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PAGE 17


「ママー、ねぇ、見て見て、表にすっごい車が止まったよ」
 小さなジョーが、背伸びして窓の外を見ながら、しきりに騒いでいる。
「少なくとも、うちのお客様じゃないと思うわ。あまりうるさくしないのよ、ジョー」
 キンダーガーデンから戻ったばかりの息子を着替えさせながら、ジェイドも窓からちらっと目を走らせ、すぐにキッチンに戻った。確かに、この辺りには場違いな黒塗りのベンツが、アパートの前に止まっている。
「ママー、何だかすごい男の人が出てきたよ」
「ママは、急いでお夕食の支度にかからなくちゃいけないの……」
「だけど……」

 ふいに部屋のドアフォンが鳴った。もう、一体誰かしら。この忙しい時間にアポイントもなしに来るなんて!

「ママー」
「はーい、どなたですか?」
 ドアフォンの室内モニターを覗いた途端、白いカフィエが目に入り、ぎょっとして立ち尽くす。
 まさか、そんな……。絶対に何かの間違いだわ。

 閉まったドアの向こうから、待ちきれないと言うように性急なノックが聞こえてきたが、ジェイドの足は固まってしまって、思うように動かない。

「あ、ジョー、ちょっと待って!」
「おじさん、だあれ?」

 呆然と立ち尽くすジェイドの傍らをすり抜けてドアを開いたのは、小さなジョーだった。 
 そこにはアラブのカフィエに、チャコールグレーのスーツを着こなした堂々たるアシュラフの姿があった。ぽかんと見上げている無邪気な子供の姿に、一瞬はっとしたように目を細めると、とても優しく見下ろしてから、腕に抱き上げ微笑みかける。

「お前がジョゼフ……ユースフ、わたしの息子か」
 しみじみと呟いた彼にジョーが反応するより先に、ジェイドが震える声をあげた。

「ア、アシュラフ……? あなた……、あなたがどうしてここに居るの? わたしったら、また新しい夢でも見ているのかしら?」

 質素なアパートにいかにもそぐわない、ゴージャスなシークの出現だった。ただただ呆気に取られ、しばらく口も利けないほど混乱していたジェイドも『わたしの息子』という言葉が耳に入ると言語機能が回復し、震える声を上げた。足はまだがくがくしていて、今にもその場にへたり込んでしまいそうだ。
 だが、彼は消え去りはしなかった。目を輝かせると、五年前より余裕がにじむ表情で穏やかに微笑み、脇に子供をおろしてドアを閉めた。そして、一歩踏み出し彼女に向かって大きく両手を広げる。
「約束しただろう? 必ず迎えに来ると。五年もかかってしまった。遅くなったな、我がファム・ファタルよ」
「それじゃ……、本当にあなたなのね?」
 その腕に思わず飛び込んだジェイドを、彼は情熱を込めて抱きとめ、今度こそ離さないとばかりに固く抱き締め、口付ける……。


 最初の混乱から覚めると、ふらふらしながら彼を室内に招じ入れた。ぴしりと着こなしたスーツにカフィエをつけたアシュラフが、自宅のリビングルームのソファに腰を下ろしている姿なんて、どんな夢でも見たこともなかった。ジェイドはしばらくの間、何も考えられず、ただ夢心地で愛するシークを見つめていた。

「本当に夢じゃないのね? もう一度、あなたに会えるなんて……、正直言って思わなかったわ」
「なぜだ? それは聞き捨てならない言葉だぞ」
「だって、サマールの王室では……。第一、あなたがアメリカに来ているだなんて、何の報道もなかったじゃないの!」
「プライベートな訪問だ。もちろん極秘だからな」
 にやっと笑って、彼はジェイドの顔を愛しげに見つめ、熱っぽく言った。
「すぐに息子と共にサマールに行こう。わたしと結婚し、我が国の王妃となってくれ」
「だっ、だけど、だけど……、あなたはファーティマ王女と結婚するんじゃなかったの? あ、それとも、もしかして何番目かのお后とか?」
 アラブ諸国では一夫多妻制が今も有効だったと思い出し、真顔で尋ねたジェイドに、彼は「本気で言っているのか?」と怖い顔でにらみ返す。
「誰に何を聞いたか知らないが、とんでもない言いがかりだぞ。わたしの后は君だけだ。以前、そう言わなかったか?」
「ええ、それは確かに聞いた……かもしれないわ……。でも……お国の事情もあるし、やっぱり無理だと思ってた……。第一、五年も何の連絡もなかったじゃないの!」
 思わず食って掛かったジェイドに、彼も顔をしかめて見せる。
「アリが、君の口座に定期的に送金していたはずだが?」
「ええ、それは……。ずっと手をつけずに貯金しているわ。この子が大きくなったときに必要になると思って。でも、もうそれで終わらせるつもりだとばかり思っていたから……」
「君に連絡すれば、声を聞いただけでも、会いたい気持が止められなくなるとわかっていたからな。迎えに来る前に、やるべきことが山のようにあった。だからこそ、五年もかかってしまったんだ!」
 声を荒げたアシュラフは、驚いたように沈黙した彼女にさらに勢い込んでみせた。
「産業や工業を興し、そのための道路や鉄道も敷設した。諸外国と肩を並べ、同時に君主が外国人の妻を持っても何の支障のない国に変える為に!」
 語気荒く一気にしゃべりながら、震え出したジェイドと、その横であんぐりと口を開けて二人を見上げている息子を見下ろすうちに、アシュラフは胸がいっぱいになるのを感じた。不覚にも目尻に涙さえにじんでくる。

 ああ、とうとうここまで来たのか。あの果てしない砂漠を越えて……。

 感極まって、広げた両腕で二人を一緒に抱擁した。やっとだ。やっとこの手に全てを取り戻すことができた……。
 長い間不毛な砂漠と闘ってきたアシュラフの胸に、愛と希望の泉が溢れ始めた。この日を迎えるためにこそ、自分は今まで命がけで生きてきたのだから……。


 彼の胸に顔をうずめてすすり泣いているジェイドをあやすように撫でながら、彼は息子の輝く黒い瞳を覗き込み、優しくその頭にもう片方の手を置く。
「ユースフ、もう、わたしがわかるな?」
「お父さん! 本当に僕のお父さんなんだね!」
「ああ、そうだ。砂漠の国の王様で、君のお父さんだよ、ユースフ。お前は我が第一王子だ。やっと迎えに来ることができた」

 その言葉に、ジェイドは涙に濡れた顔を上げて、この世で最も愛しい二人の顔を見比べた。改めて二人が確かに親子だと、誰も否定できないほど似ていることに気が付く。そこに自分達の確かな切れない絆もあった。我知らず、また目から熱い涙がこぼれ落ちる。
 そんなジェイドを、アシュラフの腕が再び愛しげに包み込んだ。

「ジェイド……、我が聡明で美しいファム・ファタルよ。どうか今生の人生を、息子と共に、わたしの傍で生きて欲しい。我が后、我が最高の宝石よ」
「ええ、もちろんよ。心から愛しているわ、わたしのスルタン様」

 ジェイドの碧の瞳が、彼への深い愛を映してきらめいた。
 どこかの教会の鐘が、二人を祝福するように鳴り響いているのが聞こえるような気がした……。
 


 Epilogue


「ここが……、わたし達が暮らす宮殿なの?」
「はい、王妃様。ただいま陛下がお越しになります」

 ジェイドは驚いたように案内された宮殿の内装を見ていたが、ゆっくりと歩み寄ってきたアシュラフに気付いて、振り返った。
 民族衣装に身を包んだ彼は、いつもながら飛び切りハンサムで素晴らしい。その背後に、今では王室の侍従長となっている懐かしいアリ・ザイードの笑顔もあった。
 アルハンブラ宮殿の内装を模して造られた宮殿に驚いている彼女の反応を見ながら、アシュラフがいたずらっぽく微笑んだ。その傍には侍女達に見守られた小さなユースフが、王子の衣装を身に着け、おもちゃの剣を手に大喜びしている。

「君のために特別に改装した。どうだ? 気に入ったか?」
「アッシュ……」
「長い間、待たせたからな。この宮殿は君への贈り物だ。……どうした? 気に入らないのか?」
 頬に涙が伝い始めたジェイドを見て、彼が焦ったように尋ねる。
「違うわ、あんまりにも幸せ過ぎて……」
「これは、二人の千一夜の夢がかなった証だ。かのスルタンの欲望も、まだわたしの中に脈々と流れているらしい。たとえ嫌だと言っても、もう二度と離さないから覚悟しておくんだな」
「あら、お生憎さまね」
 ジェイドは涙を拭きながら、茶目っ気たっぷりに微笑み返すと、降りてきた彼の唇を受け止めた。
「金髪の女奴隷の思いも、ここにしっかりと持って来ているのよ。何があってももう二度と離れないから、覚悟するのはあなたの方かもしれないわよ?」
「それこそ、望むところだな」

 アルハンブラの甘い記憶も、遥かな砂漠を越えて、新しい二人の都にようやくたどり着いたようだった……。


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patipati
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13/12/13 更新
これにて完結です。御読み頂き、誠にありがとうございました〜。
あとがきなど、ブログにて。