next





PAGE 4



 何を緊張しているの? 臆していると思われるわ。しっかりして。

 懸命に自らを叱咤すると、ケリーはようやく目を上げて三年ぶりの夫に目を向けた。頭の中で言葉を懸命に探す。だが、彼女が口を開くよりも早く、彼がゆっくりとこう言った。

「おかえり、ケリー」

 意外なその一言にはっとした。もっと激しい皮肉の一斉射撃を受けるものと覚悟していたのに。
 思わず目の前に立つコールの顔を見つめてしまう。どうやら、さっき感じた緊張はケリーの思い違いだったようだ。至極リラックスした態度でこちらに目を向けたまま、唇の端にかすかな微笑さえ浮かべている。
 だが彼女の方は、まだ堅い声しか出せなかった。

「さっき着いたばかりなの。何度かベルを鳴らしたんだけど、お留守みたいだったから勝手に上がり込んでしまったわ。ごめんなさい……」
「どうして謝る必要がある? ここは君の家でもあるはずだろ?」

 ケリーが出てきたキッチンに向かいながら、彼は何気なく付け加えた。
「あんまり長いこと留守にしてたんで、もう忘れてしまったかもしれないけどね」
 コールは完璧にきれいになったシンクと食器乾燥機に目をとめ、ヒューッと口笛を吹いた。とびきりの笑顔を向けられ、心臓の鼓動が一瞬跳ね上がる。
「ありがとう、こいつは助かったよ。今からここを片付けるなんて、考えただけでうんざりだったんだ」
 そう言いながら、再びダイニングの方へ歩いていく。

「朝食は? もうすませたのかい?」
 南向きの大きな窓から陽光が降り注いでいるダイニングで、彼女と再び向きあいながら、コールが訊ねた。
「ええ、バーフォードに入る手前のパブで……」
「じゃあ、コーヒーでもいれよう。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
「……コーヒーはわたしがいれておくわ。着替え、ゆっくりでいいわよ」
 つい、そう言ってしまってから、彼の目がまた注がれるのを感じ、少しきまりが悪くなった。さっきから、何だかここの主婦みたいに振る舞っている。バツの悪い思いで、ケリーはカウンターに立っていった。
 コーヒーメーカーをセットするため、棚にしまってあったコーヒー粉もたやすく探し当てた彼女を、コールはじっと見つめていた。



 十分後、彼が着替えて戻ってくると、部屋はコーヒーの豊潤な香りに満ちていた。ケリーは二人分のカップにそれを注ぎ、テーブルについた彼の前に一つ置いた。
「うまいな。君は元からコーヒーをいれるのが上手だったっけ」
「コーヒーは仕事中によく出すから……」
「そうだろうね」
 二人は向かい合って座り、しばらく黙ってカップを口に運んでいた。ゆったりとした沈黙が流れる。出し抜けにコールが右手を伸ばし、彼女の肩で切りそろえたシルクのような金髪にそっと触れた。
「変わらないね、君は……。元気でやっていたかい?」
「ええ、もちろん」

 あなたの方こそ、彼女……、アメリアとはあれからどうなったの?

 真っ先にそう問いたかったが、言葉が喉につかえてしまった。彼の手を避けるように顔を背けると、彼はゆっくりと手を引っこめた。
 二人を取り巻く空気がまた緊張したことに舌打ちし、当たり障りのない話題を探して、少し気になったことを訊ねてみる。
「表に『B&B』の看板が出ていたけれど、あれはアクセサリーか何かなの? まさか、あなたが『B&B』なんかやっているはずはないものね」
 コールがにやりとした。片方の眉が皮肉っぽく上がる。
「突然放り出して三年このかた、連絡ひとつなく忘れ去っていた夫の近況も、少しは気になるかい? 僕がそういうのを開いてたらおかしいかな?」
「……だって……」
「実は、去年の秋口から始めてみたんだ。そんなに熱心に営業しているわけではないが、気晴らしにはなるよ。冬場は開店休業状態だったけど、春になったら途端に客足が増えてね。お陰で買い出しやら、朝食の支度やらで結構キリキリ舞いしてる」

 夫の態度はいたってフランクだった。ちょっとおどけたような口調も、初めて会った頃と少しも変らない。意外なほどに。
 ケリーの中で、幾重にも張り巡らせていた防御の壁が、少し解けるのを感じた。
「あら、商売繁盛なら結構じゃない。この不景気に文句を言うなんて、贅沢よ」
 茶目っ気をもって応じながら、やはり聞いてしまった。
「でも、どうして? あなたの仕事は絵を描くことでしょう?」
「もう描いてないんだ」
 コールはさらりと言った。驚いて目を見張ったケリーをちらりと見やり、彼女が何か言うより早く、気軽に付け加える。
「大体、空き部屋をそのままにしておくのも、もったいない話だろう? こんなに広い家なんだし」
「もちろん、あなたの家だもの。あなたの自由よ。だけど……」

 いったいどうして、そんなにあっさりと描いていない、なんて言えるの? あなたにとって何より大切なことだったはずでしょう……?

 言葉が今にも出かかったが、実際に問いかけるのは、ためらいを感じた。そこでケリーは、さらに現実的な質問を続けた。
「でもいったい誰が、客室を整えたり、掃除をしたりしているの? そういうことも、あなたが全部やっているとか?」
「そうだって言ったら、笑うかな?」
「信じられないだけよ!」
「普段は僕がしてる。でも、週に一度、近所のミセス・グリーンに来てもらってるんだ」
「どういうこと? 以前のあなたは、あれほど熱心に全身全霊でカンバスに向っていたじゃない!」

 ついに言葉がはじけるように飛び出してしまった。詮索すまいとの決意がもろくも崩れ、彼女は力なく首を振った。
「どうしたっていうの? 何があったの?」

 彼は何も答えなかった。ただこちらを見返した瞳の奥で、何か激しい感情が炎のようにゆらめき、燃え上がったような気がしてぎくりとした。だがそれはすぐさま、穏やかな微笑の陰に隠れてしまった。

「そういう君の方こそどうなんだい?」
 空になったコーヒーカップを弄んでいたケリーの手から、カップを取り上げ二杯目を注いでくれながら、今度はコールの方が問いかけてきた。
「どうって……、何が?」
「君の会社、売り上げも上々みたいだし、株価も伸びてるね。だが、その分、経理の仕事なんか、かなり急がしくなってるんじゃないかと思ってさ」
「どうしてそんなことまで知ってるの? あれ以来、あなたに会うのは今日が初めてだし、電話やメールすら……。まして今の職場のことなんて、一度も話してないわ」
 また驚いて、声が高くなった。咎めるように睨み返した視線を悪びれた風もなく受け止めて、コールはさらりと答える。
「自分の妻が、どこで何をしているかぐらい、知っていて当然だろう?」
「いつの間に調べたの?」
「調べるってほどじゃない。ロンドンで、君の友達に偶然会った時に教えてもらっただけだよ」
 なぜか、ちょっとがっかりした。いったい誰に聞いたのだろう?

 まあ、いいわ。そんなことより、そろそろここに来た目的を果たさなくては。こんなことばかり言い合っていても、話は全く進まない。
 ケリーは居住まいを正すと、努めて冷ややかに切り出した。

「それで……、先日、わたしが出した手紙、読んでいただけたかしら?」
「ああ、読んだよ」
「同封した書類も?」
「一応は見たけど」
「それはどうも。で、サインしてくださったんでしょう? 今日はそれを受け取りに伺っただけなの。あなたが送り返してくだされば、もっと手っ取り早く済んだのだけれど」
「……いや。していない」
「どうして? わたしはあなたに慰謝料も何も要求しようとは思わないわ。もし、あなたがそれを心配しているならね。第一、あなたの方でも、離婚することに何の異存もないでしょう? 事実上、わたし達の結婚生活はとっくに終っているんですもの。そろそろきっちり、書類の上でも片をつけるべきだわ。こんな中途半端な状態でいるのは、あなただってうんざりして……」
「いいかげんにしろよ!」
 突然、コールの鋭い声が、ケリーの長口上を遮った。
「うんざりしてるのは、君だろう?」
 彼は椅子にぐっともたれかかった。表情が曇り、金茶色の瞳が冷たい熱を帯びて煌いている。
「なるほど、君が突然来た理由がよくわかったよ。で、そんなにも急いで自由の身になりたいと言うからには、それなりの理由があってのことなんだろう? 誰か男がいるんだな?」
 コールはケリーの心まで射抜くようなまっすぐな視線を投げかけると、ずばり切り込んできた。
「そいつにプロポーズされたとか? それで、厄介な書類上の亭主の存在を、やっと思い出してくれた、ってところかい?」


nextTopHome


----------------------------------------------------------
12/06/11 更新