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「ミセス・バートラム、はじめまして! お噂はかねがね夫からお聞きしておりましたわ。こんな田舎まで、ようこそおいでくださいました」

 五月の晴れた日の午後、アシュバートン侯爵家の馬車がパトリッジ館に到着した。ローレルは派手ではないが侯爵夫人として恥ずかしくないドレスを選んで待っていた。いそいそと出迎え、御者台に座るホッジズを懐かしく見上げたが、馬車から笑顔で降りてきたのは、人柄の温かみを感じさせる中年女性一人だけだった。
 ローレルの手紙を読んで、ミセス・バートラムがついに来てくれたのだ。だが、待ちに待っていた夫はどうやら一緒ではないようだった。失望を隠して心からの笑顔で迎える。

「レディ・アシュバートン、ご挨拶がすっかり遅くなってしまい、申し訳ありませんでしたわ。ずっとお目にかかりたいと思っておりましたのよ。お噂どおり、すばらしいブルーベルの森ですね。保護のしがいがありそうですこと」
 暖かい笑顔でパトリッジ館に入ってきた彼女は、改めて差し出されたローレルの手をしっかり握り返しながら、暖かい青い瞳で彼女をじっと見つめた。
「実はあなたのご主人も一緒に来ておられるんですの。ただ、少し花を見ていくと言って、森で降りてしまわれましてね」
 その言葉を聞くなり、ローレルの心臓が壊れたかと思うほど早鐘を打ち始めた。やっと一呼吸置いて、恐る恐る問いかける。
「そ、そうでしたの……。どうしたのでしょう? 夫はもう、わたしに会いたくないとでも……?」
 表情を曇らせたローレルを見て、夫人は暖かく微笑んだ。
「あなたは、ご主人を愛しておられるのですね?」
「はい、もちろんですわ」
 当然とばかりに、すぐさま応えた彼女に、バートラム夫人が深いため息をついた。
「では、あのお馬鹿さんに、あなたの口から是非とも、そう伝えてあげてくださいな。あの方は、そんな誰の目にもわかることが信じられなくて、ここ数か月間、ずっと悩んでいらっしゃるんですからね」
「えっ? ですが彼は……、わたしのことなど、もうとっくにうんざりしているか、忘れているんだと思いますわ……。ずっと迎えに来なかったのも、もうわたしに会いたくないからでは?」
「あらあら、本当に困りましたね。あの方ときたら、そんな初歩的なこともあなたに伝えていなかったのかしら、ますます救いがたいこと」
 ふーっと深いため息をついて、バートラム夫人は、窓から見えるかの古い森を振り返った。
「ここしばらくのジェフリーの落ち込み振りときたら、全く見ていられませんでしたのよ。アシュバートン家中の使用人達が、そろって奥様のお帰りを切にお待ちしていると伝えてほしい、と申しておりました。後は……、あなたが勇気を持って、ご自分で侯爵様に会って確かめて見ることですね」

 暖かく励まされ、ローレルは急に動きが鈍くなった足を必死に動かしながら厩に向かった。愛馬を引き出し、震える自分を叱咤しながらやっと跨ると、森に向かって一目散に駆けさせ始める。
 たった今、夫人から言われた言葉が、頭の中に繰り返し繰り返し響いていた。
 まさか、ジェフリー、そんなこと……、信じられない!


◇◆◇  ◇◆◇


 ローレルの古い森には、今年もブルーベルの花が一面に咲き誇っていた。
 去年、彼女と出会ってから丸一年……。

 これから一体どうすれば、彼女をこの手に取り戻せるのだろう。あるいは、もう手放すべきなのかもしれない。それがどんなに、心臓から血が流れるほどの痛みを伴うとしても……。


 ふーっと深いため息をついて、木漏れ日の空を見上げたときだった。彼の耳に駆け寄ってくる馬のひずめの音とともに、自分の名を呼ぶ声がきれぎれに聞こえ、はっと顔をそちらに振り向けた。
 森の中を金髪の乙女が馬で疾走してくるのが見える。
 ああ、これこそ彼女だ……。恋したあの日のままの……。
 一瞬、自分の中の時間が止まったような気がした。
 彼はまぶしそうに目を細めて、近づいてくるローレルの姿をじっと見守っていた。すぐ傍まで来ると、彼女は馬を止めて下り、こちらに向かって転びそうになりながら駆け寄ってきた。
 その姿は彼が一目で恋した、あのブルーベルの妖精そのものだった。一年前、果敢に彼の馬車を止めて、自分に食って掛かってきた出会いの瞬間が思い出され、彼の目から涙がこぼれそうになる。
 これは夢ではないのだろうか?
 だが、妖精はそのまま彼の腕の中にすっぽりと飛び込んできた。どんな夢でも、こんな様子は見たこともなかった。腕の中の妻の感触がまだ信じられないと言うように、きつく抱き締めたまま、侯爵は黙って彼女の顔を覗き込んだ。

「ジェフリー! ああ、ジェフリー、あなたに会いたかったわ。とっても会いたかった!」
  懐かしい夫のぬくもりを求めて、ローレルも夢中になって擦り寄っていった。でも、数か月ぶりの夫の目に浮かんでいる感情は一体何だろう? いけない、はしたなかったかもしれない。そう気付いて、急いで身体を離そうとしたが、彼は一層きつく抱きしめて離してくれなかった。
 そのまま、彼の唇がゆっくりと降りてきて、自分の唇に重なった。 飢えていたと言わんばかりに、無我夢中で唇を開かせ、激しく求めてくる彼の唇と舌の動きに精一杯応えながら、懐かしい彼の匂いと力強さに浸り、求められる喜びにしばし陶然となる。

「ジェフリー、あなたを愛しています」

 ようやく夫の唇が少しだけ離れたとき、ローレルは息をあえがせながら震える声で囁いた。囁くというより、口から自然に言葉がほとばしったようだった。彼の黒い瞳が心底驚いたように見開かれ、抱き締めていた両手が一層きつく身体に食い込んだ。
「それは……、君の本心なのか? 君がわたしを……、あんなにひどいことばかりしたわたしを……本当に愛してくれていると言うのか?」
 目を丸くして、信じられない、とばかりに幾度も呟いている夫に、幾度も頷き返しながら愛情をこめて抱き締め返す。
 そう、わたしはこの人を心から愛している。離れている間に、それだけは確かだとわかった。今、ようやく彼にそれを伝えられて、本当によかったと思う。

「ええ、わたしはあなたを愛しているわ。でもあなたにとって、この結婚が義務感からでしかないのなら、これ以上続けていく意味はないと思うの」
 そう続けた途端、彼が噛み付くように遮った。

「義務感からだって? 何てことを言うんだ、君は!」
「えっ?」
「わたしこそ、君に出会った瞬間から君に恋していたんだ。本当にわからなかったのか? 君を愛している。君に夢中なんだ、出会ってから今までずっと……。離れている間も、どんなに君に会いたかったか。君を連れ戻したかったか!」
「まさか!」

 今度は彼女がびっくりして目を見開く番だった。

「だが、君は結婚した後、見るからに元気がなくなっていった……。この土地のために無理やり、好きでもないわたしと結婚したと思っていたんだ。だからひずみが出てきたんだろうと思った。君が君らしさを取り戻すためには、ここに帰らせるしかないんだとね……。だが、君を手放すのは苦し過ぎた。だからスコットランドにでも行っているしかなかったんだ!」

 ローレルは、愛する夫の頬に手を当てて、彼の目をじっと見つめ返した。その切羽詰った表情が今の言葉が偽りではないと、はっきりと物語っている。
 力強い腕に再びしっかりと抱き締められながら、今、彼女のアメジスト色の瞳もその輝きを取り戻していた。
「それは違うわ……。そう、わたしも結婚生活を始めた頃は悩んだわ。自分があなたにふさわしくないと思えて。愛されていないと思っていたから、無理にそう思おうとしていたのかもしれない。でも、去年の春にあなたに出会った後では、もう何もかもが以前とは違っていたのよ。だって……」

 そう、あなたのこの腕の中こそ、わたしが一番憩っていたい場所なのだもの。他に行きたい場所など、どこにもあるはずがない。
 当たり一面に咲くブルーベルの花と豊かな緑の森、そして愛する夫を見つめ、ローレルは心から微笑んだ。

「あなたが、わたしの愛する森なの。あなたの愛さえあれば、わたしはどこででも咲けるわ」



〜 FIN 〜



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14/6/14 更新
これにて、一応完結とさせていただきます。
お付き合い、誠にありがとうございました〜!
あとがきは、ダイアリーにて。