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 それから五分後。

 わたし達はカフェの席で、普通の恋人同士のように向かい合わせに座っていた。
 翔平はコーヒー、わたしは適当に目に付いた『きのこと栗のピラフ』を注文する。
 二人になると、彼はさくっと切り出した。

「いつ頃こっちに来れそう?」
「え……? どこかに行くの? 誰が?」
「だからさ。沙夜が、いつ頃アメリカに来れそうかって聞いてるの」
「はぁ?」
 わたしはスプーンを手にしたまま、まじまじと見返した。いつ『アメリカに行く』なんて言いました、わたし?
 なのに生意気な弟は、椅子にもたれたまま、すでに決めてかかっている。
「OKってことはそういう意味だろ? やってもらわないといけないことが色々ある。あんた、簡単な英会話くらいはできる? 少し思い出しておくといいな。まず、仕事をやめてもらって……」

 わたしの顔が百面相のように変わるのを面白そうに眺めながら、翔平はまるで仕事の指示でも出すように、どんどんリストアップしていく。

「準備して欲しいものは、パスポート、は持ってるか? あったら、婚約者ビザの申請。これは面倒だな、俺達のケースだと特に……。詳しくはまたメールするよ。ああ、飛行機の手配はこっちでしておくから。あんた、そういうの、全然慣れてなさそうだし」

 ちょっと待て! こっ、婚約者ビザ〜? 何、それ?
 トドメの一撃だった。ショックで逆に口が利けるようになる。

「まっ、待ちなさいよ! 勝手に決めないで! わたし、まだ仕事辞めるともアメリカに行くとも、ひとっ言も言ってないわよ!」
 食って掛かるわたしに、翔平は軽く眉を上げて見せた。
「じゃ、他にもっといい考えでもある? この先ずっと、俺達が一緒にいられる具体的な方策が?」
「あんたが、日本に帰ってくれば一番いい……」
「悪いけど、今は無理なんだ。俺、仕事しながら、MBA取ろうと思ってるの。まだこっちに戻るわけにはいかないんだよ。だから、沙夜に渡米してもらうしかないと思う。それとも、あんたの仕事、俺のMBAを棒に降らせてもいいほどのもの? はい、ご反論は?」
「うっ……、ない、です、けど」
「よし、決まりだな」
 にやっと笑った翔平の瞳が、楽しそうにきらめいた。「しまった」と思ったが、もう後の祭りだ。
「別に、問題ないだろ?」
「だから、待ってったら! 急に色々言われても困るの! そんなこと、今まで考えたこともなかったのに……」
「じゃ、今すぐ考えろ。五分やるから」
 コーヒーを前に、腕時計を見ながらエラそうにせかす弟に、わたしは目を白黒させたまま、言葉を失っていた。
「今すぐ仕事辞めて、何か不都合ある?」
「そりゃ、多少は……。でも事務所で新しい人雇えばいいだけかも、……って、あのねー!」
「なら、問題なしだな。いつ頃来れそう?」
「だっ、だけど、わたし、英語だって全然……、アメリカなんか一人で行ったら、その日のうちに迷子になるわよ、間違いなく……」
「空港まで迎えに行くから心配ない。英語は現地にいれば自然に身につくって」
 なんだ、と言うように微笑む、その笑顔が曲者だ。
「ほら、残り二分……一分……。さて、お返事は? 沙夜サン?」
「わかったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば!」
 とうとうやけくそみたいに答えてしまった。憎らしい弟の顔に、勝ったね! と言わんばかりの満面の笑みが広がる。
「お袋さんに何か言われても、ゼッタイ負けるなよ」
「ん……、もうきっと何も言われないと思う。さっきのあとだし」
「それなら、いいけどな……。ほら、早く食ってしまえよ」
「食べるわよ、もちろん!」
 大混乱しながら、わたしはヤケクソみたいにピラフを食べ始めた。


「本当に早く来いよ。待ってるから。来るまで、ビシバシメッセージ送ってやるからな」
 出国ゲートの前で、最後の脅しをかけるように言う弟の顔を、わたしは仕方ないなぁ……と、半ば諦めの境地で見上げた。
 この大人だか駄々っ子だかわからない弟にかかったら、姉は折れるしか道はない。しゃくだけど、いつもそうだ。

「そんなに心配しないで。頑張ってみるから」
 にっこり笑って頷くと、ふと思い出したことを尋ねてみる。
「そう言えば……。ねぇ、翔君。八年前、お母さんに何て言ったの? お母さんに聞いても、忘れたって」
「それか……」彼が珍しく目を逸らし、口ごもっている。「どうしても聞きたい?」
「うん、聞きたい。教えてくれなかったら、行くのやめようかなぁ」
 やっと先手が取れて、ちょっといい気分だ。翔平は「くそっ」とか何とかつぶやいて、そっと耳打ちしてきた。その言葉にびっくりし、ぽかんとする。
「本当に? そんなこと言ったの? あの時、お母さんに……?」
「ああ、ほんと。それに、これから実際そうなるんだろ?」
 にやにやしていた翔平が、ちらりと腕時計を見るなり真顔になる。
「沙夜……」
 ふいに顔が近づいてきた。え? と思った瞬間、唇に唇がやわらかく重なっていた。
「……!」
「待ってるから。じゃあな」

 今、公衆の面前で何をした! 真っ赤になったが、彼はドコ吹く風。軽く手を上げ、周りの注目を浴びながら悠々とゲートの向こうに消えて行く……。

 金木犀の咲く夜に、突然台風のようにやってきて、盛大に人を巻き込んでいった弟は、突然またアメリカに帰っていった。
 台風一過の後、空港に一人取り残されたわたしは、しばらく呆然とその場に立っていた。
 この急展開を全く消化しきれず、頭がくらくらする。

『俺、本気です。沙夜のこと、いつか嫁さんにしたいと本気で思ってます!』
 ……だって!
 ああ、なんだか、なんだか……。
 ものすごーーーく、大変なことになったような気がする……!!


   ◆◇◆  ◆◇◆


「もう、ほんっとに色々大変だったんだから! 会ったらしっかり話してあげるわよ。……うん、うん、わかった。そんなに心配しなくても十二時間後にはそっちに着くってば。わたしだって飛行機くらい、ちゃんと乗れるんですからね」

 よく晴れた、寒い冬の午後。
 ロングコートに、キャリーケースを脇に置き、わたしはあの日と同じ成田空港の出国ロビーで、NYと通話していた。翔平が心配そうに何度も確認するので、ちょっと笑ってしまう。
「……それじゃゲートを出たら、すぐわかるところに居てよね!」
 
 勢いよく通話を終えると、わたしは見送りに来てくれた父を振り返った。
「お父さん、お母さんのこと、お願いね」
「もちろんだ。こっちこそ翔平をくれぐれも頼むよ。お前達の結婚式には、多分行けそうにないが……」
「そんなの来なくても大丈夫って、ずっと言ってるでしょ。写真ばっちり撮って送るから! あ、お母さんは嫌がるかもね」
 父とわたしは顔を見合わせ、ふふっと笑った。母はやはり来てくれなかった。まぁ仕方ないだろう。

「また着いたら電話します。それじゃ、行ってきまーす」
 長年育ててもらった父に、別れの手を振ると、ちょっと涙がにじんでくる。そして、わたしも、あの日翔平が行ったゲートをくぐった。

 さあ、これから、二人の新しい人生が始まる!

 搭乗ゲートのガラス越しに、離陸を待つ飛行機と、どこまでも広がる青い青い空が見えた……。


〜 fin 〜



patipati

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16/06/15  更新
お読みいただき、ありがとうございました…。
この作品の本編は、ココで完結です。
作者的には、これはここで終わるのが一番良いなぁ、と思っています。。。
が…、この続きを含む番外編も少し書きましたので、
やや、ゆっくりペースになるかもですが、また公開していきますね。
後書きもどきを、Diaryにて。。。