Chapter 16

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 昼は極力肉体を酷使した。くたくたになるまで働くことで、夜、ベッドに倒れ込むなり何も考えず眠りに落ちることを期待する。思惑どおり、夢も見ずに眠れた夜は幸いだ。
 だが時として、眠りこそは、意識の底に懸命に封じ込めた記憶と切望とを、残酷なまでに鮮やかに暴き出して見せることもある……。

 しばしば、彼は夢の中でパトリシアを抱いていた。あの一夜、夢中でそうしたように、ほっそりした熱い身体を体の下に組み敷き、両手の平で彼女の肌の滑らかな感触とぬくもりを隅々までくまなく辿っていく。
 彼女の全身に唇を這わせ、あらゆる細部まで、もう彼の舌が味わっていないところはどこにもない。絶え間なく愛撫を続けながら、彼女の情熱と熱い息遣いを感じ、悦びにあえぐ声に酔いしれた。
 記憶の中にいつも木霊する彼女の声をとどめようと、さらに彼自身を深く彼女の真芯に埋めるために、しなやかな白い脚を開かせる……。

 いつも、そこで目が覚めた。
 肉体に強烈な痛みを感じ、短い叫び声を上げて……。

 それは大抵、真夜中か夜明け前。
 汗ばんで荒くなった呼吸とともに、決まって股間が極限まで張り詰めている。
 歯を食いしばって自己処理し再びベッドに横たわると、目を閉じて先ほどの甘美な夢の続きにしがみつこうとする。
 朝起きる頃には、そんな自分に吐き気すら覚えている。だが、夜の闇の中ではあまりに無防備だった……。

 忘れたいとか忘れたくないとか、乞い願う以前にただありのままを事実として受け入れるしか術はない。やっとそう気付いたのは最近だった。
 理屈ではない。パトリシア以外誰も、この空洞を満たすことはできないからだ。


*** ***


 物思いに耽っていたロイが、ようやく家に帰り着いたのは、もう夕刻の頃だった。
 部屋はすっかり暖まり、床もきれいに掃除されている。やはり整った暖かい家はほっとする。俺もつくづく身勝手だな、と苦笑しながら、ブーツの汚れを落とし居間に向かった。

「デイジー?」
 いつもきびきび動いている彼女が、珍しくぼんやりとカウチに座りストーブの炎を見つめている。彼女への後ろめたさを感じ、ロイは咳払いして、やや言い訳がましく説明を始めた。
「思ったより遅くなってしまって……すまなかった。その……、今日はいろいろと用があったものだから。君もそろそろ帰った方がいいんじゃないか? 家まで送らないといけないな」
「あ、お帰りなさい、ロイ……。いやね、ちょっとぼんやりしてたみたい」
 声をかけられ、初めて彼の帰宅に気付いたように、デイジーはこわばった笑みを浮かべて立ち上がった。居間のテーブルに、冷めたお茶のカップが手付かずのまま残っていた。少し眉をひそめて問う。
「留守中、誰か来てたのかい?」
「え、ええ、そう……、さっき、あなたにお客様がみえてたの。遅くなるといけないって、もう帰ってしまったけど……、これを預かったわ。トロントの、あなたがいた事務所の何とか言う先生からだそうよ」
 あと、伝言は何だったかしら。思い出せないまま、手にした手紙を差し出した。ロイが驚いたように瞬きする。
「……何だって? いったい誰が来たんだい?」
「パトリシア・ニコルズよ。ほら、昔、森屋敷に住んでた……、あなたも覚えてるでしょう?」
「な……んだって?」
 途端に、彼の激しい動揺がデイジーにも伝わってきた。
「パトリシア? 彼女が……これを……持って来たって? たった今、この家にかい?」
 すぐには信じられなかった。目を見張って問い返しながら、ひったくるようにデイジーから手紙を取り上げる。そんな馬鹿な……。

 だが、その封筒はまぎれもなくウェスコット事務所で常用していたものだった。上司のサインを確認したロイの顔色は、傍目にもわかるほど青ざめていた。
 どうしたの? 何か悪い知らせなのかしら? 混乱しながら、デイジーは早口で続ける。
「ええ、あれは確かに森屋敷のパトリシア・ニコルズだったわ。わたしもすぐには彼女だってわからなかったの。あの人が小母様に自分でそう言ったので、やっと思い出したのよ。本当に綺麗になっていたわ。さすが大都会のトロントに長年住んでいるお嬢様だけはあるわよね……。え? それってつまり、あなた達……、向こうでも会ってた……の?」
「それじゃ……本当なのか!? パトリシアが……、彼女が今、本当にこの村に……?」
 問いには答えず、ロイはデイジーの言葉を乱暴にさえぎった。
「え、ええ……」
「それで? 彼女は今夜どこに行くか言わなかったのか? 森屋敷か?」

 ただならぬ彼の気配に、デイジーは驚きとまどった。普段、凪いだ海のように穏やかで、何があっても――開戦の報せを聞いたときでさえ――ほとんど動じなかったロイのブルーの瞳に今、突然激情の嵐が吹き荒れている。
 彼の目の暗い光を見た途端、デイジーは直感的に『言ってはならないこと』を言ったのだと悟った。頭を振りながら、すすり泣くような声を漏らして喉を押さえる。

 ロイにとって、それはまさに青天の霹靂だった。次第に震え出す声と身体をどうにか抑えつけるのが精一杯で、デイジーを思いやるゆとりなど、完全にどこかへ消し飛んでしまっている。 それでも、どうにか自分を制しようとした。落ち着け、取り乱すな。デイジーは俺達の事情なんか何も知らないんだ……。
 だが、たじろぐように黙り込んでしまった彼女にとうとう我慢できなくなり、両肩を掴んで揺さぶった。
「デイジー、お願いだ、早く教えてくれ! パトリシアはどこに行くと言っていた?」
 この人がこんなふうになるなんて……。衝撃を受けながら、デイジーはやっとの思いで声を出した。
「すぐにシャーロットタウンに発つって言ってたわ。向こうに行く汽車か馬車はないか、って聞かれたもの……。今ごろ行ってももう遅いんじゃないかしら? ロイ、ロイったら、待ってよ!! わたしはどうすればいいの!?」

 次の瞬間、悲鳴に近い声を上げたデイジーを振り返りもせず、ロイは脱兎のごとく家から飛び出していった。


 ロイが出て行った後、しばらく呆然と立ち尽くしていたデイジーは、やがてへたり込むように傍のカウチに腰を下ろした。
 ようやくおぼろげに事の輪郭が飲み込めてくる。二人の表情を思い返し、唇に苦い笑みが浮かんだ。

 あの二人……、そういうこと……だったのね……。

 パトリシア・ニコルズ……。なんだかずっと以前にも、こういうことがあったような気がする。
 結局、わたしはいつもあの人に負けてしまうみたいだわ……。

 ため息をついて立ち上がり、のろのろとショールとバスケットを取り上げる。
 心から希望の灯が消え、世界はさっきより色あせて、わびしく見えた。
 早く帰らなくちゃ。すっかり遅くなってしまった。台所の余分なカンテラを借りて灯を点すと、一人おぼつかない足取りで家路についた。


*** ***


 今、ロイの頭には、パトリシアの突然の訪問、という信じ難い事実だけが、ぐるぐると渦を巻いていた。後のことなど一切目の前から消え失せてしまうほど。
 くそっ、そんな時に家をあけていたなんて! 何て間の悪い話だ……。どうしてこう何もかもうまく行かないのか……。
 納屋に飛び込み馬を出そうとしたが、手が震えて結わえ付けている皮紐がうまく解けない。汗をかいて悪態をつくと、傍らの道具箱にあったナイフで切ってしまった。まだ飼い葉をはんでいた馬を強引に引き出し夢中で掛け声をかけると、とにかく村に向かって走り始める。

 何故……? 何故、せめて俺が帰るまで待っていなかった……!?
 お願いだ、まだ居てくれ!


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17/08/29
更新が遅くなりました。
今回は家族全員で大阪・神戸旅行に行きまして、暑かったですが、がっつり楽しんできました。
そして、ソウルに戻ってみたら、秋になっていました…。