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 まぁ、と言うように樹さんのお母さんが微笑み、会長に何か囁いている。当の本人は「参ったな」と言うように視線を泳がせた。
 ふいに、障子の向こうから低い声がした。
「会長、お時間でございます。経財連の会長様とのお約束が入っておりますが……」
「では、わしはこれで失礼しよう……」
 会長はうなずくと立ち上がった。
「隣室にて、ささやかな会席を設けております。お嬢さんとの具体的な話は、これの母親とゆっくりご相談いただく、ということで……」
 わ、わたしとの……? 何……?
 話がさっぱり見えずおろおろしていると、樹さんがやっと助け船を出してくれた。
「その前に、美里さんに少し庭を見せたいのですが……、少しの間、お嬢さんをお借りしてもよろしいですか?」

 うちの両親がものすごい勢いで首を縦に振った。お母さんも優しい顔で頷かれている。
 わたしは樹さんに引っ張られるようにして、その場から連れ出されてしまった。


*** *** ***



 庭に下りる踏み石の下に、きちんと草履と靴が揃えられた。
 何だか、急に遠い人になってしまったみたい……。先に立って歩く樹さんの背中を見ながら、身につまされる。

「……美里」
 母屋から少し離れた雅びな池の前で、樹さんが、やっと振り返った。ちょっと照れたようにわたしの全身を眺めてから、ポツリと言う。
「そんな顔するなよ……、って言っても無理だよな、やっぱり……」
 カラカラになった喉から、やっと返事を絞り出した。
「どうして……今まで何も教えてくれなかったの? 樹さん、それじゃ九重の……」
 御曹司様? ううん、若様? 
 そんな人に、今までずっと恋してた。なんて馬鹿なわたし……。

 彼は少しの間黙っていた。
「お前にも、そろそろ話そうとは思ってた……。けど、それでもし、お前の俺を見る目が変わったら、と思うと……、ちょっと怖くてさ」
 怖い? どうして?
 訳がわからないまま、じっと見つめ返した。わたしの前に来た彼が、そっと頬に手を触れたのでびくっとする。
 次の瞬間、わたしは彼にきつく抱き締められていた。

「美里……、会いたかった」
 襟足に顔を埋め、樹さんがくぐもった声でつぶやいた。息が止まりそうな中で、一生懸命に言葉を探す。
「わたしも……」
 途端に彼がさっと顔を上げた。怖い顔でわたしを睨みつける。
「ならどうしてあの晩、ずっと一緒にいなかったんだよ! 起きてみたらお前はいないし、おまけに……。なんだよ! あの『永遠の別れです』みたいな、頭に来るメールは!」
「あれは、その……」
 わたしは目を見張った。もしかして怒ってたの? それで連絡もくれなかった?
「だって、もう会えないと思ってたんだもの。これで本当にお別れだって……。だから……」
 また涙ぐんだわたしの顔を、彼は呆れたように覗き込んだ。
「それじゃお前、あの銀行家の息子と本気で結婚するつもりだったのか? 俺とあんな夜を過ごした後で? ……ふざけるなよ!」

 突然怒声を上げた樹さんにびっくりし、一瞬頭の中が真っ白になった。肩を押さえられ、端正な顔が目の前に迫ってくる。

「二年も我慢させられた挙句、あれだけで済むと思ったら大間違いだからな!」
「……えっ?」
 目を見張って問い返すより早く、唇をふさがれていた。あの夜をイヤでも思い出させるような、全てを与え、奪い取るようなキス。わたしもたちまち夢中で応え始める。

 息が切れかけてきたとき、やっと樹さんが顔を上げた。手の甲で唇についたルージュをぬぐいながら、意地悪く口角を上げる。
「悪いけど、もう後戻りできないんだ。九条のじー様はじめ、俺の身内全員がその気になっちまった。だからお前も覚悟決めて、さっそく花嫁修業でも始めろよ。もちろん大学にもきちんと行くこと!」

 いきなり思考がショートした。まさか……、聞き間違いよね?

「今……、は、花嫁なんとか……って、聞こえた気が……」
「まだわかってないのか? お前は俺の嫁さんになるの! それを条件に、俺も九重に戻るって、あのじー様相手に手まで突いて頼んだんだぞ! 今頃母屋で、お前の親父さん達とうちの母親が、仲良く式のことでも話し合ってるだろうさ」

 ええええっ!

 たとえ、マヤ暦の世界最後の日が本当にやって来たとしても、こんなには驚かなかったと思う。
 完全にフリーズしたわたしに、彼はさらに意地悪く畳み掛けた。

「『連帯責任』だからな。お前も逃げられると思うなよ」
 ○×△□……!


*** *** ***



 やがて、まだ呆然と固まっているわたしをもう一度引き寄せ、樹さんがお屋敷を振り返った。急に真剣な口調に変わり、はっと見上げる。

「お前も見ただろ? あの無駄に広すぎる屋敷……、何世代にわたる堅苦しい慣習、この国の経済を動かしているじー様や親父達の分刻みスケジュール……。俺は、ガキの頃から否応なくそんな世界を見ながら育ってきた……。息子のいなかったじー様は、俺が生まれてすぐに期待をかけ始めた。俺の周りの人間が全部、俺自身じゃなく、俺の背中の九重を見てる……。そんな毎日がたまらなく苦痛になってきて、抵抗し始めたんだ。俺は九重とは関係ないところで好きにやりたい、って言ってな」
「………」
「結局、俺は今日まで自分の我《が》を通してきた。だから余計、ガツンときたんだな……。あの晩、お前が泣きながら、親の会社のために何とかしようとしてるのを聞いて、さ……」

 彼はまるで、自分の考えをまとめるように話していた。聞きながら、やっと少しだけ理解できてくる。
 レベルは全然違うけど、この人も似たような立場だったんだ。
 そして今、現実の重みをしっかりと受け止めながら、歩き出そうとしている……。

「……でも今は? もういいの?」
 恐る恐る問いかける。まぁな、と答えた声に、少し苦さが混じった。
「今度のことは、いいきっかけだったかもしれない。いつか戻らなきゃいけないのは、わかってたから、俺も……。ただ、重すぎる荷物を背負うのは、もうちょっと後にしたかったけど」

 そこで言葉を切ると、もう一度わたしを見た。ちょっと自信のなさそうな顔になる。

「お前が傍にいてくれれば、何とかやっていけそうな気がするんだ……。美里、マジで俺と結婚してくれる?」
「……い、いいの? 本当にいいの? こんな……わたしなんかで?」

 まだ信じられなくて、何度も確認してしまった。彼はとても優しく微笑んだ。

「覚えてるか? お前が俺の部屋に初めて押しかけてきた夜のこと……」
「それは……、もちろん……」
「あのときだった。自分の気持がお前に傾いてるって、はっきり自覚したのは……。あまりにもまっすぐに『俺だけ』を見て話すお前に『ヤられたな』って感じで……」
「う……そ……」
「わかったら、返事は?」
「……はい」

 ソフトに促され、やっとうなずいた。またぼろぽろと涙がこぼれる。ほんとに泣き虫だな、美里は……。そうつぶやいて、彼が指先で優しくぬぐってくれる。

 難しいことも、いっぱいありそうだけど。
 自信なんか全然ないけど。
 この人が傍に居てくれれば、わたしも、何とかやっていけるかな?


 それから、まるで約束するように、彼がポケットからもう一度あのルビーのペンダントを取り出して、首にかけてくれた。
 樹さんの胸に顔を埋めながら、わたしは、二人が初めて出会った夜のことを思い出した。おじいちゃんが天国で手を叩いて喜んでいそうだ。


 たくさんの思い出が、今、輝きながら未来へと伸びていくようだった。
 それは確かな一本の道になって、二人の前にどこまでもどこまでも続いていた。


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patipati
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12/12/30 更新

年の瀬までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
簡単ですが、年末のご挨拶、来年の予定などをブログにて。