んでも、その言葉がとろけるような微笑とキスに封じられておしまいでは、まったく埒も明かない。


◇◆◇


 そして日々はさらに過ぎ……。
 二人の結婚式まで、いよいよ数日にせまった、そんな週末のこと。


 やれることは何でもするつもりでいるサマンサは、決して喜んではいないクリフの黙認のもと、その朝も働くカウボーイ達のために、厨房でコックを手伝いながら、大量のベーコンエッグを作っていた。
 ふいに壁に掛かった電話が鳴る。
「ハロー、オースティンです」
 きびきびと取り上げると、受話器の向こうから、見知らぬ年配女性の柔らかい声が響いてきた。
「クリフなの? あら、よかった。まったくあなたを捕まえるのも、大変なんだから」
「ミスター・オースティンでしたら、ただ今牧場におられます。何か急な御用件でしょうか」
 丁寧なサマンサの答えに、一瞬沈黙がある。
「あら、ごめんなさい……。ミセス・グレイではないわね。それじゃ、もしかしてあなたが息子の婚約者という方かしら?」
 息子ですって!
 サマンサはとっさに手にした受話器をまじまじと見つめてしまった。ということは、この電話の婦人は……。
「あの……、クリフのお母様ですか?」
 気持の準備などあるはずもない。思わず声が高くなり、ごくりとつばを飲みこんで、受話器を持ち直した。とにかく落ち着いて挨拶しなくては。
「はじめまして。わたし、サマンサ・バークスと申します……」
「レニーよ。初めてお話しするわね。聞いたわ。夕べあの子から突然電話をもらったのよ。『結婚するから、来れそうなら来てくれ』だなんて言うから、本当に驚いてしまったわ。しかも孫ですって? まあまあ、あなた達……。それにしても来週とはまたずいぶん急な話ね。とにかくたった今、どうにかスケジュールの都合がついたから、必ず行くとクリフに伝えてちょうだい。これでも、結構苦労したのよ。ところで、あの子の怪我の具合はどうなの? まったくそんな事故に巻き込まれるなんて、恐ろしいこと。本当に何が起きるかわからないものね」

 ほとんど口を挟む隙もなかったような気がする。パニック寸前のサマンサには、自分がちゃんと返事をしたかどうかさえ、よくわからなかった。それでもクリフの母親はしばらく楽しそうに話し続け、来週はじめにシビル達と牧場に行くから、と言い残し、とにかく電話は切れた。

 来週はじめ……。誰と来るですって?

 それから約三十分後……。大勢のカウボーイ達と共に牧場から戻ったクリフが、ランチハウスに足を踏み入れた途端、サマンサは猛烈な勢いで彼を部屋まで引っ張っていった。



 シャワーを済ませ、ジーンズだけを身につけてバスルームから出てきたクリフは、サマンサの非難めいたブルーグレイの瞳を見て、尋ねるように眉を上げた。昨夜からのことを思い返してみたが、身に覚えがない。そのままベッドに腰を下ろし、くつろいで足を投げ出すとヘッドボードにもたれかかった。
 彼が惜しげもなくさらしている日焼けしたたくましい上半身をちらりと眺めたなり、彼女はまたふいと視線をそらしてしまった。

「どうしたんだい?」
 サマンサの動きを目で追いながら、不機嫌の理由を探るようにやんわりと問いかける。クローゼットの引き出しから交換用の新しい包帯を取り上げ、再びベッド脇に来ると、サマンサはようやく棘を含んだ声で切り出した。
「さっき、あなたのお母様からお電話があったわ」
「へえ、何だって?」
「来週の結婚式、シビルっていう方達と一緒にいらっしゃるって……」
「シビル達も来るって?」
「ええ、確かにそうおっしゃったわ。どうして、お母様やそのシビルさんという方のこと、もっと早く教えておいてくれなかったの? まったくなんてことかしら。あなたのご家族がどこにいらっしゃってどんなお名前か、さえ、わたしは今まで知らなかったんですからね」
 そんな大切なことを尋ねてみなかった自分にも、腹が立つやら情けないやらだ。彼は家族の話を口にしたことがなかったから、誰もいないと思い込んでいた。ぎゅっと唇を結んで、やや手荒く新しい包帯を巻き始める。
「シビルは姉だよ。みんなロスに住んでいるんだ。なるほど、君に話したことはなかったな。だからそんなにかっかしてるのかい?」
「かっかしてるんじゃなくて、驚いてるのよ! しかも、わたしには何も言わずに、さっさと一人で決めて連絡してしまうなんて!」
 腹立ち紛れに少しきつめに包帯を縛ったので、彼は顔をしかめた。いい気味だ。
「いや、今日話そうと思ってたんだ。君の方も……」
「ええ、どうせそうでしょうとも!」
 ブルーグレイの瞳に剣呑な光が明滅する。
「それにあなた、わたしとマシューのこと、お母様にどんなふうに説明したの?」
 クリフの唇が面白そうにゆがんだ。むっとして、さらに口を開きかけた途端、力強い右腕が腰に回され、気がつくとベッドの上に引っ張り上げられていた。たちまち彼の上半身にぴったりと抱き寄せられてしまう。
 彼の身体からは、シェービングローションと石鹸のさわやかな匂いがした。思わず、そのたくましい胸に顔を埋めたいという誘惑にかられてしまう。
 だめよ! これじゃ、いつもと同じじゃないの! さらに闘志を燃やして身体をひねってみるが、頭をあごでおさえられると身動きが取れなくなってしまった。頭の上から低い笑い声が聞こえてくる。
「けっこう怒りっぽいんだな。この赤い髪のせいかい? 別に、細かい説明なんて何もしないさ。ありのまま、事実を簡潔に話しただけだよ」
「事実?」
「そう。好きな人がいて、プロポーズしたら承諾してくれた。だから来週結婚する。お袋にも孫ができるってね。どこがいけない?」
 とっさに顔を上げて彼を見た。まっすぐ自分を見つめる青い瞳に、やや決まりが悪くなって目をそらす。思わず小さくため息をついた。
「お義母様やお義姉様に無理を言ってまで、そんなに急ぐ必要はないって言いたかったのよ。今となったら、たとえ十一月でも来年でも、もう全然構わないじゃない」
「おやおや、まだそんなこと言ってるのかい? まったく往生際が悪いな」
「………」
「夕べの君はそうは言ってなかったような気がするけどね。世間によく言うマリッジブルーかな? そんなもの、何ならここで今すぐ吹き飛ばしてあげるよ」
「そ、そうじゃなくて……」
 慌てて身体をしゃんと起こそうとする。動いた拍子にさっき左肩に巻いたばかりの包帯の白さが目に飛び込んできた。ゆっくりと一本の指でなぞってみる。
「だって、お義母様のご予定をキャンセルさせてまで。それにあなたのこの傷だって、まだ……」
 彼が撃たれた夜の、心臓を締め付けられるような恐怖が生々しくよみがえる。そのことに触れられるのは、とても辛かった。
「こいつが完治するまで僕が待ちきれると、まさか本気で思っちゃいないだろうね?」
「それに、寝室の改装だって、まだ始まったばかりよ」
「僕らがハネムーンから戻ってくる頃には、使えるようになっているさ」
「ハネムーン、ですって?」
「一週間くらいだよ、フロリダにね。マシューはミセス・グレイと娘さんが見てくれるそうだ。だめかな?」
 少し自信なげに微笑む彼の顔を、サマンサはただ驚いて見つめ返すばかりだった。怖くなるほどの幸福感が胸いっぱいに溢れてきて、とっさに言葉が出てこない。
「さあ、まだ文句があるかい? それとも君こそ、この期に及んで迷ってるのか? 結婚する前からもう、不便な牧場暮らしに嫌気が差したとか?」
 声に皮肉な調子が混じり、見下ろす瞳がわずかに翳った。彼女はニッコリ笑い、愛する人のうなじにそっと両手を回した。耳に唇を寄せて囁くように答える。
「まさか。その日が待ちきれないくらいよ」
 胸が彼の胸板にこすれ、クリフがさっと緊張するのを感じた。背中に回された腕にぐっと力がこもった瞬間、もう待てないというように、唇が熱く覆いかぶさってきた。むさぼるような激しいキスを交わしながら、やがて二人の身体はマットレスの上に倒れ込んでいった。


◇◆◇


 日曜日の午後、三人が外出から戻ってくると、ランチハウスの前に見慣れぬレンタカーが止まっているのが見えた。クリフが何ごとか呟きながら車を下り、先に中に入って行く。
 サマンサが、マシューと一緒にハウスに入った途端、陽気な声とともに握手の手が伸びてきた。
「ハロー、サマンサ。ようやく息子の嫁に会えて、とても嬉しいわ」
 白髪まじりの淡い金髪を上品に結い、ラフなパンツスーツ姿の五十代と見える婦人がサマンサの手を取って微笑んでいる。今着いたばかりという感じだ。驚きを押し隠して笑顔を浮かべた。
「ミセス・レニー・オースティンですか」
「レニーで構わないのよ。何だか来ると決まったら、さっさと来てしまったわ。ここも本当に久し振りですもの。愛想のない我が息子ときたら、こういうことでもない限り、なかなか連絡もよこさないんだから」
「挨拶は、もう済んだのかい?」
 クリフが階段を降りてきた。
「おや、噂をすれば。今、しているところよ」
「母さん、改めて紹介するよ。彼女がサマンサ・バークス。それから横の彼が母さんの孫になるマシュー」
 クリフのそつのない紹介に、そっと息子を促す。マシューがはにかむように挨拶したので、とりあえずほっとした。興味深そうな視線が、黒髪の男の子に注がれる。クリフがやれやれという表情で、母親を促した。
「話は後でゆっくりすればいいさ。まず部屋に案内するよ。いつもの部屋でいいだろう? 義兄さんは前日に来るんだって?」



 さすが、クリフのお母様だわ……。

 サマンサは初めて会った義母に、内心とても安堵するのを感じていた。だが、コーヒーとケーキを用意したワゴンを押して、皆がそろうリビングのフレンチドアまで来たとき、中から聞こえてきた声に、思わず立ちどまってしまう。
「……意外だったわ。わたしはてっきり、あなたはミリアムと結婚するとばかり思っていたんですもの」
「シビル」
「だって、考えてもごらんなさいよ。ミリアム・カーソンズならずっと家族同様の付き合いだったし、牧場の仕事にも我が家のことにも一番詳しいじゃないの。それにここと同じ規模の牧場の一人娘だし、何より……」
 かすかなため息の気配がした。少し間を置いて、さらにこう付け加える。
「確かにきれいな人だけど、あんなに線の細い人、本当にやっていけるかどうか。しかもシングルマザーとはね。そりゃ、わたしがとやかく言うことじゃないかも……」
「そのとおり、姉さんがとやかく言うことじゃないさ。今後は言葉に気をつけてくれ」
 穏やかだが断固としたクリフの言葉に、さすがのシビルも黙ったようだ。そのとき、レニーが遅れてやってきた。扉の脇に何やら緊張した面持ちでじっと立っている彼女を見て、怪訝な表情を浮かべたので、慌てて微笑を繕い、ワゴンを押して部屋に入っていった。
 義母の隣に座って、時折皮肉な表情を向けてくるシビルの視線を受け止めながら、サマンサは聞かれたことには答え、懸命に応対した。少しショックを受けたことを、クリフにも気取られたくなかったのだ。
 これくらい、わかっていたはずでしょう。しっかりしなくちゃ。
 それでも、気持がやや滅入ってしまった。本当にしようがない話だ……。


 こうしてサマンサと家政婦のミセス・グレイ、さらにレニー達が入って一層にぎやかに、式の準備と披露パーティの準備が整う中、ついに二人の式の当日を迎えた。



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05/01/13 更新

あとがきはBLOGにて……。

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