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PAGE 7


 そのままコールは、まるで壊れ物でも扱うように、そっと敷き物の上に彼女を横たえた。乱れた金髪を撫で付け、唇が繊細な顔の輪郭を確かめるように辿っていく。
 愛おしむような愛撫を受けながら、ケリーの中で長い間凍りついていた感情が、ついに完全に溶け去っていくのを感じた。
 思いが彼に向って溢れていくのを、もう止めることはできない。その危さにまた目眩を覚えたが、今は自分を守ることより、彼を求めることの方が、はるかに切実な欲求になってしまっている。

 コールは、そんな彼女をじっと見つめていた。まるでケリー自身にもよくわからない問いへの答えを探しているようだった。
 やがて彼女に覆い被さってくると、両腕できつくきつく抱き締めた。
 ケリーは夫を押しのけるかわりに、自由になった両手で、彼を受け入れ包み込むように抱き締めた。彼の背中が大きく震える。ついに自制心が切れたようにうめき声をあげて、彼は再び唇を重ねてきた。

 さっきよりも一層激しい、切羽詰まったキスだった。遠慮も労りもない、ただ突き上げる欲望のままに彼女の唇を開かせ、むさぼるように探っていく。ケリーも彼に合わせて舌を絡めていくと、彼の全身が再び緊張した。
 下腹部に彼の高まりが押し当てられているのが、薄い服地越しに嫌と云うほど伝わってくる。

 彼女の喉から苦しげな喘ぎが漏れても、彼はまだ唇を離そうとはしなかった。渇ききった者が、その渇きを満たそうとするように、口づけはますます深まり切迫していった。いつしか時間の感覚がなくなり、彼女自身も、彼と別れてから自分の中にぽっかり空いたまま満たされなかった空洞、彼にしか満たせないその空白を満たしてほしいとせがむように、夫のたくましい胸にしがみついていた。
 彼が離れた時、思わず大きく息を吸い込んだ。それでもまだ彼の頭を抱きかかえたまま、このキスをやめないでと祈っている自分に気付く。そんな思いを気取られたくなくて、目を開けることはできなかった。
 彼の唇は再び彼女の頬から柔らかな耳たぶをさ迷い、ゆっくりとうなじまで下りていく。
「ケリー、ケリー」
 貪欲なキスの合間に彼のかすれた声が、幾度も自分の名を呼んでいた。彼の手がブラウスにかかり、ボタンが外されていくのがわかっても、そのまま彼の腕の中でじっとしていた。むしろ密かに待ち焦がれていた。
 だが、感じやすい柔らかな膨らみに、彼の唇が触れはじめると、その痺れるような感覚に思わず声をあげてしまう。

 その声にコールは我に返ったように顔を上げ、唐突に身体を起こした。欲望の暴走を食い止めようと抗っているように、額にうっすら汗が滲んでいる。
「コール……」
 ケリーは半ば懇願するように彼を見上げて呼びかけた。それに応えるように、彼はゆっくりと彼女を見下ろし何かささやいた。だがその言葉は彼女の耳に届く前に、風の中に消えてしまう。切ない光をたたえた金茶色の瞳が、陽射しの中で陰る。荒い呼吸の中でもう一度、彼の両手が彼女を引き寄せた。
 重なった胸に、どくどくと脈打つ二人の心臓の音だけが、共鳴し伝わってくる。
 静かな午後の陽射しの中、二人は身動きもせず、しばらくじっと抱き合っていた。


 やがて、夫の手から力が抜けていった。
 コールは彼女をしゃんと座らせると、乱れた服とさっきのキスで赤く腫れた彼女の唇に一瞬目を落とし、やりきれない、というように目をそらせてしまった。
「全く目茶苦茶だ。こんなつもりじゃなかった。……なんて、今更弁解しようもないな」
 ふうっと大きく一つ息を吐き出し、コールは立ち上がった。苦々しく唇を歪めて呟くように言う。
「君に触れたらどうなるか、十分わかっていたつもりだったのに……」
「コール、わたしも……」
 嫌じゃなかったわ……、わたしもあなたを……。

 けれど、彼の突然の拒絶に合い、言葉は喉に張り付いてしまった。彼が背を向け、ランチボックスを取りあげたので、ケリーはなかなか止まらないボタンに苦労しながら衣服を直すと、急いでその場を片付けはじめた。
 まだ全身がほてっているような気がする。
 やがて二人は無言のまま、かなり距離を置いて歩いていった。

 彼と離婚するために来たんでしょう? だったら、これでよかったじゃないの。

 先に立つ彼の広い背中に、なぜか泣きたくなるほど惨めになりながら、ケリーは懸命に、自分にそう言い聞かせていた。


◇◆◇  ◇◆◇  ◇◆◇


 二人がハウスに戻った時には、午後四時近かった。
 彼女を一階の一番奥の部屋に案内するなり、コールはさっさと二階に上がって行くと、ケリーのことなど忘れたように、徹底的に客室セッティングをはじめてしまった。
 客は何時頃来るのかと、階段の中ほどから呼びかけても、返事もしない。
 ケリーは迷った。だが本物の客が来るなら、こんな格好で客のように取り澄ましてソファーに鎮座しているわけにもいかないのではないか。

 仕方がないわね。ケリーはコールが外へ出ていったのを見届けてから、思い切って今は一階になっている彼の寝室のドアノブを回した。ほとんどは以前二階で使っていたものを、降ろしてきただけのようだ。だが、自分のいた痕跡は、当然のように跡形もなく消え去っていた。
 その部屋の半分を占める大きなベッドを目にした途端、さっきの丘の上での情景が蘇り、ケリーはそれを振り払うように激しく頭を振った。
 彼はここでアメリアと、愛し合ったことがあるのだろうか……。
 またしても浮かび上がろうとする危険な考えを、無理矢理意識の外に押し出すと、彼女はクローゼットを開き、手ごろな衣服はないかと物色しはじめた。
 自分の服は一つも残していかなかったから、探しても無駄だと分かっている。だから夫の一番細身のジーンズと白いTシャツを勝手に借りた。足首を折り曲げ、ベルトでしっかりとめる。Tシャツももちろん大きすぎるが、これで動きやすくなった。

 その後は、B&Bの客室になっている二階の部屋を見て回った。落ち着いた暖かいアイボリーとオリーブグリーンの壁紙に張り替えられた各部屋には、彼の描いた小さな水彩画がアクセントのように飾られている。 ベッドとチェストは新しく入れたようだ。ベッドに壁紙に合わせたリーフ模様の、気持よく眠れそうなキルトがかかっている。彼のセンスのよさが窺えた。バスルームの小物もほぼ完璧にそろっている。

 まだ時間があるので、冷蔵庫の中身を確認したり、朝食を出すテーブルのクロスを探して替えたりした。その後、庭から切ってきた薔薇を何個所かに体裁よく生け、いつ人が来てもいいように電気ポットをかけてお茶の準備を整えた。
 そんな細々したことをしながら動きまわっているうちに、何だかすっかりB&Bの女主人になったような気分になってくる。


 キッチンで物音が聞こえた。コールが夕食を作っているようだ。しばらくして呼ばれたので入っていくと、彼はケリーの全身に目を走らせてから、無表情に椅子を引いてくれた。そして彼女が座ると、黙々と食べはじめてしまう。
「服を借りたわ」
 ケリーが話しかけても、返事とも言えないそっけない声で答えるだけだった。
 料理は凝ったものではなかったが、充分においしかった。一口食べて率直にそう言ったが、彼はこちらを見ようともしない。
 沈黙の中、ただテレビの音だけが流れていく。思い切って話しかけても、今度はコールの方がまるで全身にバリケードを築いてしまったように、全く取りつく島がなくなっていた。

 あまりにも気詰まりな夕食だった。昼間のように、気軽に話しながら食べたら、さぞおいしいだろうに。
 それでも、動き回ったせいでお腹はすいていたらしく、皿はたちまちきれいになった。

 時折彼の表情を窺うが、彼の思いはまったく読みとれない。
 ただ一つだけ、嫌というほどはっきりしていることがあった。さっき丘の上で衝動的にとった行動を、彼は今激しく後悔しているのだ。
 しかも、自分の方は少しも後悔していないのに……。


 やがて一台の車が到着した。
 テレビを見ていたケリーは、入ってきた車の音に飛び上がりそうになった。だがコールの方は至極慣れたものだった。
 さっきまでの不機嫌さなど忘れたようにドアを開いた彼は、落ち着いた微笑を浮かべて客達を迎え入れた。
 軽快な服装の初老の夫婦が入ってきた。チェックインを済ませる間もにぎやかにしゃべっているその夫人に、ケリーは好感を持った。
 彼が荷物を持って部屋に案内していくのを見送り、何だかほっとする。

 心配したほどでもないのね。

 そんなことを考えていると、もう一台、今度はレンタカーが入ってきた。
 こんなに立て続けに来るなんて……。ケリーは焦ったがコールはまだ降りてこない。仕方がないので自分が出ていき、さっきコールがしていたように愛想よく応対してみた。
 今度の客は女学生の三人づれだった。レンタカーで、この地方の気楽なスケッチ旅行を楽しんでいるらしい。彼女達の話す少しなまりのある英語に、優しい笑顔で応えながら、見よう見まねでどうにかチェクインしてもらった。
 そのまま話しているうちに、ふいに一人が壁の小さな絵に目を留め、目を輝かせて訊ねてきた。

「実はこちら、画家のジョン・グレイアムさんのお宅だとインフォメーションでこっそり聞いたんですけど、やっぱり本当なんですね?」
「ええ……、そうですが……」
 こういう時に何と応えたらいいのか、聞いておくべきだった。分からないので、とりあえず曖昧に微笑む。だが、彼女の返事に三人ともますます活気付いてしまったようだ。
「わたし達、美大生なんです。彼の絵、大好きです。最近描いていらっしゃらないのが、とても残念ですね。彼の絵に憧れて、コッツウォルズに来てみたいとずっと思っていたんですよ」
「まあ、それはどうも……」
「……ありがとう。さあ、お待たせしました。こちらへどうぞ。部屋にご案内しますよ」

 ふいに背後から低く通りのいい声が聞こえ、ケリーは驚いて飛び上がってしまった。
 振り返ると、コールが謎めいた微笑で立っている。三人が嬉しそうに顔を輝かせるのを見て、また複雑な気分になった。

 しばらくすると先の夫婦が下りてきた。食事がまだだと言うので、コールが村のパブの場所を書いた地図を渡し、行き方を説明している。
 それからさっきの学生達が、やや興奮ぎみに下りてきた。ケリーの入れたお茶を飲みながら、コールにあれこれ絵のことを聞き始めた。彼は今、どんな気持で答えているのだろう。
 忍耐強く返事をしている夫を少し離れた所から見守りながら、ケリーは密かに決心した。


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12/06/14 更新