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番外編 〜 地上のパラダイス 〜 


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「もう! いい加減になさってください! あれではみんなに気付かれてしまいます。今頃厨房で何を言われているか……」

 その夜、ようやく晩餐が終わると、二人は早々に寝室に引っ込んだ。メイド達の挨拶を受けながらドアが閉まるや、ローレルは思わず夫に食って掛かった。来客がなかったとは言え、きらびやかなダイニングルームで大勢の使用人に囲まれながら、夫のからかうような熱いまなざしを受けとめ、何食わぬ顔で食事を続けることは容易ではない。
 だが侯爵は、反抗的な妻の態度に面白そうに眉を上げると、笑いながら背後から近付いた。
「減るものじゃなし 、別にいいじゃないか。美しい妻を愛で賞賛することは、今のわたしのこの上ない楽しみの一つなのさ」
「でも、人前ではあまり……」
 そのとき、彼の暖かな唇がうなじに触れるのを感じ、ローレルは思わず口と目を閉じてしまった。長い指が巧みにドレスのボタンをはずし始める。開いた背中に触れられると、たちまち降伏しそうになるが、それが嫌であえて皮肉に呟く。
「そう……。つまりわたしも、美しい建物や美術品のコレクションと似たようなものと言うわけね?」
「とんでもないことを!」
 侯爵はわざとオーバーに唸ると、一息に妻のドレスを床に落とした。思わず息を呑んで、両手で身体を覆おうとするローレルのしなやかな裸身を満足げに眺め、彼女を包み込むように抱き締める。
「絵画や城ではこういう悦びは得られないよ。おいで、可愛い奥さん」
 有無を言わさぬ強引さで抱き上げられ、ベッドに運ばれながら、ローレルは懸命に最後の抵抗を試みた。
「そ、その前に……、ミス・メィヒューのお宅はどちらですの? まだ何も聞かせていただいてませんわ!」
 侯爵は剥ぎ取るように自分のシャツを脱ぎ捨て、傍らに横たわると、妻のきゃしゃな裸身を男らしい体躯で包み込んだ。唇が降りてきて甘い吐息が絡み合う。紅潮したつややかな頬から唇にたっぷりキスをして、彼はようやく顔を上げると、情熱に翳ったアメジストの瞳に微笑みかけた。
「パラダイスさ」
「パラダイス?」
「そう。地上の楽園と呼ばれているそうだよ。そのうちに連れて行こう。ほら、もう抵抗するのはやめて、今は素直に身を任せるんだ」

 わたしにとって、パラダイスはあなたの腕の中ね……。
 深い吐息と共に夫の愛撫に身を任せながら、ローレルは心からそう思っていた。


◇◆◇  ◇◆◇


 アシュバートン侯爵夫妻がようやくその場所を訪れたのは、それからひと月後、十月も半ばになってからのことだった。
 秋の季節が最も美しいと聞いたからだが、噂にたがわず、敷地に入るなり、静かな湖畔と色鮮やかな紅葉の丘陵地が広がった。
 馬車の窓から眺めながら、侯爵が楽しそうにローレルにその場所の由来を説明してくれる。

「ここは今から百年ほど前、銀行家の個人庭園として造られたと聞いている。英国式ランドスケープガーデン(風景庭園)としては代表格だと言う話なんだが」
「ランドスケープガーデン?」
「そう、フランスのように平地にある宮殿では、左右対称の幾何学模様の庭園が主流だが、起伏の多い我が国の地形には合わなかったんだな。それで風景をそのまま生かして、景色に溶け込むような庭造りが始まったと言うわけだ……。ホッジズ、少しじっくり見てみたい。馬車を停めてくれないか」
 馬車が止まり、ジェフリーは外に降り立つなり、感嘆の声を上げた。
「実にすばらしい! 聞きしに勝るとはこのことだ」
 続いて降りたローレルも、思わず目を丸くして呟いた。
「……これが全部お庭なの? 本当に?」

 十八世紀当時、ヨーロッパの庭園と言えば、フランスのヴェルサイユ宮殿の様式が主流だった。だがイギリスでは、その風土に合わせた人工的ではない風景のような庭が好まれた。ここはまさにその典型のようで、石造りの橋のかかった川。その川をせき止めて造られた湖、そしてその向こうには、古代ギリシャ神殿を模して造られた寺院の柱と屋根が見える。
 澄んだ空気の中を、炎のように燃え立つ紅葉の木々を眺めながら歩くと、本当に一枚の風景画の中に迷い込んでしまったような錯覚を覚えるほどだ。

「古代ギリシャの詩的情景が、実に見事に再現されている。ホーマーの詩でもそらんじたくなるな」
 呟く侯爵の目にも興奮の色が浮かんでいた。芸術と美をこよなく愛するスコットランド貴族のお眼鏡にも、大いにかなったようだ。
 のんびり歩きながら、絵のような美しさを堪能していた二人の目に、馬に乗って近づく紳士が映った。身なりから中流階級のようだが、なかなか堂々と乗りこなしている。
 相手はこちらに近づいてくると、馬から降りて丁重に一礼した。
「失礼いたします。アシュバートン侯爵閣下と奥方様でございますね」
「そうだが……」
 頷くと、温厚な微笑を浮かべる。
「我が主じメイヒューとご令嬢が館でお待ちでございます。まずはそちらにご案内させていただきます。散策はまた後ほど改めて、ということでいかがでしょう」
「君は? この土地の管理人かな?」
 黙って検分していた侯爵が尋ねると、彼は穏やかに頷いた。
「ジョーンズと申します。お見知りおきくださいませ」


 メイヒュー家の館は少し離れたところに瀟洒なたたずまいを見せていた。
「ようこそお越しくださいました。本当に嬉しいですわ」
 ジョーンズの案内で二人が立派な造りの正面玄関から入っていくと、ミス・サラが使用人達を従えて待っていた。
 相変わらず地味な身なりだが、落ち着いた表情で指図をしながら、二人をサロンに案内し、お茶を運ばせ接待する。老メイヒューは、容態がさらに悪くなり、意識が混濁したまま戻らない日が続いているらしかった。
 目に浮かぶ涙をこらえ、今はただ医師の指示に従っていると言う。侯爵は沈黙し、ローレルは同情の涙を浮かべて、思わず彼女の手を握り締めた。
 お茶が済むと、サラ・メイヒューはジョーンズと共に、侯爵とローレルを庭園の神殿風建物まで案内していった。おそらく三十そこそこだろうと思われるが、静かな美しさと上品で落ち着いた物腰のミス・メイヒュー、そしてそんな令嬢を守るように寄り添っているジョーンズ。二人の間に時折交わされる無言の眼差しに、隠そうとしても現れてしまう思いが垣間見え、 ローレルははっとした。
 なるほどね。それで、ミス・サラは結婚を嫌がっているんだわ。
 そう思い当たるとさらに同情心が沸き起こってくる。
 確かにこの館の令嬢と土地の管理人では、身分の問題はあるだろう。だが、二人はとてもお似合いだと思われた。
 何より、これほど素晴らしい庭園と館を、誰よりもよく理解しているミス・サラが相続できないというのは、何とも惜しい話だ……。


「ではまた後ほど……。晩餐までお部屋でごゆっくりとおくつろぎくださいませ」

 ミス・メイヒューが出て行き、客室に二人きりになると、ローレルはそそくさと夫に歩み寄った。
「あの二人、とてもお似合いだわ……。あなたもそう思いませんでした?」



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14/9/18 更新