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モンテカルロ


 カジノ……。その魅惑的な場所は、一瞬にして人の運命を狂わせることもある。

 アビゲイル・コートニーは、もう何度目かのため息をついていた。
 まだ宵の口から、きらびやかな光に彩られたモンテカルロの伝統的建造物、国営カジノには、ヨーロッパ中、さらには東洋からも名士やレディ達が集っているようだった。皆、クラッシックなカジノにふさわしい装いで、グラスを手にさざめくように笑み交わしている。

 二十二歳になったばかりの彼女には、全く馴染みのない場所だ。そもそも、ここに足を踏み入れてよかったのかどうかさえ、危ぶみたくなっていた。

 ロンドンの公立カレッジを卒業後、秘書として父の事業を手伝っているが、この一年、その事業成績が近年まれに見るほど高調子だった。それを祝して、父とふたり、少し早い休暇旅行に南フランスを訪れたのだ。
 休暇先から、ここ、モナコ公国モンテカルロまでは、ほんの数キロの距離だった。観光がてら、ほんのひと時立ち寄るつもりで訪れたにすぎなかった。

 普段はパンツスーツ・スタイルで働いている彼女も、場違いの不名誉を被らないよう、一枚しかない襟ぐりの大きく開いた光沢のあるパールホワイトのロングドレスを着け、たらすと背中の半ばまで隠す月光を編んだような金髪も結いあげていた。母の形見のエメラルドのネックレスが、海の雫のようなブルーグリーンの瞳によく映えている。
『清楚』という言葉に実体を与えたようなその姿は、来場中の多くの紳士達を振り返らせていた。だが、そんなことに気付くゆとりもないまま、アビーは父の傍ではらはらしながら成り行きを見守っていた。
 今のところ、父は順調に勝っているようだ。運試しに始めたルーレットでチップがどんどん増え、たちまち一年分の収入を超えたと目を輝かせている。そして、幸運の女神が微笑んでいるうちに、と、止める娘の言葉も聞かず、次のテーブルに挑み始めてしまった。


 本当に仕方ないわね……。
 またため息をついたとき、背後からよく通る低い声がかかった。

「マドモアゼル、よろしければお飲み物を。あなたのような美しいご婦人にそんな顔をさせるとは、お連れも罪作りなことだ」

 驚いて目を向けると、ボーイが銀のトレーに乗ったグラスを丁重に差し出している。その傍らには、ダークスーツの長身の男が立って、自分をじっと見つめていた。
 少し長目の黒髪に日焼けした浅黒い肌。顔立ちはドキッとするほど整っている。だが、顎の線に一筋縄ではいかない意志の強さが窺えた。それ以上に、強い輝きを放つアイスブルーの瞳に目が吸い寄せられてしまう。
 話しかけてきた英語は流暢だったが、アクセントから、英語圏の人間ではなさそうだ。動かずにいるアビーを見て、彼はボーイのトレーからカクテルグラスを取りあげると、目の前に差し出した。
「あの……?」
「ごく甘いカクテルですよ。もう少しリラックスすることだ。そんなに心配そうな顔ばかりしていないで、今宵をもっと楽しめばいい」

 まぁ、通りすがりの人に見咎められるほど、ひどい顔をしているのかしら……。
 そう言えば、さっきから父の心配ばかりしている。その事実に気付き、アビーは小さく頷くと、彼からグラスを受け取った。
「……おっしゃる通りかもしれませんわ」
 ようやく伏目がちに微笑み返すと、男の口元も和んだような気がした。そのときふいに彼が、指でアビーの頬に触れた。
「そう、君は笑っていた方がいい。幸運を……」
 思わず頬を染めた彼女をそのまま残し、立ち去っていく後ろ姿が、きらびやかなライトの中に溶け込んでいく。

 彼は危険だ。近付かないほうがいい。見送りながら、アビーの中でなぜか本能的に大きく警鐘が鳴っていた。



 そろそろ深夜にかかる頃になっていた。疲れたアビーが休憩室で一休みして再び戻って見ると、父はカードゲ−ムにすっかりのめりこんでいるようだった。
 ポーカーという、もっとも古典的なそのゲームには、過去から現在に至るまで、男達の心を虜にする魔が付いているのかもしれない。
 時に、その魔にすべてを食い尽くされるまで、魅入られていることにすら気付かない……。


 父の前に置かれたチップを見て、ぎくりとした。今、どれくらい負けているのかしら?
 しかも今、勝利の女神は、同じテーブルの反対側についた一人の男に集中的に微笑んでいるらしかった。
 それが、先ほどカクテルを渡してくれた男だと気付き、アビーの心臓が激しく波打った。

 数人いたカードテーブルの男達が、一人、また一人と勝負から降りていく中、ついに、父の対戦相手はその男だけになった。
 ディーラーが、やや興奮ぎみに掛け金を復唱するのが聞こえ、慌てて父に駆け寄る。父からは強烈なアルコールの匂いがした。

 ああ、なんてこと! こんなにお酒を飲んでいたなんて……。これでは真っ当な判断など、到底できなくなっているに違いない。
 やはり目を離すのではなかった……。


 激しい後悔にかられ、アビーは相手の男に非難のこもったまなざしを向けながら、父の耳元でささやいた。
「お父さん……、お願いだから、もうやめて。このままじゃ大変なことになってしまうわ。もう部屋に戻りましょうよ」
 だが、父はかなり怒気を帯びているようだった。赤くにごった目で対戦相手を憎々しげに睨みつけ、腕にかけられたアビーの手を邪険に振りはらった。

「うるさい! 黙って見ていろ。たった今、やっと幸運の女神が舞い降りてきたところなんだ。これで、わしにもツキがめぐってきたぞ。今までの負けを一気に取り戻して、何倍も勝てる。どうだ! 見ろ、スペードのストレートフラッシュだ!」

 父の手は、9からキングまでがずらりと並んだストレートフラッシュだった。これ以上のカードは、確かに滅多に出るものではない。
 おお、と周りから声が上がった。息を殺して、アビーは対戦相手を見やった。カードテーブル越しに、男が青い顔ではらはらしているアビーに、わずかに視線を走らせた。いやな予感がして、咄嗟に目をそらせてしまう。

 次の瞬間、彼は無言で手持ちのカードをさっと取り上げ、開いた。
 クラブのロイヤルストレートフラッシュ。

 周囲で固唾を呑んでいた人々の間から、更なるどよめきが起こった。父は呆然とした顔で、ただ相手を眺めている。
 具体的にたった今、どれくらい負けたのか、アビーには見当もつかなかった。だが、父の負債が一気に途方もない大金になったことだけはわかった。

 血の気が引く思いをしながら、果敢に父を慰めようとする。

「大丈夫よ、お父さん……。こんなの、たかがゲームじゃない」
「そう、たかがゲームだ。だが、そのゲームで破滅する人間も世の中には多いってことを、もっと早くお父さんに思い出してもらうべきだったな。マドモアゼル、この賭けは僕の勝ちだ。賭け金は全部で一千万ユーロほどになる」
 一千万!
 絶望したように頭を抱え込んだ父の頭越しに、自分に向かって話しかけられた冷酷な言葉に、アビーは蒼白になって相手を見つめた。鋭い輝きを放つアイスブルーの眼がアビーを射る。

 男の精悍な顔立ち以上に、その目の冷たさが印象的だった。この人に人間的な情で訴えても通じない。とっさにそう感じたほどに……。

 当たり前のように勝負がついた今、人々はしらけた顔で立ち去り始めていた。確かに、この世界的賭博ルームでは、よくあることかもしれない。だが、父と自分にとっては、全財産をはるかに超える大金だった。


 まさか……、たかがポーカーで全財産を奪い取るようなこと、できるはずがないわ!
 今や傍目にもわかるほどぶるぶると震え出した父を抱き締めようとするが、父はアビーのやさしい手を振り払い、やけくそのように置かれていたブランデーグラスの残りを一気にあおった。
 ふいに、狂ったような笑い声を上げ始めたので、ぎょっとする。
「わっはっはっは、これでわしは一気に破産するわけか。どうだ、満足したか? ええ? この強欲なギリシャ人の豚野郎めが!」

 ギリシャ人?

 その男の背後で、ブラックスーツの屈強そうな男がとっさに前に出ようと動いたのがわかった。
 だが、罵声を浴びせられた当の本人は、対戦相手の断末魔の雄叫びなど、どこ吹く風と聞き流して立ち上がった。
 頭を抱えてテーブルにつっぷしてしまったコートニーと、その隣に青ざめて立つアビーをクールに眺め、彼は静かに口を開いた。



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12/08/31 更新
連載開始のご挨拶など、ブログにて。