Chapter 9

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 パトリシアの瞼からこぼれた涙が、ロイの頬にぽたりと落ちかかった。ロイは目を閉じ、触れる唇の柔らかな花びらのような感触に、全神経を集めようとした。
 わずかに開いた彼女の唇が熱を込めて触れ、それからためらって、また引こうとする。
 そんな気配を感じると、ロイは思わず小さく呻き声を漏らし、片手で彼女の頭を動かないように押さえてしまった。
 この甘いぬくもりをもう決して失いたくない。身体中が震えるほどの渇望がこみ上げ、彼はその渇きを癒そうとするように彼女の唇を割って舌を差し入れた。パトリシアは驚いたようにびくりと身動きしたが、次にはむしろ熱心に彼に応え始めた。
 まるで今日まで抑えに抑えてきた思いが、合わせた唇を通して流れ出し、相手をさらにしっかりと捕えたがっているようだった。我を忘れてお互いの情熱をぶつけ合ううち、キスはさらに貪欲に深くなっていく。

 しばらくの間、パトリシアはそうやって、与え合う悦びに夢中になっていたが、ロイのもう片方の手が彼女をさらに引き寄せるように動いたとき、我に返ったように少しもがくように顔を上げた。肩にかかる彼の手をはずして立ち上がると、やるせない瞳で自分を見上げたロイをなだめるように、弱々しく微笑みかけた。
「こんなことしちゃ……いけなかったわ。ごめんなさい……」
 はにかみながらこう囁くと、もう一度彼にキスしたくなる誘惑に駆られる前に、そそくさとベッドの傍を離れた。


 いつの間にか、窓の外の残照も消え、夕闇があたりに濃い帳を下ろしていた。半分開いた窓から、心地よい夜風がそっと吹き込んでくる。
 パトリシアは部屋にさがった小さなランプを点すと、先程ウェスコット氏が持ってきてくれたロイの鞄を取り上げ、とにかく丸めてつっこまれたらしい彼のシャツとズボン、そして氏が調達してくれた新しい下着類を引っ張りだして、テーブルの上に広げ始めた。
 そうしながら、ふと、奇妙な錯覚に陥りそうになる。静かな夕べ、ベッドにいる彼と小さな部屋に二人きり。こんなふうに彼の用事をしていると、何だかまるで所帯を持ってでもいるみたい……。
 慌てて頭を振って、胸がうずくような幻を追い払うと、ロイに向かって努めて明るく話しかけた。

「見て。これだけあれば大丈夫だわ。よかったわね。やっと、わたしがこの部屋にいるときでも、そのシーツから出られるわよ。でも、くれぐれも無茶しないでね。先生がしばらくじっとしてた方がいいとおっしゃったんですもの。それじゃ、わたし、これを片付けたら部屋に戻るから……」

 そのとき、全部出し終えた鞄の一番底にまだ何か入っているのが見えた。手を突っ込んで取り出して見ると、汚れ色褪せて、かろうじて元が水色だったとわかる生地に、擦り切れたレースのついた小さな四角い……ポプリだろうか?
 思わずまじまじと見つめる。それには、確かに見覚えがあった。

「まさか、これ……」

 はるかなサマセット村の少女時代……、自分が作って彼に手渡したあのポプリだろうか?
 あの日から、もう十年も経っているのに……。

 弟からロイがノヴァスコシアに発つと聞いて、どうしても何かしたくて、前日に一生懸命これを作った。勇気を出して駅まで出かけて、やっと会えた旅立つ直前の彼に、記念にと手渡したのだ。自らの意思ではなかったとはいえ、酷いことを言って、もう嫌われたのではないかと、とても心を痛めた後だっただけに、彼が受け取ってくれたときは本当に嬉しかった。
 あのとき自分を見ていた、凪いだ湖のような青い瞳は、まだかすかに覚えている……。
 彼はこれを今までずっと持っていてくれたのだ。しかも肌身離さずというように、仕事鞄に入れてまで……。

 パトリシアはそれを握り締めたまま、ベッドを振り返った。彼は上体を起こしていた。あの日と同じ、凪いだ湖のようなブルーの瞳が、静かに自分に注がれている。

「……こっちにおいで、パット」
 かすれた声で呼ばれ、引き寄せられるようにゆっくりと、もう一度ロイのベッド脇に歩み寄った。
「これ、あのときの……ポプリね? ずっと、こんなふうに……持っていてくれたの……?」

 思いが溢れてきて問いかける言葉が途切れがちになる。彼の長い指が愛しげに頬に触れ、知らぬ間にまたこぼれ始めていた雫をぬぐってくれている。ロイは彼女が握り締めていたポプリをそっと取り上げ、照れくさそうにそれに目を落とした。
「参ったな……。もちろん持っていたさ。捨てられるわけないじゃないか。だってこれは僕の初恋の、大切な形見なんだから」
 二人は互いに見つめ合った。

「ああ、愛してるわ、ロイ。本当に愛してる! 愛してる!」

 次の瞬間どうにもたまらなくなり、パトリシアはもう一度ロイの手に自分の手のひらを重ね、もう片方の手で彼の頬に触れながら、すすり泣くように何度も愛の言葉を囁きかけていた。
 ロイはしばらくじっとしていた。ふいに、彼がパトリシアの手を掴んだ。そして、静かな声が落ちた。

「パトリシア・ニコルズ。それなら……、僕と結婚してくれるかい?」

「……何て言ったの? 今……」

 耳がおかしくなったのかしら。それとも、頭が……?
 顔を上げたまま、呆然と見返すパトリシアの顔を眺めていたロイは、やおら彼女の手をぐいと引っ張ると、そのまま両腕に力をこめて彼女をベッドの上に引き上げた。
 気がつくと、パトリシアは、ベッドの上に座り込んでいて、彼の両腕の中に囲い込まれてしまっていた。


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17/04/26
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