Chapter 16

page 1


 晩秋の夕陽が西空にかかり始める頃、ロイはようやく家に向けて荷馬車を走らせていた。
 今彼は、最低の気分に陥りかかっていた。

 母の容態はかんばしくなかった。シャーロットタウンから呼んだ医師の診断は、村の医者に輪をかけて厳しいものだった。
 今は到底一人にしておける状態ではない。かなり前から自覚症状はあっただろうに、こんなになるまでなぜ何も言わなかったのか……。そう恨めしく思うと同時に、気付いてやれなかった自分にも無性に腹が立つ。
 もちろん、母を置いて戦地に行くなど論外だった。

 その結果、ロイはベルギー王国の存亡よりさらに深刻な問題に直面する破目になっていた。今後の治療費をいかに捻出するのか。微々たる貯蓄はあるものの、数年先まで考えれば心元ないでは済まされない。
 自ら畑を耕し、馴染みの食料品店の配達や仕入れ、さらにこの戦争で急に男手がなくなった家々の農作業や力仕事など、とにかく来るもの拒まず休みなく働いたおかげで、暮らしに不足はなくなった。
 だが、こうした労働は本業からはあまりにかけ離れている。今の自分にはむしろありがたいものだったにせよ、もっとよい仕事につければ、という思いも日増しに募っていた。
 この村に弁護士は不要だろうが、学校の教師なら確かに必要だ。
 今日はデイジーが家にいてくれる。それを幸い、配達を終えた足で街道沿いの学校まで出向いてみたのだった。先日ハリス長老から打診されて一度断わった教職を、考え直したと伝えようと思っていた。

 だが、その結果は散々に終わった。


「お兄さん、誰か探してるの?」
 ロイが空き地に荷馬車を停めて小さな平屋造りの学び舎に近付いていくと、そこで遊んでいたまだあどけなさを残す子供達が、彼に気付いて声をかけてきた。
「実は、君達の先生に会いに来たんだ。大人は誰もいないのかな?」
「先生はね、戦争に行くための『ぐんじえんしゅう』に出ちゃったんだって。だから次の先生が決まるまで、学校はお休みになるの」
 昔を思い出して和んでいたロイの表情が、子供の口から飛び出した言葉を聞くなり強張る。
「……そ、そうなのかい?」
「お兄さんは? 大人の男の人なのにどうして戦争に行かないの?」
「どうしてって……」
 くりくりした瞳がまっすぐにこちらを見つめている。さしものロイも面食らい、返答に詰まってしまった。すぐに残りの子供達も傍にやってきて、口々に考えを述べ始める。
 分けても、ある少女が発した無邪気な言葉が、強烈に胸を突いた。
「"いくじなし"だから、じゃないわよね? あたしのおじいさんは、戦争に行かない人を見て、いつもそう言ってるわ」
 今度は赤い頬の少し年上らしい少年が、脇から負けずに声を上げた。
「ぼくの一番上の兄さん、最近上等兵になったんだ! この村じゃ一番の出世なんだって! お父さんがそう自慢してるのを聞いたんだよ。ねぇ、上等兵になるとどうなるの?」
「ボクも早く18になれたらいいのに……。隣村で17歳の子が18だって言って入隊したのを知ってる? でも、嘘ついてもいいのかな? お兄さん、どう思う?」
 大人達の口さがない言葉を傍で聞き取って、寸分違わず真似ている無邪気な子供達は、次々に答えようのない問いを投げかけてくる。混乱しながら、彼にも次第に事情が飲み込めてきた。今は子供達の最大の関心事さえ、大人顔負けに戦争のことなのだ。
「ドイツと戦えないような『臆病者』には、コレが似合うんだぞ!」
 一番年長らしい、がっしりした体躯の少年がそう声を上げて、ポケットから白い鳩の羽を取り出して投げて見せた。ゆっくりと芝草の上に舞い落ちる白い羽根を目の端で捉え、冷めた気分で考える。これは『臆病者の徴』というわけだ。

 ロイはしばらく無言で子供達を眺めていたが、やがて励ますように一番小さな少年の肩をぽんと叩くと、そのままきびすを返した。
 なるほど、今の時期、教師は女性の方がいいということか……。
 再びたずなを取り上げたとき、彼にも、前任の男性教師が突然志願した理由が、痛いほど呑み込めていた。


*** ***


 ヨーロッパ平原は、文字通り泥だらけの戦場と化していた。
 その戦況は、カナダの果ての平和な島にも確実に連結している。

【18歳から45歳までの屈強な男子求む。
 君も輝かしい新世界の礎とならん!】

 村の商店街に出向くたび、各所に大々的に貼られた義勇兵募集のポスターが、いやでも目に留まった。だんだんと、その前を通るたび、周囲の人目が気にかかるようになってくる。

 サマセット村はずれにある小さな駅からは、毎週のように二人三人の男達が笑顔と涙に見送られて旅立っていった。たまたま、配達帰りに出くわして、ロイも人に混じって黙って見送ったことが何度かある。
 中には自分よりはるかに年上で三人の子持ち亭主もいた。18になった翌日、待ち構えていたように志願した若者もいた。戦況がわかってきた今、未知の興奮に熱狂しながら旅立った最初とは違い、ただ行かねばならないという気概を持って、あるいは向かう先の不安に顔をひきつらせながら、皆言葉少なに旅立っていく。
 見送った後には、いつも胆汁を飲んだような苦さが残った。
 たとえ、行けない理由を正当付ける百もの事実を列挙できるとしても、自分が見送られて汽車に乗り込むその日まで、この味を味わい続けるのだろう。

 フランスの塹壕……。
 義勇兵に志願することは、すなわちどこまで続くかわからない、暗い穴倉に入ることを意味する。

 決して心から願って行きたいわけではない。法的に義務付けられているわけでもない。行かないと言って、面と向かって露骨に非難されることもない。それでも……、やはり行かねばならないと思う。
 これまで島から、あるいはカナダ全土から旅立った多くの男達同様、ロイもまたじっくり事態を見据えた末、そう結論付けざるを得なかった。
 新聞で戦況報道を読むたびに、あるいは先駆け出かけ、今も敵の砲弾の只中に生命をさらして立っている古い友人達を思い出すたびに、どうしてお前は安閑とここに座っているのだ、と、心の奥から声がする。
 おそらくもっとも厄介なのは、自分の内奥に潜むこの見えない『良心』の声と言う奴だ。
 無言で行く手に立ちふさがり、断固として最も困難な時代と敵に立ち向かえ、と容赦なく強いてくる。

 忌々しい現実を嘆いても無意味だ。
 人はそれでも未来へと、歩を進めていかなければならない……。


*** ***


 ロイは頭を振って深く息を吐きだすと、馬を急がせた。世界が抱える憂鬱について、荷馬車の上で考え込んでいても埒は明かない。
 空回りする思考を現実へ引き戻そうと見上げた空が、デイジーの瞳と同じ色をしているのに気付く。

 デイジーか……。今頃、怒っているかもしれない。あるいはもう家に帰っただろうか。

 抜け殻のようになって故郷に舞い戻った自分の前に、かつてと変わらぬ朗らかさを湛えて、突然現れたのが彼女だった。すっかり忘れ去っていた学校時代の女友達から、思いがけず優しい心遣いを示されて、心の傷がそれなりに癒されていくのを感じていた。
 そうだ。俺は今まで、デイジーの好意に都合よく甘えていたに過ぎない。どんなによくしてもらっても、彼女の気持に応えることなど、決してできそうにないのだから……。

 デイジーの好意の意味や、期待していることがわからないほど鈍いわけではない。
 どうにもならない思いにいつまでも身を焦がしているよりは、いっそ目の前の彼女に寄りかかってしまった方が、よほど楽になれるのかもしれない。一言口に出しさえすればいいのだ。彼女が瞳を輝かせて頷くことは目に見えている。
 今、我が家には女手が必要だ。デイジーはその必要を満たしてくれる。彼女となら、少なくとも見かけは暖かい家庭を築けるかもしれない。何よりも病床の母が安心するのは間違いない。そして自分自身、ずたずたになった恋の残骸を抱えたまま空虚な日々を過ごすより、ずっと救われるかもしれないのだ。

『かもしれない』……。

 ロイは脳裏に次々と浮かぶ無数の『仮定』を、苦笑交じりに振り払った。それらが決して現実となり得ないことは、他でもない、自分自身が一番よくわかっているからだ。


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/08/21
日本に帰省する都合で、次回は29日頃になりそうです...。