《子爵の恋人》 番外 3


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 朝からロンドンにかかっていた霧が、午後にはいっそう濃くなってきた。

 馬車や荷車の行きかうチャリング・クロスの目抜き通り。大通りを挟んで連なる建物が次第に濃い白いベールに覆われていき、ついにぼんやりした輪郭すら見えなくなる。
 身動きが取れなくなったことに気付き、サーフォーク家の御者ジャック・コナーは、御者台の上で悪態をついた。通行人達が足元を縫うように走りすぎていくのを感じる。
 やれやれ、奥様も奥様だ。こういう日は無理にお出かけにならず、旦那様のおっしゃるとおり、お屋敷でおとなしく刺繍でもしてくださればいいものを。

 普通のお身体でない今は、特に!

 渋面を上げて、視界が利かなくなった前方に目を凝らしているうちに、馬が石畳の隙間に足をつっ込んでしまった。鋭いいななきと共に馬車ががくんと揺れて止まる。
 冷汗をかきながら御者台から降りると、彼は馬の手綱を取って懸命に引っ張った。


 馬車が大きく揺れたとき、窓から外の様子を心配そうに眺めていたローズの身体が、はずみで前のめりになった。
 いそいで姿勢を正すと、五か月目に入ったお腹を庇うようにそっと右手を押し当てる。
 今、自分の中にジェイムズの子供が育っているのだ。今度こそ何の不安もなく健やかに確実に……。まだ見ぬ我が子への思いは胎の子供同様日増しに大きくなっていく。
 レースをふんだんに使い腹部を締め付けないようデザインされた外出用ドレスの上から、ゆっくりと膨らみを撫でてみた。
 母になるということが、これほど深い安らぎと喜びを与えてくれるとは……。
 なぜかローズには、この子が男の子だと、確信があった。


 胎内に命が宿ったことを伝えたときの、夫の嬉しそうな顔は忘れられない。
 そのことを確信した日、夜まで待ちきれなくて彼女の方から書斎に入っていくと、書き物をしていた夫にそっと報告した。
 最初面食らったように彼女の顔をまじまじと見た彼は、一声あげて椅子から立ち上がると、彼女を優しく抱き締めてくれた。
 ダークブルーの瞳が誇らしさと愛情に輝くのを見て、押し寄せる幸福に圧倒されたことを思い出す。
 ただ、最近ますます過保護に扱われているような気がする。これはちょっと問題で、もう子供ではないのだからと、つい夫をたしなめるほどだ。
 馬車の振動が身体に触る、と外出にもあまりよい顔をしないが、まさか十か月ずっと部屋に閉じこもっているわけにはいかない。医師の許可がおりた後は、夫の不満顔をよそに必要なときは一人で出かけていた。

 でも、今日ばかりはおとなしく屋敷にいればよかった……。


◇◆◇


「どうしたの? ジャックさん……、まぁ!」
 一向に動き出す気配もない馬車の窓から顔を出した途端、霧の冷気を肌で感じた。目の前に何があるのかさえわからない。御者のジャックの嘆きが白いベールの向こうから聞こえてきた。
「いつの間にかこんなにひどくなっていたのね。全然前が見えないわ、どうか、気をつけてくださいね」
「奥様、これじゃ鼻先をつままれたってわかりっこないですよ。とてもじゃないが、お時間に間に合わせるのは無理です!」
「ええ……。もう仕方ないと思うわ」ローズも素直に同意した。

『霧がひどくなりそうだから、今日は外出しないほうが無難だろうね』
 今朝のジェイムズの言葉を今更ながらに思い出す。言うとおりにすればよかった。
 だがその日は最近知り合ったばかりのある伯爵夫人から午餐会の招待を受けていて、出席しなければ失礼になる、と思い込んでいた。
 だがこの霧では身動きが取れないし、そのうち時間も過ぎてしまうだろう。他の皆様も来られるかどうか……。

 ローズはあきらめて屋敷に戻るように言った。ジャックがカンテラを点し馬車の前に吊り下げる。だが戻りたくとも一インチ先も見えない有様では、往来を行くのは危険すぎた。
 しばらくの間、子爵家の馬車は他の多くの馬車同様、道端で立ち往生する羽目になった。



 ようやく霧が薄らいできたのを見て、ジャックは再び御者台に腰を落ち着けた。
「それでは奥様、急いで戻りましょう。きっと旦那様がご心配でひどくお怒りに違いないですよ、おお、くわばらくわばら! そら行け! 馬や」
 冗談とも本気ともつかぬ声で言うと、馬に鞭をあてゆっくりと戻り始めた。まだ霧の残るどんよりした街路に同じように馬車の所在を示すカンテラの灯が、ときどき揺らめきながら交差する。
 通り過ぎるいくつかの灯りを、ローズは見るともなしに眺めていた。今何時頃だろう。

 そのときジャックがまた激しくののしり声をあげた。馬車が止まったので、ローズは再び窓枠に飛びついた。

「今度はどうしたの?」
「だ、誰かが道端に……、畜生! この霧の奴め! まったく視界がききやしない!」
「何ですって!? それでどうしたんです?」
「奥様がお出でになる必要は……」

 ジャックが慌てて止めるより早く、ローズは顔色を変えて外に飛び出していた。
 馬の足元に、15,6歳の粗末な交ぜ織りの服を着た少女が、ぐったりと意識を失ったように倒れている。
 台から降りてくると、御者は憮然と説明を始めた。

「引いちゃいません。危うくひずめで踏みつけるところだっただけでさ。この娘っ子はもとからここに寝っ転がってただけで……」
「それなら、なおさら危ないじゃないの。この霧で馬車に気付かず、はねられたのかしら? 怪我はないように見えるけど」
 ドレスが汚れるのも構わず、ローズはその少女の傍らに膝をついた。乱れたお下げ頭をそっと持ち上げて、熱はないか確かめるように額に手を当ててみる。
 少し熱いような気もするが、さほどでもない。小柄な身体は逆に冷え切っていた。

 ふと、少女が意識を取り戻し身動きした。まぶたがゆっくりとあがり、ぼんやりした目が、覗き込んでいるローズの顔を捉えた。
「気が付いたのね。よかったわ。怪我でもしたの? どこか痛むかしら?」
 優しく訊ねてみる。だが、娘は焦点の定まらない目でローズを見上げ、一言「……マリア様」とつぶやくなり、また意識を失ってしまった。

 ローズは苦虫を噛みつぶしたような顔で立っている御者を見上げた。
「手を貸してください。この子をわたし達の屋敷に連れていきましょう」
「お、奥様!」
 案の定ジャックは目をむいて、懸命に声をはりあげた。「そんな義理も義務もまったくありませんや」
「でも、このままここにほうってはおけないでしょう?」
 そう言ってしり込みする彼を無理にうながし、ローズはその少女を馬車に運び込ませてしまった。


◇◆◇


「お義姉様、ようやくお帰りになったんですって? さっきからお兄様がそれはもういらいらなさって、まるで檻の中の熊みたいだったのよ。書斎から廊下を行ったりきたり、さんざん歩き回って十分ごとに……」

 一部編み込みにした長い黒髪を楽しそうに振りながら、中央階段を下りてきた子爵令嬢マーガレットは、その場の奇妙な雰囲気に思わず立ち止まった。間髪入れず、階下から兄の厳しい声が飛ぶ。
「マギー、下に来るんじゃない! いいと言うまで、部屋でじっとしていなさい」
 抑制されているが、その声はまぎれもなく怒りの波動を帯びていた。何かあったようだ。その緊張感に、さしものマーガレットも立ち止まり、階段の半ばから下の様子を窺った。

 玄関ホールで外出から戻ったばかりの義姉と御者が立って、平服姿の兄と何か話していた。二人が結婚して以来、この兄が義姉にあんな表情をしているところは見たことがない。執事もメイドも、その脇で顔を引きつらせている。
 いったいどうしたのかしら。あら、ジャックが抱いているのはいったい誰なの?

 その時子爵は顔を上げて、再び怖い顔で彼女を促した。激しくうずく好奇心を抱いたまま、マーガレットは仕方なく部屋に戻って行った。



 事情を聞いた後、ジェイムズは問題の少女にちらりと目を向けたなり、しばらく沈黙していた。

「それで……? ブルムナー家の午餐に行く代わりにこの娘を拾ってきた、というわけか? しかもチャリング・クロスの歓楽街界隈で?」
 心底あきれ返った。そう言わんばかりに眉を上げ、皮肉な調子で一言一句確認するように繰り返す夫に、ローズはむっとして言い返した。
「ええ、そうするしかありませんでした。わたしには、この子をあのまま道端に置き去りにしてくることは、とてもできなかったんです。ジャックさんは悪くないわ。わたしが頼んだとおりにしてくれただけですから」
「……まったく、君は……」

 低い声で呟くなり、子爵は一瞬目を閉じてしまった。妻にかんしゃくを爆発させたいところを、使用人達の手前できずにいる。そんな葛藤がありありと窺える。
 ようやく気を落ち着けるように大きく息をつくと、ジェイムズは振り返ってブライス執事と初老のメイドに指図した。

「とにかく、すぐに医者を……。この娘は一番奥の小部屋に寝かせるんだ。診察の結果がわかるまで、ジャック以外は誰も近付くんじゃない」
 娘を抱えていたジャック・コナーが、何かに打たれたように身震いし、アーメンと沈痛な声を出した。
 執事達がそれぞれ無言で一礼し、主人の言いつけに従って去ると、子爵は傍らで呆然と見ていたローズに再び緊張した目を向けた。
「君も自分の部屋に行っているんだ。呼びにいくまで部屋から出るんじゃない」

 まるで、言うことを聞かない子供にお仕置きするような口ぶりだ。抗議しかけたが、そのとき、ローズの脳裏にある考えがひらめいた。

 何か……悪い病気でもあると……?
 まさかそんなこと……。

 否定しかけて、遅ればせながらその可能性がまったくない、とは言い切れないことに気付いた。
 それなら、夫らしからぬ態度の理由にも納得がいく。ジェイムズを見返すローズの顔が、みるみる青ざめた。


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12/05/10  更新

『平清盛』ご覧になってる方、清盛の最初の妻、明子さんが同じ理由で亡くなりましたよね…。
これは19世紀ですが、まだまだ衛生が非常に悪いロンドン下町だったのです。
続きは明日…